01.人酔い


 正直、気分が悪い。
 は吐き気をこらえながら近くのベンチに座り込んだ。デパートの一角にある簡素なベンチは、運のいいことに誰にも座られずにそこにあった。ああ、これで少しは楽になるとため息を吐き出したとき、ベンチの反対側が人の重みできしんだ。
「この後はどうするおつもりですか」
「大丈夫さ、私がいなくてもあいつらはよくやってくれる」
「自分自身の仕事がたまり続けると、自覚していただかないと困ります」
「……善処しよう。けれどここ連日の私は働き詰めだと思わないかね?」
「……はぁ。一時間だけです」
「ありがたい」
 同じベンチに座っているということから、否が応でもの耳に入ってくるその会話は、可愛そうなほど分かりやすい上司と秘書の会話だった。大方、上司がデパートで仕事ついでにサボっているのだろう。まだ昼間だというのに秘書にとっては頭の痛い行動だと思う。けれど、その上司もだいぶお疲れなようだ。吐き出されたため息や苦笑いがどこか空虚だ。
 現代人は働きすぎな人間が多いというが、もしかしたらこの2人もそうなのかもしれない。
 上司と秘書の会話などはフィクションの中でしか触れたことがないものだから、気分が悪いのを俯いてこらえながらも耳は聞き取ってしまう。
 秘書らしき女性は、なにやら書類をめくっているようだ。
「2時半、3時半、5時の三箇所で区切りをつけていってください」
「休憩時間は始まったばかりだろうに、気が早い」
「時間は有効活用すべきです。……何か飲み物を買ってきましょう」
「すまない。いつものを頼むよ」
「分かりました」
 綺麗な足音がゆっくりと遠ざかっていく。きっととてもスタイルの良い女性なんだろうと、その足音を聞きながらは想像した。足音が綺麗だ。
 上司だろう男性のため息と、なぜかこちらに向く視線。
 顔を俯けたまま両手で押さえているなんて、そういえばあからさまな態度かもしれない。
 そう思ったときにはすでに遅く、小さな声がの耳に届いた。
「君、気分でも悪いのかね」
 声は若々しいくせに、仰々しい言葉づかいの上司だと思った。きっと声だけ若い、結構な年齢の男性なのだろう。育ちもなんとなくよさそうだ。
「大丈夫です、人酔いをしただけですから。すぐに収まります」
「けれど、失礼だが首筋まで青白い。先ほど部下が飲み物を買いに行ったのだが、よければそれを飲んだほうがいい。そのままだと、ベンチから立ち上がるのも困難だろう」
「大丈夫です。10分もすれば戻りますから」
 いつものことだと親切な申し出に首を振るが、ゆるく振っただけなのに眩暈がする。今日の人酔いは少し深刻らしい、大人しくしていようとぐらついた体を踏ん張る。
 それを見ていたのだろう男性が、小さく嘆息するのが聞こえた。どうやら人のいい紳士らしい。
「私は君にとって見知らぬ男とは言え、具合の悪い女性を放っておくほど愚鈍な人間ではないつもりだ。実は部下も君の様子にも気づいていた。きっと君の分の飲み物を買ってくるだろうから、遠慮せずに飲んでほしい」
「……親切な方々ですね」
 ちょっと感動して反応が遅れる。
 はあからさまではないものの、失礼ではない程度に嬉しそうに笑って見せる。そこでようやく男性が安堵だろうため息を吐き、続いて近づいてくる足音を聞いた。
「買ってまいりました」
「ああ、話はしておいた。こちらの女性に渡してくれ」
「……もし。顔は上げられますか?」
 女性は迷いなく私の前に腰を下ろすと、下から馴れ馴れしくない程度の距離感で顔を覗き込んできた。触れられはしないが、けれど優しく寄りかかりたくなるような温かい声。
 は深呼吸をしながら両手を顔から外すと、微笑みながら女性を見てしばし動きを止めた。
 あれ、金髪だ。日本人だと思ってたのに。
 予想外の色彩をもつ女性の髪に気をとられ、次にはその女性の服装に目を奪われた。
 は? 青い制服? ……もしかして、この形は。いや、それは漫画の中の話でしょ。もしかして今日、このデパートで鋼の錬金術師ショーでもやってたの?
