04.仕事中
先日、先々日と連続で不可解な現象に見舞われたは、いいかげんこの状況に絶叫したくなる。わめき散らして当り散らして、片付けを任せて布団に潜り込んでしまいたくなる。
けれどそうできないのは、悲しいかな常識というものを知っているからに他ならない。
「おお、申し訳ない。我輩の不注意で足首を捻られたのですな?」
「……いいえ、こちらの不注意ですので。お気になさらず」
「いやいや、遠慮することはないですぞ。我輩少々医術もかじっておりましてな。しかもヒールも折れている。これは代々伝わるアームストロング家の芸術的錬金術で」
「いやいやいやいや」
力いっぱい首を振り手を振り廊下を尻で後退してみるものの、目の前でキューピーよろしく一部前髪を残したマッチョなおじ様は、の片腕を掴んで離さない。
マッチョ、超マッチョ! と、出会い頭に叫ばなかったのが奇跡と思えるほど、現実離れしたマッチョだと思う。
廊下で上着を脱ぐようなことはなかったが、出会い方も本当に定番過ぎて陳腐だ。
漫画のように会社の廊下を曲がった途端に男性とぶつかる、なんて今日日早々ありえない。しかも会社、まだ仕事中で後2時間もすれば帰宅できるのだ。昨日早退した分を挽回すべく頑張っている自分に、神様はなんて冷たいのだろう。
青い制服の上からも分かるほど筋骨隆々な男性は、あからさまに聞き覚えのある家名を名乗った。は彼の背後を通る青い制服の男女から、本当に心底気の毒そうな視線を投げかけられ、会社内ではありえない青い制服と共に泣きたくなる。同情するなら助けてくれ、わたしゃ仕事がまだあるんだよ。
「大丈夫です、替えの靴がロッカーにありますので」
嘘だったが、この場から逃げ出したいがためには必死でお願いする。しかしキューピーでマッチョな紳士は、「それはいけない」と呟いたかと思うと、床に何かを描き始めてしまった。
どう見ても練成陣です、外れてほしかったですよ馬鹿やろう。
ああもう逃げられないなとが脱力すると、ヒールの折れたパンプスが練成陣の真ん中に置かれる。光と共に少々の風を感じて、次の瞬間には新品のように美しいパンプスがそこにあった。
「む、そちらもお借りしますぞ」
有無を言わせずもう片方のパンプスを引っこ抜かれ、同じように練成陣の真ん中に置かれる。同じように新品同様になり、ご丁寧にも両足に履かせていただいた。
遠慮する端から暑苦しい表情をすごめて迫ってくるので、いい加減どうでも良くなる。瞼を閉じて開ければおしまいになると思ったが、パンプスを手に持たれてしまっては向こうの世界にパンプスだけ行ってしまいそうで、もうアームストロングのなすがままだった。
パンプスはの足に当たり前のようにはまり、アームストロングの満足げな声が降ってくる。
「うむ、これでよし。後は足首を捻った箇所を」
「大丈夫です。わざわざヒールまで直していただいて、後は医務室に行きますので」
確か軍には医務室があったはずだと言うだけ言ってみると、アームストロングは頷きながらの手を握りなおす。顔が近づき、の笑みが引きつる。
「では、我輩が連れていこう」
「は?」
「うむ、それがよい。さて医務室はどこだったかな」
一気に視界が高くなり、はいつのまにか紳士で男性らしい横抱きにされてしまう。これは俗に言うお姫様抱っこだなとぼんやり考えてはみたものの、は正気づいて暴れ出した。
「あの、あのまだ私仕事がありますので!」
「ふむ、我輩が連絡しておこう。加害者は我輩であるからして」
「いやほんと! 緊急の仕事なんですって!」
「連絡しておこう」
痛くも苦しくもないが、逃げ出せない程度に力はこもっているらしく、暴れることは出来るものの腕からは逃げ出せない。
はどうしようかと顔から血の気を引かせたが、うっかり気が付くと瞼を閉じてしまい、浮遊感と共に尻を打ち付けていた。
「った! なに」
そして見た光景は、先ほどまで歩いていた会社の廊下。軍部の青い制服やら黒服やらあれやこれやらが行き交う廊下ではなく、マッチョが制服の上からも分かるキューピーな紳士もいない。
安心したと同時に足首の痛みを思い出し、更にはぶつかったときに一度、今現在空中から落ちたことで二度ぶつけた尻もさすりつつ、は書類を回すために廊下を再び歩き出した。
