02.昼食
家に帰っても日常生活に戻っても、手渡された薬と紙コップは消えなかった。
食欲もなく家族に具合の悪さを心配されたが、人酔いが尾を引いているのだと苦笑ひとつ浮かべれば、どうにかこうにか追及の手は緩めてくれる。
「明日も仕事でしょ、今日は早く寝なさい」
「うん、そうする」
「おやすみ」
「ありがと、おやすみなさい」
家族の言葉に頷いて部屋へと戻る。常備薬を飲んで人酔いの気持ち悪さは緩和されていたが、いるはずのない人間との交流の後遺症からは抜け出せない。しかも拳銃を突きつけられ、予想通りならば発火布まで装備されてしまったのだ。下手をすれば、あの時丸焦げになっていたのかもしれない。
ぞっと背筋を悪寒が走り、は身支度を整えて布団へと素早く潜り込んだ。あれは白昼夢だと思い込もうとするが、瞼の裏には拳銃を突きつけてくる女性と、隣で油断なく目を開かせていた男性が浮かび上がる。恐怖心は事態が過ぎ去った今も停滞し、体は小さな子供のように震え出す。
早く眠ってしまえ、早く眠ってしまえ。
祈るように縋るように心のうちで呟いていると、いつのまにか朝になっていた。
ぼんやりとした視界で時計の針を見る。最後に見た時より二時間ばかり進んだそれに、まったく眠れないよりましだとはそれ以上眠ることは諦めた。
今日も仕事がある。
欠伸をしながら出勤の準備をして、洗面所へとふらつく足取りで歩いていった。
「……」
仕事は危なげなく進んでいたが、どうにも職場の友人たちとお昼をする気にはなれず、は1人食堂でうどんをすすっていた。
温かい汁としこしこの麺。薄給のが気軽に食べられる値段なので、そこそこの美味しさでしかないが今はあまり頓着していない。
それよりもは、昨日起こったことを反芻するのに忙しかった。どう考えてもまともな結論は出なかったが。
ずるずるとうどんをすすり、それなりに腹も膨れてくる。今日は気分転換にデザートも頼んじゃおうかと、うどんの汁をずずいっと飲み干していく。温かいがずっしりと胃の中に落ちていき、大きなデザートの入る隙間は埋まっていく。
「ひとつくらいにしとくか」
二つも三つも食べようとしていた思考を、残念ながら胃袋の容量からひとつに厳選する。さて、何を食べようかとメニューに手を伸ばすと、男性の手とぶつかる。二つの席の間にあったメニュー表なので、は特に不思議にも思わず手を引いた。
「お先にどうぞ」
「お、悪い」
不意に今まで漂っていなかった煙草の匂いに気づき、は男性のほうへと顔を向ける。流暢な言葉から日本人かと思っていたが、男性はごつい手に寄らず可愛らしい少年のように笑う金髪男性だった。
はて、どこかで同じようなことを考えたな。
はちょっとした引っ掛かりを覚えながらも、男性に気にしないでと呟いて店員からメニュー表をもらおうと、キッチン方面へと顔を向ける。
「おっと」
けれどの視界は男性の手に持ったメニュー表でふさがれ、何をするんだとは男性を振り返る。
男性は悪びれるそぶりもなく、黒のタンクトップから覗くたくましい腕を惜しげもなく晒して笑う。
「すぐに決めるから、待っといてもらえるか」
「……いいですよ」
馴れ馴れしい男性だと切って捨てるのはたやすいが、は大人しく座席に座りなおす。仕方がないと心の中で言い訳をする。なにせ、男性は可愛げのある美形だったのだ。
男性は笑顔のまま煙草の噛み位置を変え、メニュー表に目を走らせた。
「おーい、姉ちゃん」
「はい、ただいまー」
本当にすぐだった。
男性は呆れるまもなく店員に注文すると、笑ってメニュー表をへと差し出してくる。
「ほい、あんたの番」
「どうも」
受け取り目当てのデザートを探し当てると、もすぐに手を上げて店員を呼んだ。同じようにすぐに駆けつけてくれる店員に、追加メニューを頼んだ。
「あんた、そのうどん一杯食っといて追加すんのか」
「女の体には別腹があるんです」
「なるほど」
煙草をくゆらす男性は、興味深げにの体に視線をよこす。けれど決して性的な意味などない、言うなれば子供のような好奇心の視線に、は腹を立てるより笑いたくなる。
「もちろん比喩ですからね。胃袋はひとつですよ」
「だよなぁ」
