05.睡眠中
ぼんやりした思考で目を覚ます。いつの間にか朝日のようなものが昇っていて、服装は寝間着になっていた。
「……」
布団の中でまぶたを開いたのだと気づいたとき、は昨日の出来事を反芻していた。
近年まれに見る怪奇現象に遭遇しっぱなしで、昨日のキューピーでマッチョなおじ様だけでなく、可愛らしい少女と可愛らしい犬にも出会ったのだ。
一人と一匹の心温まるしぐさ、声、伝わってくる家族への思慕、埃くさいへや、積み上げられた本たち、明るい女性の声。
「ああ、そっか」
ぽつりとこぼれる言葉は無意識で、自然との頬に涙が伝った。
「どうして」
漫画の読みすぎなんだ、きっと。
心の中で呟いてみる。けれどそれだけでは言い切れない現象。
ならばどうして。
それこそ答えの出ない現象。
めまぐるしく胸をえぐる未来予想図は、の頬を濡らしていく。
「……ん」
身体をもぞりと動かせば、衣擦れの音との身体を覆っている何かがずれる感触。ああ、あのまままた眠ってしまったんだと気づいたは、仕事があるのを思い出すと起きなければと瞼を開けようとした。
「……」
けれど、身体が動かない。瞼すら開けられない。
汚い話だが、目ヤニでも大量に出てこびりついているのかと瞼を擦ろうとするが、布団が鉛のように重くて腕も動かすことが出来ない。
ぼんやり眠気の漂う頭では解決法が思いつかず、訳の分からない現象で疲れきっていた頭はまたゆったりと睡魔に身を任せようと意識がぼやけてくる。
「……起きないね」
寂しそうな、男の子の声が聞こえた。
一瞬、ニーナの声が聞こえてくるのではと身構えていた己に気づいたは、そっと胸中安堵の息を吐く。
けれど、身体は動かない。
男の子の声は、意外に近くから聞こえてきたようで、でも親戚の声でもない。
誰だろうとぼんやり自室に入室できる親類の顔、友人の顔を思い浮かべようとするが、睡魔に半分以上抱き込まれているの意識は上手く模索することが出来ない。
その間にも、どこかしょんぼりと落ち込んでいる男の子の声が、誰かの名前を呼ぶ。返事をする声は、女性の声。若いから、母親ではなく、の聞いたことのない声。
「グラトニー」
妖艶とも呼べる女性の声音が、誰かの名前を呼ぶ。かわいらしい声が、返事をする。
優しく人に触れる音がして、妖艶な声が悪戯っぽい響きで笑う。
ああ、この女性のこの喋り方は、かわいいなぁとぼけた頭でもうっとりしてしまう。
「食べちゃ駄目よ。どうしてここにいるのか、聞かなきゃ」
「うーん、だめかぁ。……たべたいなぁ」
無邪気な会話、本当に残念そうな男の子の声。
よく考えなくても怖い会話なのに、はなんだか得した気分になっていた。
食べちゃ駄目って言われた。
そして食べたいといいつつも、我慢してくれるんだ。
どこのDV被害者の奴隷心理だと言った様な間違った感謝なのだが、生命の危機に瀕していると分かる会話だというのに、は思わず笑ってしまった。
動かないはずの身体が、へらりと締まりのない笑みを浮かべた。
「あら、笑ったわ。いい夢でも見てるのかしら」
「おいしいもの、たべてるの?」
「どうかしらね」
ともすれば母子の会話ともとれるやりとりに、理性が警鐘を鳴らす。どれだけかわいらしい声だろうと、ほほえましい会話だろうと、雰囲気が思わず擬音でのほほーんと描写したくなるようなものだとしても、会話内容は生存本能に警鐘を鳴らす。
やばい、やばい、死ぬ。
内心焦ってはいても、身体は動かずカツリカツリとピンヒールの音が近づいてくる。人の気配がの横たわるベッド脇に感じられたかと思えば、頬を細い何かがなぞった。
「ふーん、本当に眠ってるのね」
「ッ!」
顔近くに吐息が掛かり、身体がびくりとはねた。と、は思ったが、彼女には何の動作も伝わらなかったらしい。
楽しそうに笑う声が細い何かと一緒に顔をくすぐる。
どう考えてもラストさんの武器となる爪と、麗しいお声ですありがとうございました。
泣きそうになりながら、起きてビビっている事実が伝わっていないことに歓喜するが、それと同時に逃げられないほどの至近距離にいることも認識しなければならない。泣きたい。そう思っても動けない以上、涙も出ない。
「……」
「どうしたの、ラスト?」
呼気が顔に掛かる気配がする。音から判断するに、これはラストさんの呼吸ですかぐわしい!
とかなんとか、本当に花の香りがするので変態くさいことを言ってリラックスしてみようとするが、やはり体は動かない。静かな視線が体を這い回る気配がする。花の匂いは優しいが、視線は何かを探るようでピリピリとする、様な気が刷る。
の心臓ははちきれんばかりに鼓動を刻み続けるが、ラストはそれすら感知していないのか、空気が揺れる。
「ねえ、この子に逢ったことあるかしら?」
「んー?」
なんと言う衝撃的な発言。
体が動いていたならば、は勢い良く起き上がり「はぁ!?」の一言でも叫んでいただろう言葉だったが、幸か不幸か相変わらず体は微動だにしなかった。
会ったことがあるはずない。
もしそのようなことがあるならば、漫画越しか液晶越しか、どちらにせよ次元の壁を越えての遭遇ということになる。恐ろしい。あるはずがない。けれど、異世界含めて「自分に似た人間が三人は居る」が適用されるならば、東洋人っぽい人たちも居る鋼の錬金術師の世界なら、まぁありえないこともないのか。とりあえず動けない分、思考をフル稼働させるは、相変わらず自分の頬を爪先や指先で触っているラストの言動にどぎまぎするしかない。
「しらないー」
近寄ってきたのだろうグラトニーの台詞は、無邪気だ。
だがラストは、どこか腑に落ちていないのだろう空気を漂わせている。
ああ、ものすごい否定したい。本当に会った事ないんですよって、否定したい。
が内心ぷるぷる部屋の隅でおびえる犬のような心境だとも知らず、ラストの視線は強いまま。
グラトニーは飽きたのか、の耳にその動作音は届かない。実際は部屋の反対側であくびをして、のんびりしているだけなのだが。
「ねぇ。本当に眠ってるの?」
聞き間違いかと思うほどの、どこか寂しげな声がの耳をくすぐった。触れる体温は、の片手をしっかりと握ったその手から伝わってくる。
「ね、ラストって名前に聞き覚えはないかしら?」
握り締められた優しい力に、どこか思い出そうとしているような苦しそうな声音に、殺されるわけではないのかもしれないという希望が小さく芽生える。
戸惑いながらも、そんな風に接されたら慰めたくなってしまったは、動け動け動けと念じに念じて握られた手を動かすことに成功し、ラストの手を微かな力で握り返した。
「っ!?」
驚きなのか、嬉しいのか、戸惑いなのかには分からなかったが、確かにラストの息を呑む音が聞こえた。