「……本当に医務室行こう」
ちょっと泣けてきたが、後二時間だと自分を慰めながら仕事に戻っていった。
「おお、足首の具合はどうですかな」
思わず扉を力いっぱい閉めてしまったが、としては反射的なもので仕方がないのだと瞬時に言い訳をする。そして何事もなかったかのように、会社の医務室前から全速力で走り出した。足首や尻が痛むが知ったことではなく、とにかく不可解な現象から逃げ出すことに全神経を注ごうとした。
「ふむ、無茶をするものではないと思いますがな」
けれど全身全霊で走り逃げきるより早く、ほんの30分前に見かけた男性は中から扉を開けてしまい、あっさり襟首を掴んできた。
まるで犬猫のように摘み上げられ、そのまま体を医務室に引きずり込まれてしまった。キューピーのように可愛らしい男性の前髪が目の前に現れる。
「先ほどは失礼しましたな。ふむ、仕事の方は終わったようでなにより」
「…………どうも」
もう、どうとでもなれとは捨て鉢な気分で促されるまま椅子に腰掛けた。
丸い、医務室や病院の診察室でよく見かける丸椅子。座ると同時に目の前の男性の指示で医者だろう白衣の女性がの足首を診察しだす。色々言われ、湿布を貼られ、最終的に軽く包帯を巻かれた足首には大いにため息を吐いた。ストッキング禁止で素足なのも、として地味に痛い。出せるほど綺麗な足でないと言うのが本音だ。
「ふむ、これで良いですな。安静が第一ですぞ」
「……どうも、お手数お掛けしまして……」
は機械人形の様に不自然な止まり方をしつつも、きちんと頭を下げる。「いや、なに」とすぐに気にするなといってくる男性に、力ない笑みを浮かべた。
女医が、部屋を出て行く。
疑問に思うと同時に扉は閉められ、鍵のかけられる音がする。目を見開き立ち上がろうとしたの肩に、大きな手がそっと押し当てられた。
何の害意も見せない、男性の穏やかな目がそこにあった。
「少々話を聞かせてほしいのですが、お時間はよろしいですかな?」
悪いと言ってもに逃げる術はない、いや、瞼を閉じれば良いだけだと思いこそすれ、は行動を起こさなかった。なんだかんだ言ってこんな状況になったのも、瞼を閉じれば逃げられるという安心感と漫画で見ていた男性の愉快な性格を好ましく思っているからだ。
現在に向けられている少々のプレッシャーを思うと、危なくなったら即座に逃げる決意はすでに固めていたが。
「……なんでしょう?」
あ、瞼閉じちゃった。
長めに瞬きをしてしまったせいで、瞼は完全に閉じられてしまった。
先ほどと同じ、なんて間抜けな去り技だろ! とは暗い顔で落ち込むが、目を開けて自分の包帯を巻かれた足を確認し、資料室に座り込んでいた自分の尻を叩いてほこりを払った。
「位置が移動しているのはどうかと思うけどな」
昨日までと少し違う戻り方に、は小首を傾げた。けれど悩んでいても仕方ないと、足に負担を掛けないように立ち上がる。そして何の疑問もなく、数回しか使用したことのない資料室を見回してみる。
「……」
目に入ったものを、意識の外に追い出そうとするがほんの少し失敗した。おほほほほとか、なんか乾いた笑い声が漏れてしまう。あ、目が合ったと思ったときには遅かった。
「お姉ちゃん、だあれ?」
見覚えのあるかわいらしい笑顔の女の子と、声に反応したのか顔を上げる大きな犬。両方とも可愛らしいつぶらな瞳で見つめてきて、はよりにも寄ってこの家かよ! と一発叫びたくなる。
走行している間にも、警戒心のない少女は不思議そうな顔で駆け寄ってくる。とたとたと上がる足音が可愛らしく、その後ろを犬も付いてきた。
「お姉ちゃん、どこから入ってきたの? お父さんのお友達?」
「あー……ええと」
返す言葉がない。正直、貴方のお父さんとはお友達どころか、顔をあわせたこともありません。
正直に言うとただの不法侵入者なので、はもごもごと口の中で言葉を練る。けれど少女はお行儀よく返事を待っていて、隣の犬もお行儀よくキラキラした純真な目でこちらを見上げていた。
「……ごめんなさい、迷子になっただけなの」
「迷子? そっか、じゃあもう帰るの?」
お父さん、まだお部屋にいると思うから、ニーナがお見送りするよ?
