1.大内氏の滅亡
弘治3(1557)年3月、4百人のキリシタン信徒が府内教会に集まり、盛大に復活祭(イースター)が行われた。
復活祭とは、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが3日後に復活したことを祝うキリスト教の重要行事である。
最近になり、日本でもイースターが知られるようになったが、日本で最初に行われた復活祭は、豊後の府内(現在の大分市)であろう。
当時の豊後は大友氏21代の義鎮(後の宗麟)が治めており、父親の義鑑が「二階崩れの変」で不慮の死を遂げてから7年が経っていた。
家督を継いだ翌年、フランシスコ・ザビエルと面会した義鎮はキリスト教に惹かれ、領内での布教を許可する。
その後、府内は日本布教の拠点となり、教会や病院などが建てられ、信徒は1千5百名を越していたという。
義鎮は館から出て、復活祭の様子を遠くから眺めていた。
「あれが、キリシタンの祭りか・・・。何故か、あの音を聴いていると、安らかな気持ちになる」
「あれは、ムジカと言う西洋の音楽です」
「そうか、ムジカというのか・・・」
ムジカ(Musica)とは、ラテン語で「音楽」を意味し、英語のミュージック(Music)の語源となるもので、後年、義鎮は日向遠征の時、理想の国をつくろうとして、その町をムジカ(現在の宮崎県延岡市無鹿町)と名付けている。
バラの花咲く教会の庭では、オルガンの音に合わせて唱和する歌声が流れ、教会の周りをパレードが1周するごとに放たれる祝砲が府内の町中に轟いていた。
「御屋形様、大内義長(義鎮の弟)殿が毛利軍に攻められ、長門(山口県下関市)に逃れたようです。すぐに、館へお戻りを・・・」
ムジカの音色に浸っていた義鎮は、館からの使者により、現実に引き戻された。
6年前、大内義隆が家臣の陶晴賢(すえ・はるかた)のクーデターによって殺害されたため、義鎮の弟晴英(はるふさ)が大内氏の養子に入り、義長と名乗っていた。
府内館に戻ると、広間に重臣たちが集まっていた。
「すぐに、援軍を出しましょう」
と、言うのが大半の意見であった。
ところが、国東水軍を率いる田原親宏の報告によると、事態は容易ならぬものであった。
「関門海峡、周防灘は毛利水軍に海上封鎖され、我らの渡海を阻んでおります」
「それでは、ご舎弟殿を見殺しにするのか・・・」
しばらく、評定は沈黙が続いた。
「すぐに出陣の準備をせよ!!」
と、義鎮は出陣の命を下した。
「それでは、救援に・・・」
「いいや、違う。この機を逃さず、大内領(豊前、筑前)を奪う」
と言い放つと、評定の場から立ち去った。
義鎮と元就は、大内領を両者で二分する約束を水面下で交わしていた。
義鎮が筑前、豊前を、元就が周防、長門を侵略するにあたり、両者はお互いに介入しないというのが約束であった。
この時、まだ27歳の義鎮は、61歳の老獪な元就を甘く見ていた。
結局、毛利軍から攻められた義長は、兄からの援軍が得られぬまま、長福寺(現在の功山寺、山口県下関市長府川端)で自害する。
弟の死を知らされた義鎮は、天に向かい、
「許せ、八郎(義長)・・・。お前の死は、決して無駄にせぬからな・・・」
と、詫びた。
すると、天から
「兄上は、私が大内家に行くことに反対だった。自分から望んで大内に入ったのだから、悔いはありません」
と、返事が返ってきた。
義長の死により、南北朝時代から数えて200年、平安時代から数えると500年以上も周防、長門を支配し、西国一の大名として知られた大内氏が滅亡した。
義鎮の命で、大友軍は怒涛のごとく豊前と筑前に攻め入った。
