外出事故

「はい、きっちり手に持っていてね、。この紙は肌身離さず持っているのよ?」
「わかた。だいじょぶ、かみ、なくさない」
 デザインの違うキャミソール二枚重ねに七分袖の薄手の上着、七分で細かい刺繍の入ったジーパンにかかとのある白のサンダル。サテラは取りあえずに出掛ける為の服装をさせてみた。
 そして迷子札を何度も文面を考えて作り、防水加工までして首からどこかのスタッフカードの要領で下げさせようとするが、にやんわりと拒否されて手首に引っ掛けるように持たせた。
 上から下、そして後姿とぐるぐるとを回し自分も回って確認をすると、戸惑うの表情に満面の笑みで応える。そしてが気に入っているのを知っていた、白い鞄を持ってくる。
「はい、これを持つ」
「はい!」
 それを見た瞬間に輝く瞳と、今日のお出かけスタイルを決めるまでに何度となく交わした、良い子のお返事がからもたらされる。
「お財布、ここにいれておくわ」
「ありがとうごじゃます」
「ありがとう、ご、ざ、い、ま、す」
「ご、ざ、い、ま、う」
 喋る機会を与えないからか、の発音は一向に上達しない。けれどそれも自分の所為なのだとサテラは苦笑し、裏口へとの背を押す。
「地図、あいうえお表、これ、失くさないのよ? 無理に会話しなくていいから、迷子札にもちゃんと書いてあるから。迷子札の使い方、覚えてるでしょ?」
 サテラが一気にまくし立てると、家から一歩踏み出したの足が止まる。情けない顔が、ゆっくりと振り返ってサテラの顔を見上げてきた。
「あー」
 サテラは一瞬迷うが、の持つあいうえお表に指を滑らす。

 まいごふだ つかいかた おぼえてる?

 はすぐに顔を上げ、「だいじょぶ! ばちぐ!」と笑みを誘われる無邪気さで親指を立てる。サテラは続けて指を滑らす。

 むりに かいわ しなくて いいよ

 その言葉にもは同じ返事をしてきた。その返事に、安心してしまう自分に気づいて、サテラは再び苦笑い。
「ほら、皆に見つからないうちにいってらっしゃい」
「いてきます!」
 元気に手を振るに手を振り返して、サテラはその姿が雑踏で見えなくなるまで見つめた。早く紛れ込んでしまえばいいという思いと、子供が初めてお使いをするような、そんな不安が胸に入り込んでいた。
 そして裏口のドアを閉めると、自分も仕事に戻らねばと急ぐ。今日もの磨いたシルクハットは輝いているなと、そんなことを考えながら。




