1.少弐氏と一色氏の対立
室町幕府は将軍の足利尊氏が軍事、弟の直義(ただよし)が政務を行うという二頭体制でスタートした。
そのため、幕府内に「尊氏派」と「直義派」の2つの党派を生み、この対立は「観応の擾乱(1350〜1352年)」と呼ばれる内部抗争へと発展していく。
まず、尊氏の執事である「高師直(こうの・もろなお)」と「直義」が激しく対立する。
師直は武力で直義を政務から引退させたが、その後、南朝方と手を結んで復活した直義軍に敗れ、護送中に殺害された。
最後は、「尊氏」と「直義」兄弟の直接対決となる。
尊氏は南朝方と和議を結んで直義追討の綸旨を得ると、直義を攻めて降伏させた。
降伏した直義は、尊氏によって毒殺されたと云われる。
直義の死で一連の抗争は尊氏の勝利で終わった。
しかし、この幕府内の混乱は、それまで劣勢であった南朝方の勢力を挽回させることになる。
中央で幕府内の抗争が起きていた時、九州はどのようであったか?
鎌倉幕府創設以来、守護職を占めてきた筑前の少弐氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏が、九州探題の一色氏とともに北朝方として、懐良親王(かねよししんのう、後醍醐天皇の第16皇子)を擁立する菊池氏らの南朝方と争っていた。
ところが、同じ北朝方でありながら九州での盟主の座をめぐって、一色氏と少弐氏が対立するようになる。
少弐氏は、もともと九州を統括する大宰府の長官であった家柄を誇り、九州探題として支配権を振るう一色氏の存在を認めることが出来なかった。
文和2/正平8(1353)年、少弐頼尚と一色道猷(範氏)が針摺原(はりすりはら、福岡県筑紫野市)で激突する。
頼尚は道猷に対抗するため南朝方と和睦し、菊池武光の援軍を得て探題軍に勝利した。
武光には、少弐氏と一色氏の争いに乗じて、筑前方面進出の足がかりとする狙いがあった。
2.一色氏の敗北
針摺原(はりすりはら)で勝利した菊池武光は、北朝方の勢力を一掃するため、肥前の千葉氏、豊後の大友氏、豊前の宇都宮氏の攻略を開始する。
文和4/正平10(1355)年、菊池武澄(たけずみ)率いる南朝軍は肥前の晴気城(佐賀県小城市)を攻撃し、千葉胤泰(たねやす)を降伏させると、その勢いで南下し豊後に向う。
少弐軍と合流した南朝軍は1万の大軍となり、日田、玖珠、由布院、庄内、狭間を経て府内に攻め入る。
大友氏の当主は、兄の氏泰から家督を譲り受けた氏時(8代)であったが、隠居した兄の氏泰が、後見人として大きな影響力を持っていた。
南朝軍の豊後侵攻を知った氏時は、兄(氏泰)の館を訪れ、
「南朝の大軍が府内に迫っております。急な事で、我が方には僅かな兵しか集まっておりません。如何したものかと・・・」
と、相談した。
すると、氏泰は少弐頼尚から届いた書状を見せて、
「南朝方の狙いは、一色道猷を九州から追い出すことだ。今回は無理をせず、次の機会に備えたほうがよかろう・・・」
と、答えた。
少弐頼尚と氏泰は、多々良が浜の戦い以来の付き合いで、ともに親交があった。
「では、戦う姿勢を示しながら、降伏を・・・」
氏時は3千の兵で出陣し、南朝軍を狭間で迎え撃ったが、直ぐに退却し、府内館(上野丘の台地)に立て籠もった。
府内館は、すぐに南朝軍に包囲され、氏時は降伏する。
「九州の名門と云われる大友氏もこの程度か・・・」
と、府内を占拠した武澄は、上機嫌であった。
南朝軍は、一色道猷の息の根を止めるため、豊前から博多に向った。
この時、氏時が率いる大友軍が南朝軍の先鋒を務めた。
「大友までが幕府に叛くとは・・・」
と、道猷は悔しがった。
孤立無援となった道猷は、長門に逃れ、二度と九州に戻ることはなかった。
こうして、南朝軍は博多を手に入れ、北部九州を制圧した。
3.高崎山城の築城
延文3/正平13 (1358)年4月、南朝の懐良親王は南九州の制圧に乗り出す。
まず、薩摩の島津氏を味方に引き入れ、日向の畠山直顕(なおあき)を攻めた。
直顕は穆佐城(むかさじょう、宮崎市高岡町)に籠って戦うが、敗れる。
これで、九州のほとんどが、南朝方の勢力となった。