豊前では、田原親宏、田原親賢(ちかかた)が率いる国東衆が馬ケ岳城、香春岳城、門司城などを占領する。
また、筑前方面に攻め入った戸次鑑連(べっき・あきつら)、臼杵鑑速(あきすみ)の軍勢も、圧倒的な勢力で古処山城(福岡県朝倉市秋月野鳥)、勝尾城(佐賀県鳥栖市牛原町字若林)を落とした。
こうして、義鎮は九州にあった大内領の全てを手中に収めることが出来た。
2.毛利元就の九州進出
大内氏が滅んで1年後、その旧領は大友氏と毛利氏によって二分された。
大友義鎮が豊前と筑前、毛利元就が周防と長門を手中に収め、国境を接するようになると、両者の直接対決は避けられないものになっていく。
「隆元(嫡男)、元春(次男、吉川家の養子)、隆景(三男、小早川家の養子)、よく聞くがいい。わしは、周防、長門だけで、満足するような男ではない。大内氏の旧領は、すべて頂戴する」
と、元就は3人の息子に語った。
永禄元(1558)年6月、元就は小早川隆景に門司城攻略を命じる。
九州の玄関口にあたる門司城は、博多と堺を結ぶ航路である関門海峡を眼下に望める要所である。
隆景は小早川水軍を主力に門司城を攻め、大友方の城将である怒留湯主人(ぬるゆ・もんど)を追い出し、毛利方の仁保隆慰(にほ・たかやす)に兵3千を与えて守らせた。
門司城を手に入れた元就は、その手を緩めず、
「毛利の家臣になれば、これまでの大内氏と同じように、旧領は安堵する」
と、筑前、豊前方面の諸将を調略し、大友氏の支配を揺るがしていく。
永禄2(1559)年正月、義鎮に筑前を追われ、毛利氏に身を寄せていた秋月種実が、元就の支援により、筑前で挙兵する。
「約束を破るとは・・・。だましたな、毛利キツネめ!!」
と、義鎮は元就を罵倒した。
一方の元就は、
「豊後の若造は、さぞ、悔しがっておろう・・」
と、ほくそ笑んでいた。
元就は、息子たちに残した遺訓状に、
「はかりごと多きは勝ち、少なきは負ける。ひとえに武略、計略、調略あるのみ」
と、記しているように謀略の限りを尽くし、乱世を生き抜いてきた。
しかし、義鎮もこのままでは、引き下がらなかった。
「成り上がりの毛利ごときに九州を渡すものか。我らに正義があることを示そう」
と、外交手段で毛利に対抗する。
義鎮は室町幕府13代将軍の足利義輝に鉄砲や南蛮貿易で得られた珍しい品々を献上し、将軍家との関係強化に努めた。
同年6月、義輝への多大な献金活動が功を奏し、義鎮は豊前、筑前の守護に任ぜられる。
「大内氏の正当な後継者は、我らである。これで、大義をもって戦える」
こうして、義鎮は豊後、肥後、筑後、肥前に加え、豊前、筑前を含めた6ヶ国の守護職を手に入れることになる。
11月、義鎮は幕府から念願の「九州探題」に任じられ、翌年の永禄3(1560)年3月には朝廷から「左衛門督(さえもんのかみ)」に任官される。
義鎮は重臣を伴い、大友氏の菩提寺である万寿寺(大分市大字大分、現在の大友氏遺跡体験学習館)を訪れ、
「大友氏の悲願であった九州探題の職を手に入れましたぞ!!」
と、先祖の霊に報告した。
この年のクリスマスに、日本最初のキリスト教宗教劇が府内教会で演じられている。
エデンの園でアダムとイブが蛇の姿をした悪魔に誘惑され、禁断の木の実を食べる話とソロモン王が子供をめぐる二人の母親の争いを裁くという有名な話が、日本人信者によって上演された。
「貧しい庶民が、皆、幸せに満ちた眼差しをしている。一体、どういうことだ・・・?」
お忍びで、教会を覗いた義鎮は、信者たちの姿を見て驚いた。