 思いがけないことに、は女性の顔を見たまま固まってしまう。女性の背後には、行き交う人々がぼんやりと見えるが、どこか違う気がした。女性と同じような服を着た男性や女性が行き交い、普通の人たちもどこか服装がおかしい。
「……? 大丈夫ですか? 飲めますか?」
「あ、いただきます」
 怪訝そうにひそめられた眉を見て、は慌てて差し出された物を受け取る。そしてそこに書かれている文字が読めないと分かると、途方にくれた。水だということは分かるが、どう見たって外国製のもの。ありがとうございます、もっと混乱しましたと頭の中で受け答えをしつつ、一応は紙コップの水に口をつけた。
「……おいしい」
「それは良かった。薬があるなら飲んだほうがいい」
「薬は切れちゃってるんです。買ってこないと」
 男性のほうを向きながら口を開くが、はもう一度動きを止める。
 男性も同じ服装ですか。しかも黒髪黒目の体つきの良い若い色男。
 は、しゃがんでいた女性が立ち上がるのを盗み見て、男性のほうをもう一度見る。男性も女性も、を気遣うように笑みを浮かべていた。
「……ありがとうございます」
 とりあえず混乱したまま頭を下げると、女性が小さな箱を渡してきた。なんだろうと手にとって見るが、やはりには書いてある文字が読めない。裏返して、もう一度表に返しても読めなかった。
 それを見ていた女性は、「怪しい薬じゃないですよ」と囁いた。顔を上げたと女性の目が合う。
「酔い覚ましの薬です。体質に合うと良いのですが」
「……わざわざありがとうございます。あの、おいくらでしたか?」
「気にしないで下さい。こちらが勝手にしたことですので」
「いえ、それでも払わせてください。本当に助かりました」
 がしっかりと言葉を返すと、女性は困ったように男性を見る。男性は面白そうに口の端を上げ、少年のように笑った。
「せっかくだが、頂いておこう。具合の悪い女性の好意は受け取っておかねば、また体調を崩してしまうかもしれん」
「はい」
 2人が会話をしている間、は努めて素早くバッグの中から財布を取り出していた。自分の愛用している薬の、端数切り上げで千円札を二枚取り出す。もしかしたらもうちょっと高いかもしれないが、あいにく本日の千円札はこの二枚しかなかった。後は一万円札が数枚と小銭。さすがに一万円札を渡せば拒否されてしまうだろうし、は精一杯の笑顔で女性へとお札を差し出した。
「先に受け取ってください。足りなかったら、教えていただけると嬉しいです」
「逆に気を使わせてしまったようで、ごめんなさい」
 お札を受け取った女性は、そこでようやく和らいだ口調で微笑む。けれど、が渡したお札に視線を落とすと、一気にその眉間に皺が寄る。警戒の強いしぐさに、思わずの動きも止まった。
「……どうしたのかね、中尉」
「……ちゅうい?」
 聞きなれない言葉に、とっさに感じを当てはめられないは、女性の顔を凝視する。彼女の視線はゆっくりとを捕らえ、そして上司である男性へと移動した。けれど明らかな警戒態勢は解かれず、は鳥肌が立つような空気に息を止めてしまう。
「病人の前でどうした、君らしくもない」
「大佐、すぐに立ってください。早く」
「なにを」
「貴方、入国許可書を提示して」
 女性は男性へと声を掛けると、男性への返答もせずにへと厳しい視線を向けてくる。なんなのだ一体、と男性との気持ちが重なり合うが、男性は素早く立ち上がるどころか優雅に白い手袋をはめる始末。顔には笑み。
 そこでようやくは気が付いた。女性が黒光りする拳銃をホルダーらしきものから取り出すのを、間近で見てしまったのだ。
「抵抗はしないで、両手を挙げて」
