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太陽と情熱の国、それにスペイン文化の象徴ともいえる"フラメンコ"・"闘牛"(開催時期は3月〜10月上旬の間)など、日本から地球の裏側にある魅惑のスペイン。 史跡、文化、そして美味しい食べ物など、期待膨らむスペイン10日間の旅行へ、旅行好きな家内に口説かれ、2006年10月出発。福岡発→成田国際空港→LONDON ヒースロー空港経由→スペインバルセロナです。 |
![]() イベリア半島のローマ化 ローマとカルタゴ(現在のチュニジア)は、地中海の制海権をめぐって対立し、イベリア半島が覇権争いの場所となり、紀元前200年にカルタゴを滅ぼしたローマの、長期にわたるヨーロッパ支配が始まった。イベリア半島もローマ帝国の支配下に入りその後、500年間にわたって、ローマがスペインに様々な足跡を残す。(直線道路、橋、水道橋、円形劇場、都市設計など)そして、ラテン語を基本としたスペイン語は、今日まで残っています。 当時、鉱山で産出された金や、銀の大半は、船でローマに運ばれる。それから1000年後には、今度は、スペインが新世界に対して、同様の略奪を行なうようになります。ローマの支配力が強まるにつれ、植民地はローマ化を意味するようになり、多くのローマ人がヒスパニア(イベリア半島)に移住し、独自の慣習を打ち立てました。 ほぼ300年にわたって安定と繁栄の時代が続いたが、紀元3世紀になると、ローマの防衛にひびが入り、帝国の未来にかげりが見え始める。 北方の諸族をはじめ、5世紀には、残忍な西ゴート族がイベリア半島に侵入し、584年に国を統一する。 キリスト教は、3世紀後半に伝来していたが、西ゴート王国は、カトリックを公認宗教に決定し、こうした教会と国家の関わりは、その後のスペイン史において、きわめて重要な意味を持つ。 イスラム教徒=モーロ人 による征服 マホメット(570-632)の死後、アラブ及び北アフリカの大半は、イスラム教という新しい人類平等主義の宗教の影響下に入った。スペインの不安定な状況は、北アフリカの領土まで知れ渡っていた。イスラムの指導者たちは、海峡を越えて、ベルベル人の軍を送り込んだ。スペインで、"モーロ人”と呼ばれたこのイスラム教徒は、やがて西ゴート族王に対して決定的な勝利をおさめ、イベリア半島を制圧する。 イスラム勢力(モーロ人)による半島征服が速やかに成功した理由は簡単に説明できる。イスラムは宗教面での寛容を主義としていたので、ユダヤ教徒やキリスト教徒も信仰の自由を許され、ローマ法の終焉によって、イベリア人奴隷たちも解放されたのです。 一方、イスラム教徒と敵対する西ゴート族は、無益な仲間同士の紛争に明け暮れていた。そうしたイスラム軍の優勢を唯一くつがえしたのが、716年アストウリア王国を建国したコバドンガの戦いである。イスラム軍の敗北は、半島に非イスラム地帯といすき間を残すことになる。 |
バルセロナ Barcelona 2006年10月20日
スペイン最初の観光が、観光都市として人気の高いバルセロナです。ホテルを8時00分出発。朝食は、7時30分のOPENで30分で済ませる。まだ夜が明ける前の高速道路をバルセロナ市街に向け走ります。目的地までは約く一時間の距離でしばらく走るとると、地中海の方角から真っ赤に染かかった空が見え始めました。周りを紅く明るく照らし始めますと、素晴らしい景色が走るバスの前に現れ、また小高い丘が反射に照らされ、感動する風景が目的地に着くまで楽しめました。市街に近づいて来ますと、奇抜な砲弾の形をした建物が見え、またその先に、サグラダファミリアの先端の塔が見えてきました。天気も快晴で観光日和です。最初の見学所グエン公園に着きスペイン最初の観光です。
ガウディの熱心な支援者、又、よき理解者でもあったバルセロナの実業家、グエル伯爵と組んで最初に手けた公園、モザイクタ イルを使ったベンチや階段、正門脇の待合室の流れるような造形と破砕タイルの多用が、想像力をかきたて、複雑な様式を作り出している。 彼は、実生活では、後の半生を、事実上の世捨て人として過ごした。 とりつかれたように、教会建設にのめり込むガウディは、資金繰りが難しくなると、自分の財産を売り払ったり、友人に施しも求めた。やがて、常軌を逸したこの天才ガウディは、悲劇的な生涯を閉じた。1926年、ガウディは、路面電車にはねられ死亡し、浮浪者と間違えられたほどだったそうです。 |
