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江藤太郎左右衛門が高田に来た時期は、掃部介の死(寛永元年/1624)後から、太郎左右衛門の死(寛永5年/1628)までの 足かけ5年間のこと考えられます。 当時、高田は加藤家肥後藩の領地でした。加藤清正は慶長6年(1601)領内に「他所からの逃散百姓一切おくべからず」と 触れ(ふれ)を出しています。太郎左右衛門も当時は既に帰農していたと思われますが、他領(当時居住していた片島は岡藩)である 高田(肥後藩)になぜ移り住んだか、又、先の触れがあるのになぜ移り住めたかという疑問が生じます。 それについて、江藤系図では高田に居住してから向氏・筒井氏・中村氏・得丸氏といった大友家旧臣の子孫と縁組みをしていることを 考えると、身分制度の厳しかったことからみても、それなりの「家格」を持って高田に来たものと思われます。 その背景として考えられることは、小倉に住んだ江藤太兵衛大神孫が当時の小倉藩細川家に仕官できた。 その後、細川家が肥後に転封(寛永9年)になったとき、自分は坂梨に居住し、弟・太郎左右衛門の子(甥)伴左右衛門を 同じ肥後領内の高田に住まわせた。ということ仮説も成り立ちます。 このことは、士・農・工・商という身分制度の下ではあるものの、主家が滅んで帰農した場合でも機会があれば仕官がかない 士分となれた時代背景からみて、江藤太兵衛が「石垣原の合戦で名を馳せた江藤又右衛門の縁のもの」との触れ込みで、 細川家に仕官できたと云うことは十分考えられます。 |
外部リンクです。 ブラウザの「戻る」からお戻り下さい。 中津市 しらべるネット『高田風土記たかたふどき』の世界にみる多彩な畑作物 大分河川国道事務所 高田輪中(大野川と乙津川にはさまれた一帯) 大分きれい100選 受賞作品一覧 平成24年度 52.高田輪中のまちなみ 朝日新聞2011年11月11日 「輪中集落の歴史」を徹底調査 大分東明高が全国優秀賞 国立大学法人信州大学 教育学部自然地理学研究室 小倉 妙子著 『2013年度地理学野外実習報告書Ⅵ 大分』(2015) p.17-24 「高田輪中地区における水害と人々の暮らし」 geography2013-03.pdf ダウンロード可 |
(大正9年6月10日発行「高田村史」より抜粋) 紀新太夫行平(キ ノ シンダユウユキヒラ)は、我が高田鍛冶の鼻祖にして、古来刀剣界有数の名匠たり。 其の作の中一振りは帝室のご所蔵にかかり、粟田口吉光と共に、明治天皇御遺愛の御物となりと承る。 申すも畏れけれども明治天皇は刀剣に対する御鑑識甚だ御優れ給ひ、数多の名作を御愛憎遊ばれしに、 特にこの二振を御賞翫せられしは、適々以て行平の作の卓絶非凡、真の希有の朱珍たるを知るに足るべきなり。 其の他行平の名作として世に知られたるものには、閑院宮家傳来の利目丸、赤松氏重代の桶丸、 日光東照宮に所蔵さるるもの等あり。而るにして此の如き添加の名匠が本村に居住し、遂に高田鍛冶の 基をなすに至りしは、吾人高田人士の大いに栄誉とし、はた誇りとすべきところたらずんばあらず。 系譜の傳ふる處によれば、行平はもと駿河國の住人にして従二位中納言紀梶長より出で、彼(か)の 土佐日記の作者「紀貫之」及び「紀友則」と、其の祖を同じうする人なり。・・・・・・ ・・・・古来、刀鍛冶は普通の工匠と其の選を異にし、もっとも名誉の職、神聖の業務と 見做されしかば、苟も常時にありて名を天下に成さんと欲せしものは、武士にして猶之を身を 投ずる者ありし程なれば、文筆の系統に生まれたる行平も、亦其の如き時代の風潮に激勵されて、 遂に刀鍛冶の志を立てしものならん乎。 かくて行平は鎌倉に召し出され、時の将軍頼朝に仕ふる身となりたり。 建久7年(1856年)大友能直豊前豊後の守護職として、當国へ下向あるに及び、行平も之に巵従して来たり。 |
刀剣杉田様 刀剣・日本刀豆知識 豊後刀(その一) 刀剣杉田様 刀剣・日本刀豆知識 豊後刀(その二) 渓流詩人の徒然日記 豊後 高田刀 名刀幻想辞典 紀新大夫行平(きしんだゆうゆきひら) |