03.本屋と自室


 昼食の後は仕事にならなかった。まだまだ仕事の時間はたっぷりあるというのに、声は震えペンを持つ指は小刻みに揺れていた。
「ちょっと、しっかりしてよ」
「ごめん」
 同僚に睨まれながら仕事をこなそうとするが、朝までのようには体が動かない。大丈夫、今日も殺されなかったと自分を安心させようとするが、黒髪男性の視線の強さは忘れられなかった。
「……さん、今日は帰って良いよ」
「え?」
 声に慌てて振り向くと、の上司が立っていた。どこか心配そうに眉をひそめてはいるが、その口調は容赦がなかった。
「すみません、大丈夫です」
「大丈夫って顔色じゃないでしょう。昼休みに何があったか知らないけど、体調が崩れたのならさっさと帰って整えておいで」
「……はい」
 死人みたいな顔色だよとため息をつかれ、は逆らう気力もなくなって帰宅の準備をする。何人かは不思議そうにこちらを見ていたが、そのうち何人かは気をつけてと声を掛けてくれた。それに力ない笑みを浮かべ、は悔し涙を拭いながら家へと帰っていった。
「……最低」
 けれど家に帰っても家族に心配をかけるだけで、はそこら辺をぶらぶら歩くことにした。昨日もおかしかったが、今日もおかしい。自分は壊れてきているのだろうかと気が遠くなる。もしかしたら、疲れのあまり幻覚を見始めているのかもしれない。五月病かなとため息をつき、一度カウンセリングでも受けてみるかと自分の首を揉んだ。
 心も風邪を引くというし、まぁ、ものは試しだ。
 今日帰ったときにでも予約を入れようと、楽しそうに通り過ぎる人たちを見ながら考える。昨日行ったデパートはちょっと怖いので、本屋にでも立ち寄ることにした。
「いらっしゃいませー」
 明るい店員の声と、そびえる塔のように連なる本棚。いつものように目的の本棚に向かい、まだ買っていない本を探し出す。
 今日は気分を変えて、哲学の本でも見てみるか。
 小難しいことでも頭に詰め込めば、この馬鹿な幻覚も見なくなるかもしれない。
 人の少ない本棚を通り抜け、更に人の少ないハードカバーの本棚へと足を進める。ものの見事に誰もいない空間に、ちょっとした笑いが漏れた。
「心理学、精神学、あー」
 今の自分の症状が乗っているかもしれないと、手当たり次第に手にとって見る。が、やはり頭に入ってこない。これは自分の趣味に沿っていないのだと悔しく思うが、素直によその本棚へと移った。
「……錬金術」
 見つけてしまった、と額を叩く。黒髪の男性の名前など載ってはいないだろうが、確実にそれに繋がる話題ではある。
 自分の趣味思考にうんざりとしながら、手はその本棚から一冊の本を抜き出していた。錬金術、今は公にない技術とも言えるが、現在の科学が錬金術でないとも言い切れない。
「……幻覚見るほど、あの漫画が好きなのかな」
 呟きながら本を開くが、難しくて理解できない。本棚に戻し、また別の本を手にとる。そして難しいと思えばまた本棚に戻し、また別の本を手にとった。
 そんな行動を何度か繰り返し、比較的絵や図解の多いものを探していく。あれやこれやと本棚を漁っていると、ひとつの手がの見ていた本棚から一冊抜き出していった。
 背後から伸びてきた腕に、思わず振り返る。無精ひげで眼鏡の似合ういたずら小僧みたいな笑みを浮かべた、男性。
 昨日今日の出来事から言って、愛妻家で愛娘命の男性に見えなくもない。
 無言で傍から離れようとするが、男性は笑って行く手を遮ってくる。何をするんだと睨みつけると、そのマース・ヒューズに良く似た男は手に取った本を差し出してきた。
「初心者はこの本が良いんだとよ。国家錬金術師になっちまった男が言ってたんだ、間違いはねぇと思うぞ」
 絶対ロイ・マスタングの事だ。
 は夢か現か分からない中、心の中で断定する。ヒューズに似た男は笑顔で本を押し付け、は受け取らざるを得なかった。受け取らなければ、本が足の甲を直撃する位置だった。
「ま、騙されたと思って読んでみろよ。分かりやすさは保証するぞ」
「……どうも」
「ははっ、警戒されたもんだな。で、お前さんの服は見慣れないものだが、どこの部署のもんだ?」
 また話がおかしい。