ゆったりと煙草をふかし、息を吐き出すその横顔に違和感を覚える。吐いているはずの煙草の煙が、一切こちらに流れてこないのだ。先ほどまで香っていた煙草臭さも消えうせ、なにやら不思議な感覚に陥る。
「……ここ、禁煙席じゃなかったですっけ」
「え、マジ?」
慌てて辺りを見回す金髪男性の向こうに、青い制服を着た男性群を見た。あ、昨日の人たちと同じ服だと理解した瞬間、金髪男性は額の汗を拭うしぐさをしながら振り返る。
「脅かすなよ、特に表示なんか」
「ハボック?」
言いかける男性の向こう側に見える、男性の1人は昨日会った黒髪黒目の男だった。そういえば、金髪男性が呼んだときに来た店員の服は、が呼んだ店員の制服と違っていた気がする。
「おい、大丈夫か。顔が真っ青だぞ」
金髪男性が心配げに顔を覗き込んでくるが、は恐怖の為か震えが止まらず歯がカチカチとぶつかり出す。黒髪の男性は金髪男性だろう名前を呼ぶと、真剣みを帯びた表情で白い手袋をつけながらこちらへと向かってくる。
逃げなければ、殺される。
は逃げようと思いながらも、動かない体に絶望する。金髪男性は心配げに腕に触れてくるが、その感覚すらすでに遠い。
「おい、あんた。大丈夫かよ」
「ハボック、その女性を捕まえていたまえ」
「あ、大佐」
黒髪の男性が再度金髪の男性に声をかける。決定的だとは気絶しそうになる自分を感じた。瞼が下がっていく。
「あ、おいあんた!」
段々と掴まれた腕に伝わってくる体温はあたたかい。けれど瞼を下げきろうとしたとき、肩に触れる手を感じた。
「お客様、大丈夫ですか?」
恐る恐る、呼吸も忘れて肩に触れた手の主を見上げると、先ほどが呼んだ店員だった。お盆の上には注文したデザートがひとつ載っている。
慌てて隣を見るが、最初から何もなかったように空の座席。煙草の匂いなどあるはずもなく、目立つところに店内禁煙の看板もある。
「お客様?」
「……大丈夫です、ありがとうございます」
「いえ。どうぞごゆっくり」
デザートを置いて、店員は首をかしげながらキッチンへと戻っていく。
は自分の体を抱きしめながら、震える体でデザートを口に含んだ。
「……またか」
「一体なんなんすか。あの人消えちまったんすけど」
ロイの言葉に、ハボックは女性の腕を掴んでいた自分の手を見つめる。
上司が忌々しそうに舌打ちをする姿など久々に見るが、それと今消えた女性は関係があるのだろうか。
「ハボック、あの女性はどこに消えた」
「むしろ消えたことが理解できないっす」
再度舌打ちする上司に、なんでここにいるんだとハボックは問い掛ける。自分は本日仕事途中の昼食であって、別段サボりな訳ではない。けれど、自分の同僚を引き連れて現れた上司はどうみても仕事中には見えなかった。
「そいつら引き連れてどこ行くんすか」
「仕事だ。お前も加われ、ハボック」
「へいへい。あ、でも食事の後でお願いします」
「……食事にするぞ」
同僚の威勢のよい相槌をバックに、ハボックは自分の隣の席へと視線を移す。女性がたった今の今まで座っていた座席。ちょっとした会話をして、確かにそこに存在していた女性。
けれど今は、その席に上司が腰掛けている。色気もへったくれもない。そういえば、いつも傍にいるホークアイ中尉もいない。
「大佐、中尉は他の仕事ですか」
「……そうだ」
その時点で同僚たちが苦笑いをする。ああ、本当にサボりだったかとハボックは納得するが、分かっていて連れ出された同僚たちは後で上司共々、中尉にうんと叱られるだろう。
「あの女性がなにかしたんですか」
「……以前も、私や中尉の前で不審な素振りをして消えた」
「へぇ。良く2人から逃げられましたね、お見事」
「……」
からかっては見たものの、ロイはそれ以上口を開こうとはしない。諦めて昼食を食べ出すハボックに、同僚たちが首をかしげながら聞いてくる。
「大佐、なんか変じゃねぇか?」
「僕もそう思います」
「やはり先ほどの女性絡みですか」
「……じゃねぇの?」
ハボックとしては、特に不審な点があるような女性には見えなかった。ただ普通に、うどんの後デザートも完食しようとする女性だっただけだ。特に特徴のある顔立ちでもなく、しいて言えば可愛らしいかもしれない程度。笑顔は愛嬌があって普通に可愛いとも思えた。
「後で詳しい話を聞かせてくださいよ」
「戻ったらな」
ロイが不機嫌な顔で水をあおった。