この頃、九州が南朝方に制覇されるのを阻止するため、自ら九州に出陣しようとしていた足利尊氏が、京都で病死する。
波乱に満ちた53年の生涯であった。
後を継いだ2代将軍の義詮(よしあきら)は、父の意志を継いで、九州での北朝勢力を挽回するため、
「亡き大御所(尊氏)の恩に報いるため、今一度、幕府方として、南朝方に立ち向かってくれ!!」
と、九州御三家(少弐氏、大友氏、島津氏)に密使を送った。
密書の件で、氏時が兄の氏泰に相談すると
「関東名門の我らが、菊池のような田舎豪族の前に、いつまでもひざまずくわけにはいかぬ・・・」
と、答えが返ってきた。
「私も同じ気持ちです。しかし、府内館では戦えませぬ・・・」
先の戦いで、府内館の防備力の弱さを知った氏時は、詰め城の必要性を説いた。
「それなら・・・、高崎山はどうであろう」
「そうか、あの山なら四方が見渡せ、海からの補給も出来る」
こうして、高崎山に城を築くことが決まり、密かに工事が進められた。
高崎山は大分市と別府市の境界にあり、別府湾にせり出すようにそびえ、野生猿の自然動物園として有名である。
標高628mの山頂は、四方を見極めることができることから、別名「四極山(しはすやま)」とも呼ばれている。
高崎山の築城が完成する頃、
「菊池軍を豊後に誘い出し、肥後の阿蘇惟村殿とともに、三方から挟み撃ちにして叩こう」
と、大宰府の少弐頼尚から密使が訪れた。
「ついに、頼尚殿が動かれるか。ようやく、この時が来たか・・・」
と、氏泰、氏時兄弟は顔を見合わせた。
4.菊池軍を追い払う
「我ら、足利殿の恩に報いるため、北朝方に寝返る!!」
大友氏時は府内に駐屯していた南朝軍を攻め、北朝方に復帰することを宣言した。
「偽りの降伏であったか、裏切り者の氏時を成敗してやる!!」
氏時の寝返りを知った懐良親王は怒り、南朝軍5千を率いて豊後へ攻め込んだ。
延文3/正平13 (1358)年12月、再び、挟間経由で侵入して来た懐良親王は、銭瓶峠(ぜにがめとうげ、由布市狭間町七蔵司)に陣を敷き、高崎山城に攻めかかった。
しかし、堅固な城に作り替えられた高崎山城を容易に攻め落とすこと難しかった。
「いつの間に、こんな城を・・・」
懐良親王は、悔しがった。
すると、大友一族の志賀氏房(うじふさ)が大野荘から駆けつけ、南朝軍の背後に襲い掛かった。
「退却じゃー。氏時め・・・、次は見ておれ!!」
と、懐良親王は退却命令を下した。
不覚を取った南朝軍は、翌年3月に3度目の大友討伐軍を起こす。
今度は、菊池武光が1万5千の兵を率いて出陣した。
武光は、先の戦で背後を突いてきた志賀頼房の居城である鳥屋城(豊後大野市)を攻撃し、背後の憂いを絶ってから高崎山城を取り囲んだ。
「少弐の大軍が動き出すまでの辛抱だ・・・」
氏時は城兵を励ましながら、南朝軍の攻撃に耐えた。
籠城が1ヶ月になろうとする頃、大宰府の少弐軍が豊後を目指して南下している知らせが入った。
「なにー、少弐が大軍で背後から迫っていると・・・?」
武光は、北から迫る少弐軍と高崎山から繰り出す大友軍による挟み撃ちの危機を悟り、すばやく逃げる決断をした。
「少弐が裏切った。直ぐに退却じゃー!!」
南朝軍は、高崎山の包囲を解いて撤退を始めた。
「雪辱を晴らすのは、今だ!!」
南朝軍を追いかける氏時の顔には、勝利の確信が宿っていた。
更に、阿蘇惟村が南朝に反旗を翻し、逃げ帰る南朝軍の退路を絶つため、肥後小国(おぐに)に砦を築いていた。
「惟澄殿の息子が、我らを裏切ったというのか・・・」
武光は絶句した。
南朝の名将として知られる阿蘇惟澄には、2人の子供(惟村と惟武)がいたが、親子兄弟の仲はあまり良くなかった。
特に長男の惟村は、南朝一辺倒の父のやり方に反感をもっていた。
いずれにしろ、南朝軍は三方を完全に包囲された。
「何としても、隈府城(熊本県菊市)に戻るぞ!!」
と、武光は少弐、大友連合軍の追撃を振り切りながら、全力で小国に突進した。
必死で突進してくる南朝軍に阿蘇軍は圧倒され、あっと言う間に砦は破られた。
そして、少弐軍が小国に駆けつけたときには、既に南朝軍は阿蘇山の近くまで逃れていた。
5.筑後川の合戦
