06.困惑中
「ふふ、小さな手ね」
それはあれか、私の手が子供だとおっしゃるんですね。自覚してます!
は相変わらず眠った体勢のまま、ラストはどこか機嫌よくの手をもてあそぶ。
そう、いつものパターンで行けばキャラクターらしき人々と接触し、瞼を閉じたり一定時間らしきものが経過すれば自然と自分の世界に還って来ていたものだから、はすっかり油断していた。
自分が動けば、すぐに還るだろうと慢心していたのだ。
だからこそ、ラストを慰めたいとか甘っちょろいことを考えて実行したりという愚行を犯してしまったのだと、手と言わず指やら爪やら前髪やら、なにやら細々とした箇所をいじくり倒されながら、は猛省する。
見通しが甘かったと、声を大にして反省したい。
そして先ほどから、美しい理想の女性の手やら指やらを持ったラストの手と自身の手が比べられている。ラストの手を基準としてしまえば、大体の女性の手は子供だったり不遇な形に分類されるのではないか、などと典型的に指の短いは自分だけじゃないと思い込む作業に移行しつつあった。
いや、漫画のキャラだから不細工にする方が難しいから!
自分に自分で突っ込んだは、むなしくなって思わずため息をついた。
「……」
「……」
それが体を動かし、本当に口からため息が出た。
思わぬ出来事にはおろか、ラストの動きも止まる。
からは見えないが、ラストの表情は瞬時に凍結されていた。窺うように冷たい眼差しがを見つめていた。
「……目が覚めた?」
声は優しい。なだめるような、怯える子供を保護する慈悲深い母親のような声。
雰囲気すら柔らかいというのに、その目が冷たいだろうことはにとって想像に難くなかった。
むしろ、一瞬開いた無言の空間から察することが出来ないで、空気が読めるとはいえない。
内心硬直しているのだが、体はふわふわ力が抜けた睡眠状態なのをいいことに、は知らん振りすることにした。
私は眠ってます。私は眠ってます。ぐっすりですよー。
漫画ならばの背景に文字で示されているようなイメージで、は握られている手からも力を抜いた。それが反映されることはなかったが、ラストは何か思うところがあったのか、の鼻の前で手を一振りすると、音もなく室内から消えていった。
素人でも、室内で自分以外の人間がいるかどうか、分かる時もある。
「…………」
今は絶対誰もいないと確信したは、思い切って目を開けようとした。
「……」
まぁ、開かないのは予想済みですがね! などと内心板立ちをあらわにするが、相変わらず身体の自由は利かない。
けれど先ほどのラストの反応からいって、にとって良い方向に事が運んでいないのは明白。
死ぬのはごめんだ。
彼女らの残虐性ともいえる無邪気さ、幼さ、大人の知力も和えた無慈悲さは漫画から読み取れる。その彼女が先ほどのような無言と行動を起こした先に、優しいものが待っているとは思えない。
ゆっくりと、毒のように何かが肌に染み込んでいくのを感じる。
「っ!?」
何かわからない感覚に、の思考が止まる。
けれどじわじわと時を置かずに進行していくそれに、まるで空気が全て消毒液か何かになったかのように液体の寒さを感じていた。
注射をする前の消毒なら、液を染み込ませたコットンが何度か肌を撫でるだけ。
けれど重く、冷たく、息も絶え絶えになっていく自分の身体に、は己が身体の終焉を感じた。
あ、死ぬ。
殺されるだとか、殺気だとか、死にたくないだとか、考える前に事実として認識された事項に、思ってすぐ愕然とする。
けれど愕然とした端から、それらが顎を押さえ唇を押し開け歯列を割り舌を弄び。
胃と言わず肺と言わずにの全てを暴こうと体内を侵していった。
味はしない。
確かな質量をもっての侵略に、暴かれるではなく満たされ侵される酸素ではない何か。
息ができない、両手を動かし胸元を掻くこともできない、瞼を閉じていても視界が明滅する恐怖に、は腹から喉も裂けよと絶叫を迸らせたかった。
「っ! っっ!!」
けれど出ない。何も出ない。視界も利かない。身動きも出来ない。
死にたくない。しにたくない。いやだいやだいやだ!
