洋服屋女店主の思考
利用するのは四人の男女
某日某時刻、二人の紳士がそっと言葉を交わした。
それぞれの背後には淑女を伴っており、そちらもたわいない言葉を交わしていた。
どこにでもあるようなレストランの個室での会話は、通り過ぎる際に聞こえてきたとしてもすぐに忘れるようなやりとり。
一通り運ばれた料理と、お互いに渡し合うラッピングされた箱に双方頬を緩める。
「では、約束どおり」
「ああ。では約束どおりに」
けれど油断召されるな。
突如として部屋ごと圧迫される衝撃に、男性たちはテーブルに上半身を打ち付けられ、女性たちは床に膝をついた。
何事かと部屋の四隅にいた者たちが身構えるも、次の瞬間には圧力はたちどころに消え去った。部屋も先ほどまでの圧迫などそ知らぬ顔で、何も壊れず傾かずにそこにあった。
おかしい、と誰かが口にする前にベルが鳴る。一人の淑女がポーチからベルを鳴らすそれを取り出すと、耳に当てて言葉を交わした。
「あなた」
通話口を押さえずに、一人の紳士へと切羽詰った声を上げる。紳士は淑女を振り返り、次の言葉に眉根を寄せた。
「あの子が、今、変な圧迫感の後、部屋に少女が降ってきたと」
何を馬鹿なと笑って一蹴すれば良いものを、その場の誰もそれをできなかった。
「外の誰も、異変など無かった模様です」
四隅にいた一人が、いつの間にか部屋の外で確認をしていた声も、一蹴できない理由であった。
「あなた」
どうしましょうと普段の冷静さなどをかなぐり捨て、淑女がまごつく。
「少女の意識は」
「無いそうよ、眠ってるみたいですって」
紳士たちは顔を見合わせ、しばし考えにふける。けれど、その時間はそう長くは無かった。
「向かおう」
慌しく二組が向かったのは、淑女と紳士の電話の向こう。娘の自宅兼店舗だった。
半年後。
「さてら、ごはん」
「ああ、上手く出来てるじゃない」
「うま? で?」
「上手く、成功」
「ありがと!」
が全開の笑顔を浮かべると、サテラも妹を見るような目で彼女の頭を撫でた。サテラの白くて細くて美しい右手の感触に、の頬が緩む。
「サテラ、もうすぐ開店時間だよ」
「今行くわ。、ちゃんと食べるのよ」
「わたし、たべる、だいじょぶ」
「ん、行って来るわ」
「いてらしゃい」
古参バイト女子の声に、サテラは眼鏡をかけなおすと舌足らずなの頬にキスをする。いまだに頬にキスで照れてくれる妹分が、サテラは可愛くて仕方がない。
自宅のドア二枚とスタッフルームを経由して行き着く先は、サテラ自慢の洋服店。小物も数は少ないが気に入ったものをそろえており、服も半分はサテラ自身がデザインをしている正真正銘の個人店だ。妹みたいなとはまた違った、可愛らしいわが子と言ったところか。
まだ人通りの少ない外を、店の前面にはめているガラス越しにチェックしたサテラは、店内の従業員たちの挨拶に店長としての笑みを浮かべる。
「おはよ、朝礼しちゃった?」
「おはようございます。まだですよ」
よかったとサテラが言うと、自分を呼びに来た古株バイトもとい古くからの友人が、なにやらにやにやと不気味に笑っているのに気づく。サテラはそちらへと視線を移し、何の気なしに口を開いた。
「どした」
けれどそれが運のつきで、気づかぬフリで朝礼を始めればよかったと思っても後の祭り。古い友人だからこそ言える文句が、彼女の口からこぼれ出た。
「いーや。今日もちゃんを店に出しもせずに、独占すんのかなと思ってさ」
「人聞きの悪い。あの子を保護してるだけじゃない」