 やったー! 久々のお出かけだ! お出かけだ!
 なにしよう、あーもうここのお店新しいのになってるよ! 前は何のお店だっけかなと、心の中では大いにはしゃぐは、見た目としては変な箇所がないと言うのに、あたりを忙しなく見渡し立ち止まり隅々まで覗き込むしぐさで、完璧なるおのぼりさんになっていた。
 自分でも分かってるのよ、でも二ヶ月ぶり! 二ヶ月ぶりの外出なのよ!
 せめてもの理性で母国語で雄叫びを上げることなどはしないが、心の中ではリオのカーニバルもかくやという大騒ぎっぷり。見るもの全てが新鮮でならない。
 一つ一つの看板の文字も、カフェテラスのメニュー看板も、全てあいうえお表を見ながら解読していく。としては文字の大部分を覚えた気ではいるのだが、やはりいざとなると不安で表に頼ってしまう。間違っていたり合っていたりを繰り返すと、やはり自分の語学力は低いなぁと認識させられてしまうわけで、大いに不安を駆り立てられた。
「あ」
 文字を読むことに夢中になっていたら、流れる人ごみでぶつかってしまった。すぐに顔を上げて謝ろうとするが、運悪くそのまま人ごみに流され始めてしまう。ぽてっと、軽いが硬さのある何かの落ちる音。
 足を踏ん張ろうと足元に目をやっていたは、それが自分の手首にかけられていた迷子札だとすぐに気づく。何が書かれているかが忘れぬように、サテラの書いてくれた文章の下にはの字で日本語文も加えているのだ。見間違いようもない。
 慌ててしゃがみこんで拾おうとするが、人波は止まらずにどんどんと流されていく。
『あ、まってまって私の迷子札!』
 思わず叫んでしまい注目を集めるが、日本語のため大概の人間は理解できない。その為、周囲の人々はまたを巻き込んで歩き出す。
『いやっ、ちょっとごめんなさい流さないでくださいー!』
 注目を集めたいわけではないが、迷子札がない場合に困るのは。そしてその迷子札を落としたために困っていて、なんだか本末転倒な気がしないでもない。けれどせっかくサテラさんが作ってくれたものだからと、が足を踏み出すと、運良く避けてくださった女性のおかげで少し元の位置に近づけた。が、その女性の後ろから青年の団体様が押し寄せてきて、あっという間に人の流れからは弾き出されてしまう。
『いたっ、たーーっ』
 せめて迷子札を拾ってから弾き出されたかったと、少々贅沢な我侭を思ってみる。
 弾き出されたお陰で打ちつけてしまったおしりを撫でながら、は人波の切れている小道から自分の迷子札があるだろう、その場所を見つめてみる。なんだかちょっと光を反射している小さなものが、あるような無いような。
『せっかくサテラさんが作ってくれたのに』
 心細さを隠さぬままに、はこっそりと呟いた。
 心を決めて、あの人波に飛び込まねばならないなんて。
 そう心の中で嘆いた瞬間、人波を掻き分けて走り抜ける集団を見た。
『……五体満足で帰れますように』
 ちょっぴり、自分の手足が無事なまま帰れるといいなと思っただった。


「ノブナガ、さっきからなに見てんのさ」
 シャルナークがイスを寄せて問うと、髪を下ろしているノブナガが自分の視線の先を指差す。小道で情けない顔をしているだった。
「あれがさ」
 今にも吹き出しそうな顔で、ノブナガはテーブルを指で叩く。向かいのテーブルに座っているパクノダも訝しげに同じ方向を伺う。
「さっきからよぉ、懐かしい言葉喋ってんだよ。ベソかいて」
「懐かしい言葉?」
「日本語って分かるか」
 間をおかず聞き返したパクノダに、ノブナガはにっとばかりに笑いかける。返ってきた言語名に、シャルナークが納得顔で応じる。
「なるほど、そりゃ懐かしいね。わざわざこんなところで、そんな極東の島国からのお客様だなんてさ」
「だろ? しかも聞いてりゃぁ、さっきから日本語しかしゃべってねぇんだよ、あのガキ」
 いかにも言うところのガキに興味がありますという表情を浮かべるノブナガに、シャルナークは大きく肩をすくめる。パクノダは持っていたコーヒーに口をつける。
「ノブナガ、そういうのは仕事以外のときにして欲しいんだけど」
「お、悪ぃ悪ぃ。ついな」
 今日は下見に来たの、と言うシャルナークの言葉に思い出したのか、ノブナガは軽く謝る。けれど視線は固定されたままで、シャルナークが改めて見ると、が人波に突っ込んだはいいが勢い良く弾き出されているところだった。
「はっはっはっは!」
「……ノブナガ」
 オープンなカフェテラスとはいえ、そんなに笑っては目立つと言うのにノブナガは構わずに馬鹿笑いをし始める。パクノダは知らんふりでコーヒーを飲み、シャルナークはもう一度ノブナガの名前を呼ぶ。
 の落とした迷子札は、そのとき数人の通行人の足で蹴られ移動中だった。