1882年にフランシスコ・ビリャルが着工し、1891年からアントニオ・ガウディが引き継いだ。彼はラテン十字型の教会を作ろうと計画する。三つのファサードにそれぞれ4本の塔を置いて十二使徒を表し、中央にはさらに5本の塔を置いて、キリストと福音史家を表そうとした。中世の方法を取り入れて、彼は設計図を使わず建設が進む中で、随時変更を加えていった。 40年後に彼が亡くなった時、完成したのは、わずかに1本の塔、地下聖堂、キリスト降誕のファサードだけだった。 観光収入、寄付などで、建設費のめどがたち、完成は25年後頃と言われ始められています。完成すれば、イエスと聖母を表す170mと150mの塔を中心に、イエスの降誕、受難、栄光からなる3つのファサード、使徒を意味する4基の塔、福音家に捧げる4基の塔が出来る予定です。 |
バルセロナ市内観光へ、ピカソ美術館は、ピカソの作品を集めた素晴らしい美術館です。幼少期のものから「宮廷の侍女たち」の
連作、晩年に力を注いだ版画などが数多く治められていました。 中庭の階段を上がったところでは、パブロ・ピカソの一生に沿って、
作品をたどっていく手法がとられていました。10歳のときのスケッチをはじめ、青春時代に描いた「青の時代」など、ピカソの初期作品
が収められ、どの作品にも、1900年のパリ滞在の影響が色濃く漂っているそうです。
2度目のバルセロナ滞在(1901〜1904)で描いた作品の多くが展示してあり、パブロ・ピカソが、前期に描いた肖像画をあれだけ多く多
く鑑賞したのは始めての経験でしたが、私には、絵のこと良くわかりません。
後期のピカソは、スペインの古典作品の構図とモティーフを使って新たな作品を生み出しているのを鑑賞でき、これは解りました。
マドリッドに展示してある”ゲルニカ”を観るのが楽しみです。
次に、カサ・ミラ(世界遺産)は、独特の曲線を用いた建築で、アブストラクト彫刻と呼ばれています。現在も人が住みマンションとして
使われており、世界遺産に人が住み生活しているそうです。カサ・バトリョ(世界遺産)もバスの中から撮った写真です。ガウディの
後期代表作の一つで、富豪バトリョ家が増改築のためガウディに依頼した邸宅です。
![]() カサ・ミラ 独特の曲線を用いた建築(ガウディ) |
![]() 写真の左側三分の一建物が、カサ・バトリョ |
バレンシア Valencia
バルセロナ観光後、約380km離れたバレンシアへ、5時間のバス移動です。地中海沿岸にを沿って、車窓から丘陵地帯のオリーブ畑を、
ときには、地中海の青い海を眺めながら、今夜の宿泊ホテルまで、高速道路を走るだけです。
夕食は、名物料理のチキン料理を素敵なレストランで召し上がりました。翌日は、バレンシア市内観光、世界遺産ラ・ロハン、カテドラルを観光します。(下の写真は、バレンシア市内の市場と世界遺産ラ・ロハン、カテドラルです。)
ラ・マンチャ地方の風車 小説ドン・キホーテの舞台となったラ・マンチャ地方は、今日も、よく晴れ渡っています。スペインを代表するこの風景、素晴らしい眺めです。澄み切った真っ青な空に白い雲、そして白い風車、感動の風景です。ドン・キホーテの無邪気な妄想
の世界では、ラ・マンチャの風車は、巨人に見え、馬にまたがり、ラ・マンチャの平原を疾走して行くのは、ドン・キホーテとその忠実な従者サンチョ・パンサの亡霊だ。昼食のレストランは、ここからバスで1時間走った平原の中のただ一軒の、田舎風レストランで、なんとなく雰囲気のある小さな素敵な建物でした。ドンキホーテランチをいただきました。またオーナーの娘さんと、ツーショットの記念写真も撮らせてもらいました。食後、いろんな記念写真を撮り、これからグラナダへ、300km4時間のバス移動です。旅行の前半は、移動の時間が長いです。
グラナダ Granada
3日目の宿泊先グラナダのホテルには、7時ごろ到着。4時間のバス移動で疲れました。ディナー食は、メルルーサという白身の魚のフライ、それにオーダーで、生ハムの最高級といわれる”イベリコ”「どんぐりの実で育った豚」をいただきました。ホテルの周りには、土曜日の夜とあって、大勢の若い人達がカフェやバールに集まり、明け方までおしゃべりに夢中になり騒ぎ楽しんでいました。ところが、ホテルの部屋隣にも、人の出入り、部屋の中で騒ぐ音などがうるさくて眠れず、とんだハプニングに遭いました。
翌朝は、8時にホテル出発しましたが、夜明け前で、外はまだ真っ暗でした。30分ほどでアルハンブラ宮殿に到着したころに、やっと空が薄明るくなってきました。私たちのグループがアルハンブラ一番乗りでした。すこし肌寒かったのですが、気分は爽快で、宮殿に向かって歩きました。薄明るくなった早朝の宮殿内を歩くのも、気持ちよいものでした。2時間30分ゆったりした見学時間が取れました。