サテラが馬鹿らしいと応えたとたん、若い世代の従業員たちがキャー!と黄色い声を上げた。男女の垣根なく、黄色い声だった。
「じゃぁ、俺らと会話させてくれないのはなんでですかー」
「文字を指差されて目で追うのも、もういい加減なれちゃいましたけどね」
「ちゃんは、発音と聞き取りがちょっと苦手なだけじゃないですか!」
「会話はすればするほど上達するものだろ。会話させろや」
「可愛い声だってのは知ってるしね」
マシンガンと言って差しつかえない程にわらわらと口を開かれ、慣れているはずのサテラも対応が遅れる。だがしかし、彼らの言い分がここ半年変わらないものだということも分かっているので、虫を払うように手で彼らの体と視線を払っていく。
「あーもー、貴方たちは進歩と言うものを知らないようね」
「進歩させてくれないのは店長じゃないですか。ちゃんにこの国の言葉、ちゃんと教えてるんですか?」
「教えていますとも。あの子の指が、間違った言葉を羅列したことがある?」
「違います! 発音で聞き取りで音でのやり取りです!」
最後に突っ込まれた声に、サテラはそちらへと怪訝そうに視線を向けた。そこには本日は休みのはずのこの店では比較的新人の、男女二人組みがそろっていて、なにやらいつものようにくらいついてきていた。
サテラは開店前だからだといって追い出そうかと思ったが、こういうことはこの店では良くあることなので、いつも通りに振舞おうとした。
「別にオレ、ちゃんの国の言葉でも良いんです。だから会話させてくださいよ!」
「そうそう、私も覚えます!」
「あ、そりゃーいい考えだわねー。サテラ」
けれどそれがいけなかったのか、尻馬に乗って賛成の意を示してくる友人の明るい声に、サテラは目眩を抑えながら両手を打ち鳴らした。従業員である全員の姿勢が一気に引き締まる。
「おしゃべりはそこまで。休みの日なのにわざわざ来た二人は、とりあえず邪魔しないように。今日も新商品入ってるから、気合入れていきまっしょう」
「うぃーっす!」
洋服店としてはいささかドスのきいた声で、サテラの店は回転し始める。
特に問題のない始まりだった。
「ありがとうございましたー」
開店して二時間。そろそろかなと、ちらほら客の入っている店内を見回すサテラ。常連客がレジに帽子とスカートを置いたと同時に、控えめなオルゴールの音が店内に流れ出す。それはがサテラを呼ぶとき専用の音なので、メンバーも知っている常連客もサテラへと視線を向ける。サテラはそれに笑顔で応える。
「ちょっと行ってくるわ」
「……はい」
はサテラに言われない限り店のほうには顔を出さないので、自宅のほうへサテラが向かうべく足を向ける。けれどメンバーの何人かが恨めしそうにサテラを見ているのに気づくと、サテラはもう苦笑するしかなかった。
ある日いきなり店の中に出現した。
大きなバッグに見慣れない文字の本を詰め込んで、意識を失ったまま店内の自分の上に振ってきた。聞き慣れない言葉しか話せないようなのに、なぜか小さな子供が持つような「あいうえお表」なんて物は持っていて、こちらの言葉の聞き取りさえ出来なかった。
何度冷静に考えてもファンタジーな出会いで、自身に聞いてもファンタジーな話しかしてくれなかったのに、なぜサテラ自身信じる気になったのだろう。
気がついたらサテラの部屋だった?
自分は「ニホン」国民?
どうやってここに来たか分からない?
どうやって帰るのか分からない?
なぜ言葉が通じないのかも分からない?
なぜ「あいうえお表」を手にしているのか分からない?