『ま、まって迷子札!どこにいくの!』
 テン、テンと次々にどなたかに蹴られ、より先に進みだす迷子札は、光を反射しながらも薄汚れていき、道の先へ進んでいく。このまま行けば小さな広場に行き当たり、下手をすれば排水溝か何かに落ちてしまうかもしれない。
 思っていたよりも小さなトラブルに初っ端からぶち当たって、は人波に流されながら目で迷子札を追う。と、また流れに負けて小さな空間に放り出される。今度は肘のいい所をぶつけ、声も出ずに悶え苦しむ。
 迷子札は、ペテン、ペテンと相変わらず人々に無慈悲にも蹴られて移動中。
 ああもうあなた、いっそのことねずみの巣穴に落ちて! それでおむすびもらおうよ! と、いささか過ぎるほど日本の昔話などを思い浮かべて現実逃避を始めるは、傍から見ればさぞや怪しい人間なんだろうなぁと自覚しつつも、ちょっと腰と肘ともろもろ痛くて動けない。
 迷子札は散歩でもしているかのように、やはり次々と人に蹴られて移動中。とうとう街の歩道などではなくオープンな広場に行ってしまい、ペタンと一回踏まれてしまう。
『あ』
 しかもそれはよりも大きな成人男性の足のようで、大きな磨かれた革靴に下に迷子札は消えてしまう。すぐにまた見えるのだけれど、それはあっという間に真っ黒になっていて、の顔もあっという間に泣きそうなほどに歪んでしまう。
 迷子札は一回踏まれればマゾヒストにでもなってしまうのか、今度は誰かに蹴られたりせずに、ヒールの高いお姉さんの黄色い靴に踏まれてしまう。次は青い運動靴。次は可愛らしい手のひらサイズの幼児靴。
『あ、あ、あ、あー』
 もう立ち上がることすら忘れてそれを見つめてしまう。両手は敷き詰められた歩道に張り付き、おしりもぺったり地面に張り付いて、目だけは涙をためながら迷子札を凝視していた。

 久々の外出なのに、せっかく作ってくれた迷子札なのに、二ヶ月ぶりなのに!