アルハンブラ宮殿
ツアー前半のハイライト、アルハンブラ宮殿の見学です。モーロ建築が見事に開花したナサリーエス宮殿、そしてカルロス5世が建てたルネッサンス様式の宮殿。それに数々の庭園が配置されたヘネラリーフェの夏の宮殿、まるで楽園の迷路です。水の流れる噴水、池の水面の反射、高い生垣、それにバラやスイカズラ、ジャスミン、ブーゲンビリアなどの花々がかもしだす光と色彩、音、香りが、とても素晴らしいです。
アルハンブラの名の由来は、アラビア語で「赤」を意味する言葉だそうです。赤土と石を混ぜ合わせ、強度を出した城壁の色を指しています。
かっては、城壁内部が、一つの町で、四っ門と23の塔、七つの宮殿があり、労働者の住まいや、工房、浴場、そしてモスクもあったそうです。
夏の離宮であった、ヘネラリーフェ庭園から眺めるアルハンブラ宮殿は、絵葉書どおりの景観でした。
ミハス Mijas
地中海から内陸部に8km入ったところに、小さな白い村ミハスがあります。アラブ時代の城壁や、17世紀の修道院など見どころがたくさんあり
やはり、ここではゼラニウムを飾ったバルコニーや、クラフトショップなどまた、絵のような美しい白い街並みの光景を堪能できました。
宿泊ホテルも、こじんまりとした可愛いホテルでした。ホテルバルコニーからは、地中海の青い海も眺めることが出来ました。
夕食も、当ホテルでゆっくりと、いただくことが出来、心に残る素敵なホテルでした。
右をクリックしますと、白い村ミハスの風景とホテルの写真です。
ロンダ Ronda
旅行5日目です。スペイン旅行後半に入りました。ロンダの観光を済ませ、セビリア、コルドバ、マドリッドへと、北上して行きます。天候も、晴天続きで楽しんでおりますが、私たちがスペインに入った日の前、10日間は雨続きだったそうです。
地元の人には恵みの雨で、観光客にはそうではないとの事で、しかし今のところ雨には遭っておりません。
白い村ミハスを9時に発ち、2時間のバス車窓からの観光がスタートします。ロンダに向け、高速道路ひたすら走ります。
途中、犬も転げ落ちると噂される厳しい山越えがありました。バスは速度もあまり落とさないので、多少不安な気持ちになりました。心の中で無事を願いました。
11時ごろロンダに着きました。小雨が降り初めての傘を差しての観光になりました。現地のガイドさん、約束の時間に来なくて、ヌエボ橋、闘牛場など観光して周り、写真撮りに夢中になり、一時グループから離れるなど、ハプニングもありました。ロンダの観光済ませ、バスで2時間の移動です。行き先は、世界的に有名なブランドワインの醸造所見学です。セエ リー酒の試飲も体験し、夜は、本場セビリアのフラメンコディナーショーを夜遅くまで楽しみました。
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セビリア Sevilla /コルドバ Cordoba
昨晩は、スペイン本場のフラメンコを観賞しました。2時間ほどのショーでホテルに帰り着いたのは夜中の11時過ぎでした。前席カブリつきで見たかったのですが、後方からの観賞で今ひとつ感激が伝わりませんでした。話は別ですが、市内から少し離れた田舎の方で、家族一家で感動を与えるフラメンコショーをやっている場所があるそうです。クリントン前大統領も観賞に行かれたそうです。再びスペインへ訪れる機会ありましたら行ってみたいですね!。
午前中は、セビリア市内観光です。スペイン最大の大寺院カテドラ、スペイン広場、黄金の塔、それに1929年に開催された万博会場跡など見学します。セビリアの歴史は、ローマ時代までさかのぼります、セビリアを築いたのは、伝説ではヘラクレスですが、実際はカエサルとのことです。モーロ人がこの地に住みついたのは、711年それから4世紀後にセビリアは、繁栄の時を迎える。ヒラルダの塔は、この当時に造られる。そして、この黄金期は、1248年に終わりを迎える。しかし、15世紀ヨーロッパがアメリカ大陸を発見したことを機に、再びセビリアに繁栄が訪れる。グァダルキビル川を下って、大西洋までわずか90キロメートルという地の利を活かし、マゼランやコロンブスが、セビリアの港で帆を揚げた。航海がもたらす巨万の富で、セビリアには、記念物がいくつも造られ今日に至る。
コルドバは、人口31万人の小さな町だそうです。ローマ時代とイスラム王国の時代は、この地方の首都で、ローマ人が、ここに町を建設したのは、紀元前169年。コルドバが、隆盛を誇ったのは、イスラム支配下の時代で、8世紀から10世紀にかけゴルドバは、ヨーロッパのせん望の的になっていた。しかし、11世紀に衰退し始める。ゴルドバには、11世紀時代の城壁が今も残る静かな古都でした。また、13世紀にはキリスト教徒がこの街を奪い返したが、今でもイスラムやユダヤの伝統が色濃く残っています。