可愛らしい笑顔に、犬の声が合わさる。
少女は満面の笑みで犬を抱きしめ、もう一度を見た。
「アレキサンダーもだよ!」
「……ありがとう、ニーナちゃん。アレキサンダー」
名前を呼んで頭をなでようと手を伸ばし、一瞬躊躇する。
顔を見たとき、少女と大きな犬という並びを見たときに覚えた既視感は、嫌な方向で当たってしまった。
この二人は、いずれ父親の手によって弄ばれる。ひとつひとつの人格を無視して、望んだわけでもないのにひとつにされてしまう。望んで研究の犠牲となったのなら、それも悲しいことだが、まだどこか第三者としては救われるというのに、この子達は多分そんなこと望んでいなかっただろう。
大変失礼な感情だと思っても、行きずりの人間が抱く感情ではないと分かっていても、本当にそんな世界に居るのかどうかすらわからなくても、は悲しいと思った。
「優しいね」
そっとその小さな頭に触れ、撫でる。照れくさそうに嬉しそうに見上げてくる視線に、胸の奥がざっくり痛む。暖かいなぁとアレキサンダーの頭もなでたところで、声が聞こえた。
「ニーナー? アレキサンダー?」
「はーい!」
女性の声に首を傾げると、ニーナは満面の笑みでの手を引っ張った。
「誰かな?」
「お母さん!」
心の底から思慕を込めて呼ばれた名称に、の思考が止まる。痛む足首は引っ張られるままに動き、アレキサンダーがのお尻を頭で押して進ませる。
「お母さん、ニーナここー」
「ああ、またそんなところに居たの? きちんと本は片付けた?」
明るく柔らかな声に、は絶望する。
本の中の話では。
きめら。
実験。
何年前の話だった?
お母さんは居ない。
何年前の研究成果?
エドとアルはまだ来ていない。
「あら、お客様?」
「迷子なんだって、ニーナたちがお見送りするの」
「ご挨拶もせずに申し訳ありません。ニーナの」
耳を塞ぎたい目を潰したい。
けれど意思に反して、常識を遂行しようと体が動く。部屋から一歩出た廊下は明るかった。柔らかな足音とゆれるロングスカートと暖かな笑みを浮かべた女性。
「すみません、お邪魔しています。私の名前は」
けれどその女性の顔を識別する前に、無意識を逃避が凌駕した。
落ちた瞼は拒絶となり、を会社の廊下へと引き戻した。温かく握られていた少女の感触が残る手、こちらを押してくる犬の頭部の感触。全て残ったまま廊下の床にへたり込んでいた。腕時計の針は、まだ5分と経過していない。
「……」
幽鬼のように、は自分の部署へと戻っていった。なんの意識もせず仕事をして、終わらせて、帰宅の途について。
自室の本棚をあさり、鋼の錬金術師の2巻を手にとってめくる。
研究は、キメラの成功は、エドたちの訪れる2年前。
母親の失踪も2年前。
涙もこぼさず布団にもぐりこんだ。