 ここはどこにでもある本屋であり、部署だとか聞かれる様な場所ではない。しかも男性の背後に見えるのは窓で、その向こうは当たり前のように制服を着た人間たちが行き来している。漫画で見たような光景だ。
「……あの、本屋に来る人間はさまざまだと思います」
 唾を飲み下し、思い切って声を出す。男性の目を見て発言をすると、男性は目を丸くしての顔を見つめてきた。本棚に寄りかからせている腕が、少し傾く。そんなポーズすら格好良いのはずるいと思う。
 自分の顎を撫でながら、男性は愉快そうに笑みを深める。
「本屋? ここは中央図書館だぜ、お嬢さん」
「いいえ、ここは私の職場近くにある街の本屋です。ここは専門書のコーナーです」
 英語の例文でも訳しているような気分になったが、は思い切って言い切った。ヒューズに良く似た男の目がから逸れ、の背後や周囲へと向く。そして小さく感嘆の声が上がったかと思うと、声を出して笑い出した。
「ははっ、なんだなんだ。軍部は本屋扱いか」
「本屋扱いではなく、本当に本屋です。貴方こそ、ただの本屋を軍だなんて呼ばないでください」
 なにかもう必死で噛み付くと、男性はの背後を指差した。何の真似だと首を傾げれば、またおかしそうに口を開く。
「お嬢さんの背後は、確かに軍部の光景じゃぁねぇな。親子連れが仲良く歩けるほど、ここは開放されてねぇ」
「なにが」
「しかしだ、お嬢さん。こっちは正真正銘の軍部、中央の大図書館だ。……不思議なこともあるもんだなぁ」
 とにかく論破しなくてはと口を開いたに、そのヒューズに似た男は至極穏やかな笑みを向けた。昨日や今日見た、黒髪の男性とはまったく違う優しい視線に、は言葉を忘れて凝視した。
 男性は、優しくの肩に触れる。
「本当に本屋の部分があると分かれば、あんたはそっちに戻ったほうが良い。なんでか知らねぇが、一部ごっちゃになってるようだしな。その本は……まぁ、記念に取っとけ。早くそっちに戻ったほうが良い」
「……」
「不思議な体験をありがとうな。あ、ついでに俺の家族の写真も持ってくか。これが可愛くて美人でよー」
 思わぬ事態に差し出された写真を受け取ってしまう。どう見てもエリシアちゃんとグレイシアさんだとは認識した。ヒューズに似た男性と楽しそうに笑ってカメラを向いている。
「……素敵なご家族ですね」
「だろだろ? よし、またこんなことがあったら家族の話聞いてくか?」
「ええ、ぜひ」
 そっか。とヒューズに似た男性は笑うと、の肩を叩いて本棚の影へと消えていく。慌てて追いかけるが本棚の影に人はおらず、あったはずの窓はただの壁になっていた。本屋の放送の声が聞こえるが、は手にもった本と写真を呆然と見つめる。
「……友好的だ」
 途中から怖くなくなっていた。途中、自分たちの違和感に気づきながらも友好的に接してもらえて、は写真を指先でなぞる。柔軟性のある人なのだろうが、もしこの写真を使って家族が狙われたらどうするつもりなのだろう。
 可能性はゼロではないというのに、友好的な態度は当たり前のように「また」と言った。幻覚かもしれないが、手に持っているこの品々は嘘じゃない。
 早く帰って紙コップや薬もまだ存在しているのか、どうしても確かめたくなってくる。
 は受け取った本を辺りを見回しながらかばんに詰めると、早足でその場を後にした。


「……やっぱり読めない」
 本棚にあったときは、確かに日本語で書かれていた本。けれどヒューズ氏らしい男性から受け取った途端、英語のような文字になった錬金術の本。
 ベッドの上で本を眺めながら謎が謎を呼ぶなぁと首を捻り、とりあえず絵から分かることを推察していく。漫画の定番である言葉が書かれているようで、ある意味とても分かりやすく錬金術の本だった。
「全は一、一は全」
 声に出して読んでみると、エドやアルの声が聞こえてきそうだった。彼らの姿はまだ見ていないが、これ以上見えてくれても困る。これ以上理解できないフィクションのような体験をさせられては、どうリアクションを取っていいか分からなくなる。
「とりあえず、カウンセリングはなしということで」
 本を閉じて声を上げると、同じように本を閉じる音が聞こえた。木材の匂いや雨が振っているような匂いまで漂ってきて、は即座に自室の窓を見上げる。雲ひとつない晴天晴れ。