「中尉、落ち着きたまえ。彼女は具合が悪い女性だ、今のところ怪しい動きもない」
「何かあってからでは遅いんです、大佐」
 女性は厳しい表情特徴で男性を見ると、一気に気が抜けたように表情を緩め、そして瞬く間に引き締めていく。きっと手袋をはめている現場を見た所為だと思ったは、先ほどまで自分の考えていた単語を思い出した。
 白い手袋の項には、赤い文様。円を描いたようなそれは、ただの円陣にしては緻密に見えた。
「……」
 口をあけては見るものの、は言葉が出ない。もし予想が当たっているならば、は具合が悪いあまり白昼夢を見ていることになる。なんてことだ、ここまでオタクだったのか自分。
 自分の趣味思考の深さに呆然としているが、女性は拳銃の矛先をへと突きつける。女性は同じ言葉を繰り返していた。
「手を上げて、抵抗はしないで」
「中尉」
 男性はたしなめるように女性を呼ぶと、両手に白い手袋をつけた手をへと伸ばしてくる。指先はの体に触れる前にベンチの背もたれへと置かれ、横に身を寄せている男性、目の前には拳銃を構えた女性という構図になってしまった。
 は知らず知らずのうちに、目の前で掲げられている拳銃よりも、男性の手にはめられている白い手袋に釘付けになっていた。赤い文様、円陣で描かれた何か、円陣の頂には小さく焔のようなもの。そして目の前の2人の呼び名は、「たいさ」と「ちゅうい」。
「……」
「すまない、うちの部下はどうも警戒心旺盛でね。なに、手間は取らせない。君の持っている入国許可書を見せてもらえたら、彼女もすぐに銃を下げる」
 柔らかい言葉、緊張した心を揉み解すようにゆるやかな口調、見上げれば穏やかな視線がを見つめていた。目の前に立っている女性の態度とは正反対だ。
 刑事は、怒る役の刑事となだめる役の刑事がいると聞いたことがある。
 はおぼろげな記憶の中から、2人が自分の正体を見極めようとしているのだと理解した。ぼろを出すのを待っているのだ、優しくされてほだされて、私が何か言うのを待っているのだ。
 小さく喉を上下させて、は渡されたばかりの薬箱を握り締める。内側で薬のこすれる音がした。
「どうした、宿にでも忘れたかね」
「……身分証明書なら、ありますけど」
「ああ、それでもいい。中尉もそれで良いだろう?」
「はい、今のところは」
「まったく」
 困った警戒心だと思わないかね。
 苦笑を浮かべる男性を見ながら、は促されるようにバッグに手を入れようとした。けれど頭上で拳銃が鳴り、反射的に顔を上げる。
 ああ、バッグの中に武器があるのだと勘違いされたのだろう。
 彼女の警戒心の強さならしょうがないと、はやけくそになって膝の上にバッグの中身をぶちまけた。
 携帯電話、手帳、目薬、財布、メモ帳、いくつかのペン類、お守り、さっき買った喉飴、運転免許証、カード手帳。
 最後のほうでようやく落ちてきたそれを手にとり、男性へと手渡す。
「これです、運転免許証でもかまわないですよね」
 突然の行動と合わない冷静な口調に、男性は少しばかり目を丸くして運転免許証を受け取った。写真がついているから判別できるだろうが、予想通りの2人なら文字はまったく読めないはず。はこのまま訳が分からないまま、この2人に拘束されるかもと思うと指先から冷えていった。
「これは……」
「どう致しました、大佐」
「いやはや困った、私には読めない言葉のようだ」
 男性の目が油断なく光ったのをは感じた。素人にでもわかるくらいの気配というならば、男性は自身にこの緊迫した状況を押し付けているのだ。
 さっさと吐いたほうが楽になれるぞと、だまされるほどお人よしではないんだと。