少弐頼尚は大宰府に4万の大軍を集めると、豊後の大友氏時、薩摩の島津氏久と連携し、三方から同時に、南朝方の本拠地である隈府城(熊本県菊池市)に攻め込む準備を始めた。
頼尚の動きを察知した菊池武光は、懐良親王とともに対抗策を思案した。
「このままでは、三方から包囲されてしまう・・・」
「ならば、先手を打って少弐を叩くしかなかろう。少弐を倒せば、大友、島津は何も出来まい・・・」
と、武光は大友と島津の準備が整う前に、頼尚を倒すことに決めた。
延文4/正平14(1359)年8月、菊池武光率いる南朝軍4万は、大宰府に向って進軍し、迎え撃つ少弐頼尚を大将とする北朝軍の6万と筑後川を挟んで対峙する。
南朝軍が筑後川を渡って攻撃すると、両軍は大保原で激突し、両軍合わせて5千人を越す死者を出すほどの激戦が繰り広げられた。
この戦いは、筑後川の合戦(又は、大保原の合戦)と呼ばれ、日本三大合戦の一つに挙げられる。
戦いは、菊池軍の奮闘で南朝軍が勝利し、敗れた少弐頼尚は嫡男の直資と多くの重臣を失い、大友氏を頼って豊後へ逃げた。
懐良親王と菊池武光は念願の大宰府占領を果たし、九州の南朝方の拠点である征西府を大宰府に移す。
こうして、大宰府は以後13年間、南朝方の支配下に置かれることになる。
6.長者原の戦い
康安元/正平16(1361)年10月、新しく九州探題に任命された斯波氏経(しば・うじつね) が、海路で豊後の府内に入る。
今や九州で北朝方として頼りになるのは、豊後のみとなっていた。
「新しい探題が、豊後に送り込まれたか・・・。何としても、大友を屈服させねば、安心出来ぬ!!」
翌年9月、菊池武光率いる南朝軍3万が豊後に侵入し、府内を占拠する。
大友氏時は、探題の氏経、少弐頼尚とともに高崎山城へ退いた。
武光は本陣を万寿寺 (大分市)に置き、3万の大軍で高崎山城を包囲した。
大友の本拠地である府内と高崎山は完全に分断され、城は孤立した。
氏経は高崎山の頂上から、麓に陣取る南朝軍を眺めながら、
「今頃、大宰府は手薄であろうな・・・」
と、微笑んだ。
氏経には、大宰府を奪回するための秘策があった。
松王丸(氏経の嫡子)を総大将とする少弐軍7千が、武光の留守を狙って、大宰府を攻撃する手筈になっていた。
「大宰府に少弐軍が向っております」
と言う知らせを受けた武光は、
「大宰府が危ない!!」
と言うと、高崎山の包囲を解いて全速力で大宰府に戻る。
武光から留守を任されていた弟の武義は、5千の兵とともに少弐軍を長者原(糟屋郡粕屋町大字戸原)で迎え撃ったが、苦戦していた。
「武義、我らが来たからには、もう安心だ!!」
死を覚悟した武義にとって、武光の声は天の声のように思えた。
武義軍は敗北寸前であったが、豊後から駆け戻った武光の救援によって、形勢は逆転し、少弐軍の惨敗となった。
敗れた少弐軍は少弐頼資が戦死し、総大将の松王丸と少弐冬資は命からがら豊後へ逃げ帰る。
「もう一歩のところで、武光にやられたか・・・」
息子(頼資)を失った頼尚のショックは大きかった。
長者原の敗戦は、新探題の氏経にとっても大きな打撃であった。
7.氏時の降伏と死
12月に入ると、菊池武光は再び軍備を整え、豊後に進攻する。
大友氏時は、高崎山城に籠って必死に抵抗したが、兄(氏泰)が病没するなどの不幸が重なり、その戦意は全く奮わなかった。
その頃、九州は南朝方の勢力下におかれ、北朝方は豊後の大友氏だけとなっていた。
「もう、近隣からの援軍は期待出来まい・・・」
と、氏時は京都の幕府に援軍依頼の使者を送る。
「幕府の全勢力をかけて、援軍を願う!!北朝方として最後まで戦ってきた大友氏を見捨てるつもりか・・・」
しかし、幕府からの返事は、
「援軍に、もう少し時間がかかる。それまで、頑張ってくれ」
と言う内容で、納得出来るものではなかった。
高崎山城は難攻不落を誇り、南朝軍のたび重なる攻撃にびくともしなかったが、援軍を期待できない籠城は無意味なものであった。
こうして、籠城戦は半年過ぎた。
貞治2年/正平18(1363)年5月、斯波氏、少弐頼尚、冬資親子らは抗戦を断念し、夜の闇に紛れ、手勢とともに船で周防の大内氏のもとに逃げる。
