静から動−エベレストまでの道(3)
                     大平 展義

  
        エベレストBC                  エベレストBCにて57歳の誕生日

 3 月11 日 家族親戚友人等の見送りを受け、関空へと飛ぶ。ホテルの部屋に入りやっと出発出来ると安堵する。過去の遠征を回想する。いつかはヒマラヤへ、を心に秘め初めて行ったのは、大学2 年生の夏山合宿が終わった1966年韓国雪岳山だった。都内3 大学( 法政大、青学大、農大) で構成された日韓学生親善登山隊。2 週間の初めて経験する海外登山、見るもの、聞くもの、臭うもの感心する事ばかりであり、今後のヒマラヤへ夢を広げた。その後崑崙、ハルナ、そしてナンガ・パルバットと進み今回となった。

 目がさえて眠れない。眠い中早朝空港にて、麻生山岳部々長、後発隊の廣瀬君始め研究室の環境調査隊のメンバーと合流して機内へと進んだ。上海経由6時間余りのフライトで夕刻にカトマンズ空港に到着する。約30 年振りに降りた飛行場は、途中何度か建て替えられ全く面影もない。谷川登攀隊長の出迎えを受け、手配された大型バスにて宿であるホテルヒマラヤに落ち着き、全員で市内日本料理店にて夕食となった。

 翌日より手分けして各方面の挨拶回り、買い出しに出る者、最後の調整を終わりルクラ空港からのキャラバン開始は、天候の不順もあり4日目になった。

 ルクラからベースキャンプまで約50km、その昔、ヒラリーとテンジンが歩いたエベレスト街道、名だたる名峰を仰ぎ、現地民と触れ合いながら歩く。キャラバンの醍醐味であろう。3 月26 日 高度順応、休息とゆっくりしたペースで進み、途中カラパタールにも登り10 日目にしてBC 入りできた。テント村はかなりの人である。登山隊、調査隊、シェルパとキッチンスタッフを入れれば総勢30 人を越す大所帯となった。キッチンテントは高級ホテル厨房並みの様相である。そんな中にも楽しく食事をしていた調査隊は、環境、水質等の調査を終え2 日間の滞在で下山して行った。いよいよ登山開始である。我々が入山したときは3隊であったが、みるみる増え30 隊ちかくまでになっていたであろう。

 谷川登攀隊長は各隊とのルート工作等々ミーティングで奔走していた。ルートは着実に伸び、4月22 日 ルート工作の合間に小生57 歳の誕生日を祝ってくれた。メステントでの吉田コック長が作ってくれたケーキ、ヒマラヤの懐の中で岳友に囲まれての誕生会、最高の幸せを感じる。キャンプの前進も着実に進む。4 月27 日 私は高度順応を兼ねC3 へ向かう。この年で7000 mラインの無酸素はきつい。10 歩歩いては数分立ち止まり、呼吸を整えてまた歩く。口から心臓が飛び出すのではないかと言うぐらいゼエゼエハアハアで何とか7500m、C3 をタッチしてC2 に戻った。同行してくれた若い長久保君は退屈な1日だったと思う。4 月30 日山下総隊長BC 入りというので私は途中まで迎えに行く。体の不調と噂されたが予想より元気なので安心する。山下総隊長やはりベテラン登山家らしく、新聞、雑誌、日本食、そして豊富な情報のお土産を持参してくれた。その日全員揃い農大エベレスト村は大いに盛り上がる。

  
      エベレスト・アイスフォール            エベレストBC・麻生先生と

 いよいよ佳境に入って行く。それを応援するかのように加藤前山岳会々長率いる、村井田、千葉、斎藤、金子、小笠原、若山の7氏からなるOB 会支援隊もやって来た。しかしその中にはエベレストに執着していた桜井さんの遺品もあった。だめだったか。2人で約束したのに・・・・悲しみが込み上げてきた。桜井兄の分まで頑張ってやる。

 BC で2 日間滞在した一行に、我々は休養を兼ねペリチェまで同行、心強い声援を残して彼等は下って行った。BC に戻った我々は登山活動を再開する。5 月10 日谷川、長久保、廣瀬、吉田、中村の5 名がローツェの登頂に成功する。私もアタックすべくC3 へと出るのであるが腹痛下痢が酷くキャンプに戻る。

 5 月13 日入山して約2 ヶ月、疲労とストレスも溜まっている、ペリチェへ3 泊の休養を兼ねた遠足に出る。夕食はヤクのステーキで舌鼓をうつ。日本では到底上手いとは言えないが、久しぶりの肉だ。旨い。充分癒された我々はベースに戻り次なる山エベレストのタクティクスが出来上がる。

 5 月16 日 いよいよ大本営の攻略が開始された。まず、福留・山村両君と私が出て行く。BC マネージャーの下嶋君がビデオカメラを向けて見送る。その前を、自信ありげに勝利者マークの親指を立てポーズをとって行った。C1、C2 と到達し、此処より私には酸素の使用が許された。酸素を用いた私は信じられないほど体は軽く、アレほど苦労したC3 も難なく入れた。地元九州の山でハイキングしているよりも楽ではないか! 登れる。えっ! この年でエベレストサミッター!? 興奮して眠れなくなってしまった。

 私は、かねて、エベレスト隊に選ばれたなら、頂上は無理でも何とか最終キャンプまで這い登り、若いアタック隊員を送り出し、成功の暁、憔悴しきって帰幕した彼らを、農大風のミルクティで迎えてあげようと思ったこともある。しかしこれは行けると思った。今回我々の隊はHP を設け、各隊員日記を交代で書くようにし、それぞれ3 〜 4 回のローテーションが回ってきた。その私は偶然にも最終キャンプ、アタック前日であった。そして私はこう記した。『ここまで来たらもう狙います。30 年前遠くダージリンから見た頂き。テンジン氏から聞いた話。明日はその確認に行ってきます・・・・・アタックキャンプにて』
(つづく)

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