佐田の名所(人物)

賀来 惟熊(かく これたけ)


 幕末の実業家。民間事業者ながら、諸藩に先駆けて反射炉による大砲鋳造を行いました。

 日出藩の儒学者、帆足万里に学問を学んだ惟熊は、海防強化の緊急性を感じていた万里の勧めに従って大砲鋳造に取り掛かります。
 大砲鋳造に際して、島原藩からの許可は得られたものの、資金援助や技術供与はありませんでした。4人の息子や従弟の賀来飛霞をはじめとする賀来一族、顧問に迎えた砲術家の関讃蔵らの苦心の末、佐田神社の境内に反射炉が築かれたのが安政2年(1855)。薩摩藩主島津斉彬が薩摩藩初の反射炉を完成させる2年前のことでした。
 惟熊の次男、惟準(これのり)は明治維新直前まで、島原藩の注文に応じて鉄製大砲や銅製大砲の鋳造を行いました。四男惟舒(これのぶ)は佐伯藩の求めにより3年間で22門の大砲を鋳造し、賀来家が確立した大砲鋳造の技術は、三男三綱(みつつな)によって鳥取藩へも伝えられました。

 また、島原藩は惟熊へ、大砲の鋳造を島原でやるように繰り返し指示を出していました。
 ところが惟熊はこの指示を拒否し、佐田村での鋳造に踏み切ります。鋳造に携わった人夫は主に、佐田村およびその隣の且尾村(現在の大字且尾)から集められました。そのため、完成した大砲のみならず佐田で育った技師たちも各地へ派遣されていったそうです。

 現在佐田地区には、彼の功績を示す史跡が数多く残されています。


  • [参考文献]大分県立歴史博物館(2009)『おおいた発!幕末文化維新-賀来家・華麗なる一族-』
  • [参考文献]安心院町身心すこやか事業推進委員会(1988)『ふるさと佐田』
  •  耐火煉瓦塀 
  •  反射炉碑 
  •  賀来惟熊碑