 理不尽だと涙を溜めているを見て、大笑いしてる人物が対角線上のオープンカフェに居るなど、露ほども予想していないは、そのまま四つん這いで移動を開始した。
 表情をきりりと引き締め、こぼれそうだった涙をぬぐい、何してんのよ自分! と、自分で大切なものを取り戻すんだと、気合を入れなおして。
「とうとう四つん這いかよ」
 うわー、あいつ女じゃねぇよなぁ! と楽しそうにひーひー笑い続けているノブナガに、シャルナークはお手上げとばかりに両手を挙げる。パクノダはコーヒーを飲み終わったのか、今度は静かにノブナガと同じくの観察をし始めた。
「パクノダ、ノブナガ諌めて欲しいんだけど」
「おもちゃに夢中になってる今は、何言ったって聞かないでしょう」
「……そりゃそうだけど、仕事だって言うのに」
「放って置けばそのうち治まるわよ。特に強そうな子でもないしね」
 目的の店の閉店時間まで、まだ五時間もあるじゃない。
 シャルナークの心配の元であるだろうことを告げると、知ってるよとばかりに丸い目で不思議がられてしまった。パクノダはそれを感じて、じゃあいいでしょうとばかりに、涙目のまま四つん這いで人々に蹴られ踏まれてしまっているに視線を戻した。
『いたっ!ちょっ、すみませっ、痛っ!』
 一人で大騒ぎしながらは広場を這って進み、迷子札にようやく手が届きそうな位置まで進む。休日の人気スポットな広場には人が山ほど居て、これほど怪しい動きをしているを避けて通る余裕もないらしい。
 の服はもうあちこちに埃やら蹴られた跡やら踏まれた跡やらが、見事にまんべんなく彩色され、ひっくり返った際に引っ掛けたのか、ほんのりと布自体も伸びていた。
 が、本人であるの目は迷子札に釘付けになっており、手を伸ばしてもほんの少し届かない迷子札しか見えていない。あとちょっと、あとちょっとと、思わず見ていたノブナガも手に汗を握る。
『あ』
「あ」
 が、見事目の前で迷子札は通行人に蹴っ飛ばされ、いい所に当たったのか迷子札は弧を描いての視界から消えてしまう。
『あー!』
 しかし、四つん這いの視界から高さの関係で消えてもノブナガたちの視界からは消えず、何の因果か迷子札は人々の頭上を滑空してオープンカフェに鎮座している、シャルナークの足元に不時着を果たした。
「あ」
「お」
「あら」
 三人三様のリアクションで不時着を見届けると、奇しくも三人とも同じ動作での方へと視線を向けた。視線の先のはと言うと、見失った迷子札を求めて明らかに薄汚れた格好で立ち上がり、右往左往と広場をさ迷い始めていた。
「あ、こけた」
 そしてシャルナークの言うとおり、足に力が入らないのか何もないところで一回転を決める。さすがに人の回転威力つきの足は食らいたくないのか、そっとそこだけ人の波が引く。
 見事に広場に大の字になってしまう。けれどほんの少し意識を飛ばしただろう後は勢いよく起き上がって、そっと目立たない広場の一角にあるオブジェの影へと消えてしまう。
 ノブナガやシャルナークからはあまり良く見えない場所だが、パクからは良く見えた。辺りをきょろきょろと見回した後、真っ赤な顔で自分の体をチェックして、無言のまま体中から埃や汚れを叩き落しているが、何の障害もなく良く見えた。
「……女の子ね」
「いや、女捨ててたじゃねぇか」
 パクノダの思わずと言った一言に、ノブナガが鋭く突っ込む。けれどこの場にと精通している人物などいないわけで、シャルナークが口を開く。
「うん、アレはひどいよね」
 なので、誰一人としての恥じらいを認めてフォローまでしてくれる人物はいなかったわけである。
『へくしっ!』
 不思議そうに辺りを見回しながら、手で隠しながらもくしゃみをしてしまう。その目は迷子札を見つけられないのか、どんどん不安そうになっていく。
 けれどその迷子札はシャルナークの足元にきちんと存在していて、しかも横から伸びてきたノブナガの手に拾われてしまう。
 その行動を不思議そうに見るノブナガ以外の二人。ノブナガはにやにやと人の悪そうな笑顔で、上機嫌に笑う。
「ま、恩の一つでも売ってやろうってもんだ」
「こっちになんのメリットがあるんだよ。これから仕事なのにさ」
「ちょろい仕事じゃねぇか、その前にちょっとくらい楽しませろよ」