溺れる幼子のように、毒を盛られた高官のように、死を感じ足掻く意思はあれど動かぬ身体に絶望が寄り添っていた。
ぺたり。
肌と肌の触れ合う感覚が、喉に伝わる。
明滅する視界に、誰かの笑い声が見えた気がした。
笑い顔ではない。そも、目は利かず体は動かない。
ただ、確かな感触が己の喉にあるとは認識した。
「おら、落ち着け」
乱暴な言葉の中に智が見えた。知識のある者の、優しい言葉が見えた。
の喉が、何かを迫り上げてくる。野球の球でも呑んでいたような不快感に、息ができていないことを思い出す。
「お、なら出しちまえ」
愉快さを隠そうともしない声だ。
は安心した。「これ」は出していいものなのだと理解して、腹から胸から力を押し上げて、その球らしきものを口の中まで押し上げていく。筋肉が血が早く早く苦しい苦しいと明滅する視界と思考と混濁する意思の中、はやくはやくと気ばかりが急く。
喉に触れていた手が優しくの額に触れる。
足掻くを眼下に見下ろし、手の主は口元に皮肉を湛えた笑みを浮かべ、眼には好奇心を滲ませた色を映していた。
パキリパキリと音を立てて、触れていないもう片方の男の手が変化する。
その手が硬化し、空中の何かを抉る。爪痕生々しく浮かべた空中は、あっけなく薄いガラス細工だったかのように砕け散った。
喘ぐが無様な嘔吐を行う。目を背けるような異臭と音と水音に、けれど男は上機嫌で硬化した手の人差し指を立てた。
「吐くもんまでこんなだとはなぁ」
その言葉の意味はにはわからなかった。ただ喘ぐように足掻いて喉奥からひり出そうとするだけだ。
手は額から離れた。今は体を横向きにしたの顎下をくすぐっている。
ごぼりと、塊が体外へ吐き出される。
げぇげぇと咳き込むの背を、手がさする。
「いい子だ。頑張ったな」
言葉の意味がわからないほどの混濁の中、けれど褒められているのだということは声の調子からは感じ取っていた。
の口の中に、やんわりと指が数本入りこむ。
吐き気がおさまらずに、反射的に噛もうとした動作は背を撫でる手に諌められた。
探るように指が動く。上顎をなぞり歯列を数え舌を弄り、口腔を弄った。
「ふぅん、ねぇな」
何かを探しているその言動に、の体がぴくりと動く。
の口から唾液の糸を引きつつ、指を引き抜いた男はその指を舐めながら笑った。
「しかめつら」
ぐに、との眉間のしわを押さえたその指先は、先ほどまで硬化していた手の方で。
反射的に瞼を開けたは、動く体と開けた視界に驚き、目に入ってきた光に瞬時に目を細めた。
「っ」
フッと、男の小さく笑う息がかかる。
ひくりと身をすくませたが細めた眼をおずおず開くと、視界いっぱいにだれかのいる気配があった。じわりじわりと目の焦点が合うのを待っていると、もう一度眼前の男が笑う。
「見えるか」
「っぁ」
見えたと思った瞬間、男は屈みこんでの耳に言葉を垂らしこんだ。はねる体は男に抱きとめられ、またそっと横たえられる。
「いい反応だ、悪くねぇ。だが、今はちっと休んでな」
落ち着いた声が頭を撫でるにつれて、自分の反応と男の笑いを含んだ宥め声に、は羞恥を悟る。瞬時に真っ赤になった首から上に、男はまた楽しそうに喉で笑う。
「名前は言えるか」
「ぁ、……」
声を押しだそうと、男の顔を恥ずかしさで睨みながらも唇を動かすが、震える喉は音を出さない。
苛立ちに自身の喉へと怨嗟を向けるの視線の先は、近付けた男の顔で塞がれる。
「、な」
面白がる視線を隠しもせず笑みを浮かべる男に、は緩慢なしぐさで頷く。頷く。頷く。ああ動けるのだと知らしめるかのように、初めて両足で歩いた赤子のように、緩慢なしぐさでありながら、何度もうなずいた。
それは男の顔を優しく微笑ませる威力をもっていて、男はためらいもなくの頭を撫でた。
「分かった分かった。何度も頷かねぇでも分かったっつの」
の頭をなでていた手は、そのままするりと後頭部へと回り、近づいた顔がの唇を塞ぐ。
の思考は止まったが、触れる唇は温かい。薄めの唇は、の唇を食みねぶり、滴っていた液を舌に絡めている。
口付けられている。ああ、でもさっき吐いた。
呼吸もしなければならないと、思ってもみなかった事態の進み具合に内心ばっちりと目を見開きテンパるは、動きがたい体、けれど動かないより万倍ましな心境で男の胸元を押した。
添えるような力に、男は笑って二度三度と口付けを繰り返す。男女の差うんぬんより、死にかけていた人間にすることではない。
いや、臭くないんかい。つーか、汚いやろ。
先ほどまでマーライオンもかくやな勢いでの嘔吐を思い出し、ちゅっちゅちゅっちゅ楽しそうに口付けてくる男の心境が理解できない。
「っ」
色事に慣れていないとしては、よくよく考えなくてもファーストキスを奪われちゃったーな事態なわけで、でもそんなこと思い出せないほど苦しかったのはほんの数分数秒前。
目を見開き男を睨もうとするが、瞼を伏せた男の顔にどきりとしてしまい、慌ててまた瞼を閉じてしまう。
ぎゅっと眉間を引き絞ったに、ちらりと様子をうかがった男が喉奥で笑う。
振動でそれに気づいただったが、今度は目を開けずに抗議しようと口を開けば男の下がぬるりと唇を割って入ってきた。歯列をなぞって遊ぶように分厚い熱源が自分の舌に触れた瞬間、の限界を超えた。
「あ、やべ」
男が唇を離したときにはすでに遅く、はベッドの上で男の腕の中にて、意識を手放してしまっていた。
「……」
目を回してぐたりと力の抜けたその体に、男はしばし言葉を探す。
真っ赤な顔と言わず首と言わず耳と言わず腕と言わず足と言わずな様相に、さすがにやりすぎたかと反省をしては見るものの。
「俺、悪い事しちゃった?」
ぽつりとつぶやいて部屋の入り口を振り返れば、頭を抱えた部下三人の視線とぶつかった。