 けれどこれ以上身分を証明するものなどない。は口を噤んだまま視線を俯かせる。拳銃は下ろされず、男性の強い視線は揺るがない。デパートはこの三人の空間だけ切り取ったかのように、カップルも親子連れも独り者も友達同士も楽しそうに通り過ぎていく。
 何がなんだかわからなくなってきたは、呼ばれた声に反射的に顔を上げた。
どうしたの、こんなところで。また気分悪くなった? 今日は1人?」
 偶然にもデパートに買い物にでも着たのだろう、高校時代からの友人だった。可愛らしいスカートを揺らし、彼氏らしい男性を伴って近づいてくる。
 来てはいけない、この人たちは拳銃を持っている。
 もしこれが白昼夢なら、私自身が危害を加えるかもしれない。
 いっぺんに襲ってきた恐怖心が吹き出し、は思わず立ち上がった。女性が拳銃を掲げての頭上から振り下ろそうとしているのが見え、男性がそれを傍観しているのが目の端に写った。
「なに荷物ぶちまけてんの、まったくドジなんだから」
 友人は可愛らしい笑みを浮かべて近づいてくる。拳銃はもうの視界から消え、観念しては目を瞑った。周りの雑音は一切聞こえていなかった。

「……なに目つむってんの。本当に大丈夫?」
 温かい手のひらの感触を頭に受け、柔らかいが不思議そうな言葉が降ってくる。恐る恐る瞼を開けば、友人がの顔を覗き込んでいた。彼氏は親切にも、の荷物を回収してくれている。
「……あ、いや、別に……」
「別にじゃないでしょ、まったく、また人酔いしたんでしょう。水買っても飲めてないみたいだし」
 言われてようやく水の存在を思い出す。確か紙コップで渡されたそれは、バッグの中身をぶちまけるときにそばに置いた。確かにそこにある、けれども異国のラベルの貼られた紙コップ。そして膝の上に置いたままの薬箱。
「あ、また新しい薬買ったんだ。前のも効かなかったの?」
 言って手を伸ばしてくる友人は、その箱をしげしげと眺める。読めないよと悔しそうに顔をしかめ、また同じようにの膝へと箱を戻す。
「いくら効かないからって、外国製の薬にまで手を出したか。ま、ほどほどにね」
 友人の彼氏は友人の言葉に苦笑しつつ、拾った荷物を手渡してくれる。は小さくお礼を言うと、何事もなかったように友人と彼氏は手を振ってどこかへと歩いていった。
 何が起こったのだろうと考えるが、の思考はまとまらない。
 白昼夢だったならば、なぜ水がある薬がある。見たこともない外国製のラベル、見たこともない絵柄の薬、見たことのある男女の姿。
 荷物をぶちまけたことを、ちょっと疲れていたからだと片付けたとしても、手元にある紙コップと並々と注がれた水、酔い止めの薬だと渡された箱がただの疲れではないと叫んでる。
 そこで思い出したようにバッグを開け、財布の中身を確認する。あれが夢ならば、二千円は確かに入っているはずだ。
 財布をバッグから出してお札入れを確かめるまでの数秒が、ひどく長く感じた。数枚の一万円札、レシート、あるはずだった千円札が2枚。
「……あ、あははっ」
 引きつった笑いを漏らし、は財布をバッグに突っ込む。紙コップを手に取り、とにかく落ち着こうと一気に飲み干した。ただの水の味しかしないが、少々甘い気がする。文明が違う方向に発達している所為か、消毒薬臭さよりも水本来の味が出ているのだろうか。
 薬は怖いのでバッグに同じように突っ込み、空になった紙コップは握り締めて立ち上がる。
 早く家に帰りたい。
 辺りを見回し、先ほどの青い服を着た男女がいないことを確認すると、は逃げるようにデパートを後にした。



 
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