自分の立ち位置が分からずに、泣くことも出来ずにおろおろとしていた。サテラがなんとか自室のベッドに運んだら、程なく目を覚ました寝ぼけ眼の年下の女の子。会話が出来ないと気づいたのはそのときで、なんとかの持っている「あいうえお表」を介して通じたこちらとあちらの事情に、お互いだいぶ戸惑ったものだった。
しかも年甲斐もなくダブルデートをしていた両親とその友人夫婦がなぜか駆け込んできて、そしてまぁ色々話した末にを放り出すなとか言い出したときは、心臓が口からこんんちはするかと思ったものだ。
悪人ではないが心底善人でもないと知っている四人が、口をそろえてを保護しろと言ってきたのだ。お金は出すからとまでの言いっぷりに、サテラは夢を見ているのではないかと疑った。
両親も友人夫婦も会社を経営している。そこそこの規模を持ったそれは、そこそこ敵を作っている。両親たちが原因で作ったときもあれば、よくある逆恨みと言う奴もあるが、とにかく新しく知り合う人間は慎重に選んで懐に入れたほうが、無難な立場ではある。
サテラも分からないでもないので、特にその体制に反対などはしなかったが、なんだその変わり身っぷりはと大いに突っ込みたくはなった。
「さん、お気を確かになさってね。きっと帰る手立てが見つかるはずです」
母親の言う言葉を、サテラは端的に「あいうえお表」でに伝える。は混乱したまま顔でどうにかにっこりと微笑んでいた。それに母親は胸を打たれたのかなんなのか、ゆっくりとサテラの元で養生するよう伝える。けれど初対面の人間の世話を戸惑わずに受ける人間と言うのは少なく、もやはり最初は断ってきた。居る理由がないとは文字でつづり、今は文無しだと言ってきた。サテラは荷物をチェックしていたときにそれは知っていたので、口は挟まなかった。母親の独壇場でもあったので。
「気になさらないで」
そして父親の名前を呼び、いいですねとか何か了承を得て、シンプルだが少し大きな箱を持ってこさせた。父親も友人夫妻もなぜかにこにこしていて、正直不気味だった。
「さん、居る理由なら作ればいいのです」
ゆっくり噛んで含めるような言葉を、サテラはに伝える。は文字を読んで驚き、戸惑った表情で母親の顔を見た。母親は躊躇なくにその箱を渡し、ベッドの上で上半身を起こしただけのは、避ける術もなく受け取っていた。
「これを貴方に預けます。私たちの友人としてね? 折に触れて被ってみても素敵だと思いますわ。手入れの仕方などは、サテラに伝えておきますから、どうぞここにいてくださいね」
サテラはもう一度なんでだと突っ込みたくなった。今日の両親は突っ込みどころ満載で頭が痛い。けれどサテラの指は機械的に「あいうえお表」をなぞっていて、母親はの持たされた箱の包装を解いていた。
どこをどう見ても帽子だった。シルクハットだった。なんだかちょっと高そうな気がするのは気のせいだろうか。けれどどこをどう見ても男性用のシルクハットだった。なんだ、なんの罠だ。
サテラは自分の指でに伝えていながら、の反応が怖かった。ばかげていると思うのならば、最初からに伝えなかったらいいのだ。律儀に指を動かしてしまう自分と、それを一生懸命読もうとしているが憐れでならない。
けれど予想に反して、は嬉しそうにシルクハットとサテラの指先、そしてサテラの母親を見て、遠慮がちにだが微笑んだ。触れてもいいですかと問われ、どうぞと返すとおずおずと震える指先がシルクハットを持ち上げ、その手触りの良さにうっとりしているようだった。
ねだっていたおもちゃを買ってもらったような、憧れるだけで済ますはずのものが偶然手に入ったかのような、そんな表情だった。
あれ以来、はサテラと寝食を共にしている。記憶喪失なのかなんなのか、ファンタジーな出会いを果たしたは文字を完全に覚えるまでの道のりが長く、いまだに「あいうえお表」が手放せないでいる。きっと表がなくても読めるだろうに、披露する機会が少ないので自信がもてないでいるようだ。
その原因はサテラとその両親にあるのだが、はそれに対して不平不満を漏らしたことがない。