 野暮だなお前などとノブナガに言われ、さすがに顔を嫌そうにゆがめるシャルナーク。
「ロリコンだったのかよ」
「おーおー、好きに言やぁいい」
 シャルナークの嫌味などどこ吹く風で、ノブナガは席を立つとの方へと歩いていく。
 は広場の地面をきょろきょろと見回すが、自分の服装の汚さにオブジェの影から出られずに見える範囲の地面だけでもと捜索中。そんなを見て、至近距離まで近づいたノブナガは吹き出した。
 反射的に音のしたほうへと視線を向けたの目と、ノブナガの目が合う。
 しばし言葉もなく見詰め合う二人。だが、視線をそらしたのはの方が早かった。
「振られてやんの」
 不機嫌そうに席に座ったまま小さくヤジを飛ばすシャルナーク。パクノダが目線でたしなめるが、聞こえているだろうにノブナガは上機嫌なまま。
「よう、これ探してたんだろ?」
 意図してなのか無意識なのか、ひとまず人の良さそうな笑顔でノブナガが迷子札を差し出すと、の目線が動きにつられて迷子札へとたどり着く。そしてゆるゆると目が見開かれていき、そしてゆっくりとした動作でノブナガへと視線が戻る。
 ノブナガはもう吹き出したくてたまらなかったのだが、野良犬の前に餌を差し出しているような心境でそれを堪える。吹き出してしまえば、一目散に逃げていかれそうだ。それは勘弁してもらいたい、こんなに面白いのに。
 その気になれば逃がすことなどないだろうに、そこへと思考をつなげずにノブナガは堪えた。
 一方、の心境と言えば見知らぬ男性に、そっと探していた迷子札を差し出されて驚きと共に感動していた。ああ、なんて優しい人だろう。でも言ってることが一分の隙もなく分かりません。本気でどうしようと気分が落ち込んでくる。
 親切に迷子札を拾っていただいたのだ、それは分かる。
 けれどこの感謝と謝罪の口上を述べるだろう場面に、はその知識を持ち合わせてはいなかった。自分の年齢に反した端的な感謝の言葉は受け入れてもらえるだろうか。
 迷子札を差し出してくれている目の前の男性を、そういつまでもまたしておくわけにも行かず、は養ってくれているサテラとその両親たちとしか会話をしたことがないのを、本当に後悔した。自分の発音はあっているだろうか、失礼にならないだろうかと。
「ありがと、ご、ざい、ます」
 当たり前のようにたどたどしい発言となってしまう自分に、は歯噛みしたい気持ちでいっぱいだった。
 男性の目を恐る恐る見上げると、その目は嬉しそうにゆっくりと柔らかく緩んでいる最中だった。ほっとの肩から力が抜ける。上手く意味は伝わったようだ。
「気にすんな、ん」
 ノブナガは思った以上にあどけないの対応に笑みが止まらない。何がどうして日本人の少女がここにいるか知らないが、自分のこんな気まぐれに戸惑いながらも感謝しているのだ。可愛いと思って何が悪い。頬の筋肉が緩んで何が悪い。
「うえー、やだやだ。民族限定ロリコンだよ」
 だからシャルナークへのマジ切れも後にとっておくし、今まさにそろそろと迷子札に伸ばされてきている手を怯えさせるようなことはしない。ノブナガは根気よく、その手が迷子札を受け取るまで動かないで居た。
 けれどノブナガは不意に気づいた。先ほどから見ているとおり、迷子札は蹴られ踏まれ飛ばされて砂埃とはいえ結構な汚れ具合。目の前の持ち主はそれ以上にやばい状態だが、迷子札が綺麗で悪いわけではない。
「ちょっと待て」
 ノブナガは片手を上げての動きを止めると、不思議そうに見つめてくる目の前で迷子札の汚れを自分の服にこすり付ける。幸いすぐに落ちる汚れと言うこともあり、何度か擦れば多少の傷はしょうがないとしても、手にとっても指が汚れない程度には美しくなった。
 それを両面繰り返すと、今度こそノブナガはに迷子札を差し出す。
「ほらよ」
 はぽかんとばかりに口をあけてノブナガをしばし見つめたが、小さく頭を下げた。そしてまた、その口からたどたどしくも感謝の意を示す。
「あり、がとう、ご、じゃい、ます」
 驚いているのか先ほどより幾分発音が違うが、それもまたノブナガの好感をくすぐるものであったし、迷子札を受け取ったその指先がほんの少しノブナガの指に触れたのも、またノブナガによっては良いものだった。

