大神姓諸氏の系圖には、阿南・稙田・大野・臼杵・緒方・佐賀・戸次・佐伯・賀来・赤嶺 松尾・武宮・橋爪・大津留 等、大神氏が居住した地名の名字が見受けられます。 そこで、本題に入る前に「氏(ウジ)と名字(ミョウジ)」について簡単にお話しいたします。 エトウ タロウザエモン オオガ コレツネ) 「江藤 太郎左右衛門 大神 惟恒」 これは高田荘の江藤家の初代の名前ですが、この名前を例にお話しします。 江藤 は「名字」です。役職、住所、恩賞等により変化します。 太郎左右衛門は「通称」「仮名/ケミョウ」です。世間に公表している名前です。 大神 は「氏/ウジ゙」で、同じ祖先を持もつ一族の称号であり不変です。 惟恒 は「実名」「諱/イミナ」で、通常二字か一字です。 実名は世間にはあまり公表しませんし、みんなも呼びません。 さて、江藤を名乗った経緯について系図では詳しく説明がなされています。 |
惟栄(コレヨシ/緒方三郎)はもともと平重盛(清盛の子)の家人でしたが、大神一族のリーダーとして、源平合戦のとき、 源氏方につき活躍した人物です。大友宗麟と並ぶとも劣らぬ豊後の英雄であり、さらに栄えるはずでしたが、宇佐神宮焼き討ちという 前代未聞の大事を起こし、それが為遠流に処せられます。 その後、大友氏が豊後を治めるようになると、大神氏もその一家臣として生き長らえることになります。 惟栄(コレヨシ/緒方三郎)以降、系圖の線が乱れて太閤秀吉の時代(豊後では大友宗麟の子、吉統の時代)の当主、 緒方伊予太郎惟光の代まで詳細は不明です。 伊予太郎惟光は、元亀元年(1570年)8月2日生まれで、幼名松之助、大野郡片島のうち「井上」という所に住んでいまいした。 伊予太郎には掃部介(カモンノスケ)惟伸(童名 義太郎)という男子がありましたが、文禄2年4月29日、この掃部介が7歳のときに 父伊予太郎(24歳)は江藤又兵衛近時に掃部介を預けて中国(山口県)に居住します。 伊予太郎が、どうして息子を預けて転居したかは系圖に書かれていませんが、この年の5月に大友吉統(ヨシムネ)は朝鮮出兵中の失敗を理由に、 豊後国を没収のうえ中国毛利家(山口県)にお預けとなりました。 殿様を慕って数多くの旧家臣が山口に集まりましたが、これを不穏と見られたのか吉統は、さらに常陸の佐竹家にお預けになります。 「大友家文書録」には、このときの家臣の名前が記載されていますが、残念ながらその中に伊予太郎惟光の掲載はありませんが、 おそらく同一行動をとったものと思われます。 さて、緒方掃部介を預かった江藤又兵衛には「江藤又右衛門」という男子が一人ありましたが、この、又右衛門は慶長5年9月13日に、 大友吉統と黒田如水が石垣原にて行った合戦に於いて討ち死にします。 そのため、掃部介はこれまで江藤家に養育されてきたことに恩義を感じ、緒方の名字を改め江藤掃部介大神惟近(エトウ カモンノスケ オオガ コレチカ)と 名乗ります。 このような経緯から私たちは「江藤」を名字としているわけです。 |
【補足】 江藤又右衛門が、石垣原の合戦で討死したことは歴史資料に見えますので実在の人物です。 市販の「姓氏」関係の本で「江藤」の項を引くと、「江藤又右衛門が、石垣原の合戦で討死し、 その子孫が阿蘇郡坂梨村にある加藤・細川家に仕え、島原の乱にも参戦した」とあります。 現在、阿蘇郡坂梨に旧士族の江藤という家がありますし、島原の乱に参戦した人の墓もあります。 |