「……」
 嫌な予感がするなぁと、窓と反対側にある部屋の出入り口を見ないようにしていたが、可愛らしい高音の声が響いてきた。
「あれ、兄さん。いつの間に女の人を引っ張り込んだの?」
「あぁ? なに人聞きの悪いこといってんだよ、俺1人だろうが」
「だって、あっち」
「あん?」
 はほぼ下着姿の自分を後悔した。面倒くさいからといって、着替えを中断するのではなかった。
 兄弟らしい会話が聞こえるや否や、激しく吹き出すような音が聞こえた。次にはむせて咳き込むような音。
「兄さん、女の人の下着姿見たからって失礼だよ」
「だー! 言うな! つーか、なんでこの部屋に女がいるんだよ!」
 今までの流れからいって、これは完璧にあの2人だと確信しながらも、は勇気を持って振り向けないでいる。けれどその間にも兄弟らしき会話は続き、兄さんと呼ばれる少年はを指差してくる。
「くらぁ、そこの女! なに勝手に人のベッドで横になってやがる! 宿代払え!」
「兄さん、そういう問題でもないと思うよ。それに、女の人にそういう言い方しちゃだめだよ」
「あ、そうだな。 くらぁ! さ、さ、さっさと服を着ろぉ!」
「……兄さんはもう、あの人見てないほうがいいよ。鼻血出そう」
「誰が女のし、下着姿で鼻血を吹くか!」
 どうにも純情らしい。ガチャン、ガシャンと金属が動くような音が聞こえる。金属同士がこすれて、移動しているような音。
 鉄の匂いが微かに漂ってきて、最初に聞いた可愛らしい声が遠慮がちに聞こえてくる。
「あの、お姉さん」
「……なぁに?」
 観念をして振り向くと、予想と寸分たがわない光景が見えた。どこかの安宿だろう部屋、そのベッドの上に腰掛けて本を持ったまま、顔を赤くしてそっぽを向いている金髪三つ編み少年、こちらに近づいてきている全身鎧の可愛らしい声の主。
 ……どう考えてもエルリック兄弟です、予想通りでありがとうございますこんちくしょう。
 は微笑みを浮かべながら内心毒づき、これも白昼夢か何の陰謀だとめまいを覚えた。
 近づいてきた全身鎧の可愛らしい声の主は、申し訳なさそうに腰を屈めながら聞いてくる。
「あの、ここ僕達が使ってる部屋なんですけど、お姉さんどうして入ってきたんですか?」
「ここ、私の家の自室なんだけど、こっち側よく見てもらえるかな?」
 出来るだけ穏便に優しげにが自分の周りを指差せば、また後ろの方で金髪三つ編み少年が怒鳴り出すが、全身鎧の多分アルフォンス少年だろう人物は動きを止める。の部屋の内装と、2人が宿泊しているのだろう宿の内装は天と地ほど違う。シンプルだがきっちり現代風の室内であるの部屋に対して、2人の宿は木の板が味わい深い簡素な内装だ。
「ね?」
 駄目押しの様に微笑み、はベッドのふちに座る。持っていた本を膝の上に置きなおし、その本の上に両手を置いて2人を見た。
 昼間よりだいぶ気分が落ち着いている。
 はゆっくりと呼吸をした。全身鎧の少年は、何を言えばいいのか分からないのか、何も言わない。
「とにかく、お前出てけ!」
「兄さん!」
 金髪三つ編み少年の言葉に、ようやく後ろを振り返る。がしゃがしゃ音を立てて兄の元に戻ると、には聞こえない程度の音量で何かを話した。叫んでいた少年の目が、静かにを見つめる。
「……こっち側は私の部屋なの。なんで合体してるかは分からないけど」
「……」
 当たり前のようにしゃべっているが不可解なのか、この現象自体を考察しているのか、兄である少年からの返事はない。
 はため息をひとつつくと瞼を下ろす。
「お姉さん?」
「まだ片手ほどしかこんな経験ないけど、瞼を閉じてあけたら大概消えてたわ。次に私が目を開ければ、貴方たちの部屋も元に戻ってるはずよ」
「なんだそれ」
「じゃあね、少年たち」
 不思議そうな声に片手を振り、ゆっくりと瞼を開ける。急激に木材のにおいが消えうせ、雨の匂いも気配すら残さず消滅する。
 いつもどおりの自室がそこにあった。
「……なんなのよ、ほんとに」

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