ゴルドバ観光の最大の魅力であるメスキータは、モスクを意味するアラビア語で、建設が始まったのは、785年で848年と961年に拡張さら、987年には、2倍の大きさになった。内部は、赤と白の馬蹄形アーチがリズムカルに続き、当時から幻想的な建物でした。その後、キリスト教徒によって内部のど真ん中に礼拝堂が造られました。また、824本の柱と柱頭の形が、全て違うのは、ローマおよび西ゴートの時代に造られた古い建築を再利用したからです。アーチを二層に重ねる手法は、構造上の理由からで、ローマの水道橋を模倣したものだそうです。
マドリッド Madrid ・ セゴビア Segovia
スペイン旅行も、首都マドリッド及びトレド、セゴビア、アランフェスの観光を残すだけとなりました。マドリッドの同じホテルに3泊で、ゆったり した観光が出来ます。今日は10月25日(水曜日)第7日目です。ホテルの所在地市街中心部でプラド美術館まで徒歩で3〜4分の便利なと ころでまた、歴史ある建物をホテルに改造した由緒あるものでした。そこに3泊はラッキーでした。
出発は、ホテルを8時45分です。今日は、朝から空模様がよくありません。雨が間違いなく降りそうな予感がします。バスの中で、添乗員さ んから急遽、予定の変更しますとアナウンスがあり、先に、セゴビアを観光し午後から市内に戻り屋内施設の美術館周りにしますとのことで す。雨の予想が的中しました。午後のセゴビアは大雨で、ほかのツァー客は観光が全く出来なかったそうです。 午後の市内は、殆ど雨に遭わずに観光することが出来ました。
セゴビアの観光は、”アルカサル”、”水道橋”、”旧市街”で、好天の中、満喫することが出来ました。綺麗な風景も十分に写真撮ることができ大満足です。特に、水道橋は、圧巻でした、長さだけでなくその外観の美しさが見事で、石を積み上げただけの工法だそうで、現在に至るまでの2000年以上も、風雨に耐えるローマ時代の土木技術の高さには驚きです。
マドリッドの市内観光は、”プラド美術館”、”国立ソフィア王妃芸術センター”、”スペイン広場” ”王宮”など時間をかけ観賞することができました。特に印象に残った絵画は、ゴヤの「裸のマハ」「着衣のマハ」「カルロス四世一家」「巨人」「我が子を喰うサトゥルヌス」、ディエゴ・ヴェラスケスの「宮廷の侍女たち」、「ブレダの開城」。
国立ソフィア王妃芸術センターは、唯一、ピカソの「ゲルニカ」しか記憶に残りませんでした。ゲルニカの絵の大きさは、横幅6〜7メートル、縦の高さ3メートルある程の大きさでした。門外不出の名画との事でしたが、絵の内容は、あまり理解できませんでした。
夜の食事は、マドリッド名物”仔豚の丸焼き”を堪能しました。 気になる左の素敵な写真、別に2枚表示します。
トレド Toledo / アランフェス Aranjuez
10月26日(第8日目)は、マドリッドから南へ、70km離れた、永遠の古都トレドの観光です。トレドは、554年にゴート王国の首都となり、以後 800年間にわたり主要な役割を演じました。モーロ人の統治下にあったころは、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒が共存共栄する交易 の中心であった。1085年にカスティーリャ・イ・レオンのアルフォンソ6世に攻め落とされたのちにも、三つの共同体は、キリスト教徒の支配下 で、平和に繁栄を続けたが、14世紀なかばにユダヤ教徒共同体の迫害が始まり、1492年以降ユダヤ教徒とイスラム教徒の追放・弾圧ととも にトレドは衰退していった。
トレド中心部を散策してみると、石造りの家々が保存され、路地は迷路のように入り組んでいます。中世の時 代にタイムスリップしたようで、国内旅行では味わえない雰囲気です。ゆっくりとィ間をかけ散策したい所です途中で、トレドの銘菓”マサパン”をお土産に買いました。
レストランは、トレドの街がが一望できる高台でしたが、メニューがマス魚の蒸し焼き料理で、全員が初めて口に合わない料理でした。
午後からは、スペイン旅行の最後の観光、アランフェスの"王宮”の見学です。ここで、ちょっとしたハプニングが起こりました。宮殿全景が撮れるポイントを教えてもらlったので、そこへ急いで行こうと芝生に足踏み入れた途端、警備員から大声で怒鳴られ注意受けた。
私が先導して、後に数人が続いてきました。反省反省。