 微弱ながら伝わってくるオーラ。それは必要最低限のものしかないというのに、しっかりと安定していた。けれどその安定とは真逆の印象も、同時にノブナガには与えられていた。
 オーロラのように色を変えて姿を変えて濃さを変えて、不安定この上ないオーラ。けれど安定しているとしか言い切れないオーラ。触れていなければ安定も不安定も分からなかった、素人のはずの日本人らしい少女。

 ノブナガは笑みを深くした。

『嬢ちゃん、どこに行く予定だったんだ?』

 の目が、これ以上ないというほど見開かれた。「え」と掠れて口から漏れた音に、ノブナガは悪戯っ子そのものの笑みを浮かべて迷子札ごとの手を両手で包む。
 頭の隅で、そこまでする必要はないと分かっていながら、柔らかく真綿で包むように逃げられないように手を包んだ。
『嬢ちゃん、喋れねぇんだろ? こっちの言葉は分かるんだよな?』
 最初の問いかけは主語のないものなのに、次の問いかけも具体的な示唆はされていないのに、は自然に頷いた。目の前の男性は自分を知っている人だったのだろうかと、この半年で狭くなってしまった思考能力がありえない可能性を弾き出す。
 そして自分がこの半年で見慣れてしまった言語が、どこの世界のものかをはっきりと思い出してしまった。にとっては忘れることも出来ずに、即座に関連付けてしまう人の名前と共に。そう、その中の一人は着物を着た男性だった。髪は長い人だった。あごひげを蓄えてる人だった。
『俺の名前はノブナガってんだ、嬢ちゃんの名前は何だ』
 悪戯っ子な笑みが名前を問う。
 は可能性を考えた。目の前の男性が幻影旅団のノブナガかどうかの可能性を、目を見開いたまま考えた。髪を下ろした目の前の姿から、漫画で見た人懐っこい笑みを張り合わせてみる。けれどなかなか上手くいかない、動揺してるのだろうか。つばを飲み込む音が、嫌に耳の奥で響く。
 耳鳴りすら始まりそうなの身体状況を、ノブナガはつぶさに観察していた。
 は何度かつばを飲み込むのに失敗し、やっと成功したところで小さく息を吐き出す。けれど緊張は緩まずに、震えながら唇を動かす。
『わ、わたし』
 ああ、そう言えばこれは久方ぶりのことだ、とのどこかが確認する。
 これは久方ぶりのことだ。下手をすれば、一生たどり着けなかったかもしれない「久方ぶり」の出来事なのだと。
 この半年でつたないながらも声で会話をした人間は、拾ってくれたサテラ、サテラの両親である二人、その二人の友人だと言う夫婦の二人、全部で五人しか居なかった。改めてその事実を確認したの胸は高鳴った。
 先ほどとは違う緊張と、高揚と、期待と、好奇心が一斉に体から溢れ出すようだった。
 張り詰めていた糸が満を持して地面に落ちていくように、の頬の緊張はあっけないほど崩れていった。感情の全てが当たり前のように喜びを微笑みに変えていく。はノブナガに笑みを向けた。
『わたしは、と言います。初めまして、こんにちは、ノブナガさん』
 ノブナガは、触れていた手にほんの少し力を加えて、その微笑みを受けた。
『初めまして、
 互いに触れ合っている手は暖かく、互いの笑みは心地良かった。
 そしてお互いにそう感じていることを、不思議と理解し合っていた。
 ノブナガはもう一度同じ質問をする。今度は答えが返ってくることを確信していた。
『じゃあ、これからどこに行く予定だったか、聞いてもいいか?』
 ノブナガの確信は的を射たものだった。が楽しそうに声をこぼして笑う。ノブナガの手の中から自分の手を引き寄せ、自然に迷子札を鞄にしまいこむ。
『久々の外出だったので、まだ予定がないんです。ノブナガさんのご予定は?』
『そうだな、行かなきゃならねぇ店があんだけどよ、まだ時間が空いてんだよな』
 楽しそうに答えるノブナガの耳に、ノブナガにしか聞こえない音量の声が流れ込んでくる。
「ノブナガ、仕事を忘れてるわけじゃないよね」
「個人的な協力を頼んでいるわけじゃないわ、仕事なのよ」
 二人分のそれは、ノブナガの言葉を軽率だと責めた。けれどノブナガはどこ吹く風でへと言葉を続ける。
『予定がねぇなら、ちょっくら俺達に付き合ってくれよ。時間まで暇なんだ』
『私が?』
 ノブナガとシャルナーク、パクノダのやり取りなどもちろん聞き取れないは、突然のお誘いに多少驚くが、ノブナガの期待に満ちた表情に気づくと感情を殺さずに応えた。
『ええ、喜んで』
 満面の笑みで、は心を込めて返答した。
 ノブナガの笑顔も濃くなり、は促されるままノブナガの後をついていった。
 その先に居るのが呆れ顔のシャルナークとパクノダと言うことを、が数秒後に知ると、その場の三人に分かる程度には満面の笑みにヒビが入った。
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