翌年、斯波氏経に代わって、渋川義行(しぶかわ・よしゆき) が九州探題に任命されたが、九州に入ることはなかった。
「幕府は九州の実情を理解しておらぬ。もはや、これまでか・・・」
貞治3/正平19(1364)年2月、援軍の見込みが途絶え、孤立した大友氏時は、やむなく南朝軍に降伏し、恭順を誓う。
「口先だけの降伏には、もう騙されぬ・・・」
降伏の条件として武光が求めたものは、氏時の剃髪と隠居であった。
後を継いだのは、南朝寄りの大友一族によって盛り立てられた嫡男の氏継(9代)である。
貞治6/正平22(1367)年、京都では2代将軍の義栓が没し、管領の細川頼之の後見で、当時10歳の義満が3代将軍を継いだ。
翌年、府内では隠居した氏時が失意の中で病死する。
8.氏継と親世の対立
応安3/建徳元(1370)年8月、幕府は最後の切り札として、今川了俊(りょうしゅん、貞世) を九州探題に任命する。
了俊は嫡男の義範を豊後、弟の仲秋(なかあき) を肥前に入れて、自らは門司方面から上陸し、3方面から征西府のある大宰府を攻撃する戦略を立てた。
国東の豪族である田原氏能(うじよし)は、了俊と連絡をとりながら北朝派の大友家臣をまとめ、氏継の弟である親世(ちかよ)を擁立し、高崎山城で兵を挙げる。
国東半島を所領とする田原氏は、詫摩氏、志賀氏と並び大友御三家と称され、氏能の父の貞広は針摺原(はりすりはら)の戦いで、菊池軍と戦い討ち死にしている。
大友氏は、当主の氏継が府内館を拠点に南朝方、弟の親世が高崎山城に籠り北朝方に分裂した。
応安4/建徳2(1371)年7月、義範は氏能に守られ海路で高崎山に入る。
8月、義範が高崎山に入った知らせを聞いた菊池武光は、伊倉宮(いくらのみや・懐良親王の嫡男) を奉じて、豊後へ攻め入り高崎山を包囲した。
「今度こそ、高崎山城を落とすぞ!!」
と、武光は意気込んで攻め立てた。
翌年の正月2日までに百度の戦を仕掛けたが、親世をはじめ氏能らの奮戦で、陥落させることが出来ずにいた。
12月になると、仲秋が肥前に上陸し、松浦党を含む肥前の北朝勢力を結集し、大宰府攻撃を呼びかけた。
翌年の2月、周防、長門の豪族である大内弘世の援助を受けた了俊が、7万の大軍を率いて関門海峡を渡り、豊前に上陸する。
「さては、大宰府を3方面から攻めるつもりだな。大宰府に引き返し、懐良親王と対応を協議しなければなるまい」
大宰府に危険が迫ると予測した菊池武光は、ついに高崎山城攻撃を断念する。
「氏継殿、敵を高崎山から一歩も出さぬように頼んだぞ!!」
武光は、大友氏継を高崎山の抑えに残すと、ただちに主力を引き連れて大宰府に戻る。
了俊の九州上陸に合わせて、嫡男の義範が豊後、弟の仲秋が肥前から北朝軍を率いて大宰府攻撃に向う。
氏継は高崎山から討って出た義範の軍勢に敗れ、高崎山の包囲を守りきれなかった。
8月、南朝軍は3方面から攻め入った北朝軍に敗れ、大宰府から高良山(こうらさん、福岡県久留米市)に退く。
大宰府を取り戻した了俊は、そこを九州探題の本拠地とし、南朝勢力の一掃に取り組む。
弟の親世に府内を追われた氏継は、豊後を去る前に柞原宮(ゆすはらぐう)を参拝し、
「いつの日か、帰国が叶ったならば、田地を寄進し、社壇を新たにし、神事祭礼を昔どおり勤めるので、どうかお家をお守り下さい」
と、祈願している。
懐良親王は高良山を南朝方の根拠地としたが、大宰府を退いた翌年に菊池武光が病死し、嫡男の武政も翌々年に亡くなるという悲運が続き、肥後に退く。
その後、懐良親王は征西大将軍を良成親王に譲って引退し、九州南朝軍の勢力は、急速に衰えていく。
南朝と北朝が和解し、一つとなったのは、20年後の明徳3/元中9(1392)年である。
約60年に及ぶ長い動乱期に、九州北朝軍のかなめ役を遂げたのが、豊後の高崎山城であった。
大友氏は、南北朝合体時に親世と氏継の兄弟間に和睦が成立し、以後の家督を二人の子孫から交互に出すことに取り決められ、氏継の孫の親繁(ちかしげ)まで続くことになる。
作成 2012年12月28日 水方理茂
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