月に一度、外出があるかどうかのある意味軟禁生活を強いられているというのに、は文句ひとつ言わない。だからマスターしただろう文字にも自信が持てないのだ。日常会話はそれなりに出来ていてもおかしくないのに、サテラやその両親、友人夫妻としか会話をしていないのも、やはり原因だ。
サテラは店長でもありデザイナーなので、長時間の会話をする時間がなかなか取れない。両親たち四人はそもそも住んでいる家も違うので、会う機会も滅多にない。サテラは閉店後に何とか時間を作ってはみるものの、忙殺されて挨拶のみで数週間過ごしていることもある。
パソコンは教えた。文字が違うだけで、使い方は一緒みたいだとは喜んでいた。けれど住所などを他人に知らせるとか、誰かと深く交流などはしてはいけないと言うと、どこかぼんやりした表情で頷いていた。
防衛のためなの、わかってと言うとごめんなさいと言われるのだが、実際サテラはそこまでを縛る権利が自分たちにあるのか、甚だ疑問であった。両親たちから「もしどこかに誘拐されていた子ではないか」「組織のものに見つかれば、命が危ういかもしれない」などと言われたからといって、一から十まで信じるほどサテラも若くはない。あんな突拍子もない出会いを体験しなかったら、真っ先に警察に駆け込んでいるところだ。
の言葉を元に、彼女の家族を捜してはみた。は見つかるはずなどないとどこか消極的だったが、その言葉どおりに彼女の家族は見つからなかった。まるで最初からいない人物のように。二ヶ月が経った頃、それなりの資金を投じて専門家を雇ったが、答えはまったく同じだった。
「もしかしたら、彼女、流星街の住人かもね」
その言葉を聞いたとき、恐怖がよぎらなかったと言ったら嘘だ。けれどはなぜここにいるかとか、ここに来る前後のはっきりとした記憶を失っていて、生活することすら困難な言語能力しか持っていなかった。それに自身から、流星街の住人ではないと言う言葉ももらっていた。彼女の記憶自体、元々持っていたものなのか操作されたものか、医者に見せても区別がつかない以上、言葉の信憑性は薄い。けれどもし流星街の住人だったとしても、自分たちは奪ったのではないから攻撃されないだろうと高をくくった。そうしなければ平常心が保てなかったからだ。
両親たちはまたかっとんだ思考で持って、逆に安心だとかなんだとか言っていたが、それの意図する事柄をサテラは知らないので気にしないことにした。どっちに転んでも、が命を落とすようなことではないと、なんとなく勘に頼った判断ではあったが、サテラはそういうときの自分の勘を信じた。
「ー、今日のご飯は何かなー」
いつの頃からか、食事はが作るようになっていた。最初は炭としか言いようのないおかずが、それはもう毎回出てきていたが、半年も経てば慣れた部分もあり、美味しいものができるようになっていた。がヒマな部分も一役買っているのだろう。
「さてら、きょう、しちゅー」
途中から空腹をくすぐるにおいに気づき、サテラはビンゴだねと微笑んで台所を覗き込む。添えられるフランスパンも程よく焼けており、パンを宅配にしておいて正解だとサテラは毎回自画自賛する。
が外出したのは、サテラと一緒にが四回、一人では一回と言う、半年の間にしては少なすぎる回数。パン屋にさえも一人で行かせたことなどなく、今現在が笑いかけてくれることが、サテラは不思議でならない。
「いただきます」
「いただきます」
お互い所定の位置について、並べあった食事を口にする。おいしいねと笑い合いながら、サテラはそろそろ時期かと見当をつける。
両親はを滅多なことで外に出すなといった。一人などとんでもないと言った。その理由も大量に何度も何度も呪文のように言い聞かせられ、サテラとしてもが心配で外に出さなかった。自分が付き合いで出掛けるときも、には留守番をしてもらっていた。
異常な関係だと、改めて思う。
だからこそ、ここ二ヶ月はサテラと一緒ですら外出できなかったに、のびのびと外を堪能してきてほしいと思った。
人としての一般常識は持っていると、サテラは確信している。おつかい程度ではなく、多少遊ぶ金も渡して息抜きをしてもらおうと、サテラは口を開いた。
「ねぇ、。いきなりだけど、明日外出してみない。貴女一人で」
は言葉を理解するために数瞬動きを止めた後、不思議そうに首をかしげた。