日本にキリスト教を広めた宣教師は、音楽や演劇などで興味を引き、病院や孤児院を設立することで、困った人を助けるという布教活動を行ったので、庶民には受け入れやすかったといえる。
「キリシタンになれば、貧しくとも幸福になれるのか・・・」
義鎮は、理想の国づくりをキリスト教に求め、
「キリシタンを増やすためには、大友氏の勢力を伸ばし、領土を広げなければ・・・」
と、考えるようになった。
3.門司城攻撃
永禄4(1561)年8月、毛利元就は出雲の尼子晴久(あまこ・はるひさ)が急死し、尼子家臣団が動揺している隙をついて、石見銀山(島根県大田市)の攻撃を開始した。
「毛利軍が石見にくぎ付けになっている今こそ、門司城を奪還する時ぞ!!」
大友義鎮は、自ら1万5千の大軍を率いて豊前に出陣する。
義鎮に従う武将は、加判衆(家老)筆頭の吉岡長増(ながます)、後の豊州三老と呼ばれる戸次鑑連(あきつら)、臼杵鑑速(あきすみ)、吉弘鑑理(あきまさ)ら層々たる面々であった。
永禄4年といえば、武田信玄と上杉謙信が川中島で戦った頃で、前年には桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破っている。
8月下旬、大友軍は小倉城(北九州市小倉北区)に集結し、そこから北上し門司の三角山城を奪って、甲宗八幡神社と大久保の二方面から門司城に迫った。
義鎮は後方の松山城(福岡県京都郡苅田町)に留まり、指揮を執った。
門司城は関門海峡に接する企救半島(門司半島)の先端にあり、本州に向かって拳(こぶし)を突き出すような形をした岬の小高い山に築かれている。
三方が海に囲まれ、唯一の陸続きである南側も傾斜の大きい山が連なる天然の要塞になっている。
義鎮には門司城を攻略するための秘策があった。
「まさか、海から大筒(おおづつ)で攻撃されるとは思うまい・・・」
かねてより、府内に停泊中の南蛮(ポルトガル)船に頼んで、海上から大砲で城内を攻撃させるというものであった。
大友軍は陸上から攻めるとともに、海上からも南蛮船3隻による艦砲射撃で城内を恐怖に陥れる。
これは、日本で行われた最初の艦砲射撃といわれる。
ところが、あまりにも早い関門海峡の潮の流れに舵をとられ、
「この潮の流れはなんだ・・・? 戻れ、このままだと陸にながされ、座礁するぞ!!」
と、思うように航行が出来ず、砲弾を数発撃っただけで、引き返した。
門司城が大友軍の攻撃を受けていることを聞いた元就は、
「いよいよ、九州探題様のお出ましじゃ。尼子との戦は、父と元春に任せておけ!!」
と、隆元、隆景を門司城の援軍として向かわせる。
9月中旬、1万の小早川隆景軍と五百隻の水軍が赤間関(あかまがせき、現在の下関)に着陣し、毛利隆元率いる8千の本隊が防府に本陣を置いた。
対岸の赤間関から門司城見ると、城の周りには大友軍の旗が犇めいていた。
「城兵は、我らの救援を待っている。これより助けに行くぞ!!」
隆景の命で堀立直正、杉彦三郎ら8百が決死隊として関門海峡を渡り、大友軍の包囲網を切り崩して門司城に入る。
「よく頑張った。もうすぐ、隆景殿も参られるので、安心せい!!」
落城寸前にあった門司城は救援軍の入城により、息を吹き返す。
隆景は児玉就方率いる水軍に大友軍の背後を襲撃させ、大友軍が混乱している隙をついて門司城に入る。
4.大友軍の敗走
大友軍は城を包囲するが、守りが固く攻めあぐんでいた。
「この膠着状態を何とかせねば・・・、何か良い策がないか?」
義鎮は門司城の方向に広がる海を眺めながら、重臣たちに聞いた。
「城の守りは固く、小早川隆景の入城により、戦意は上がっています」
「そうか・・・」
すると、一人の年老いた武将が義鎮の前に進み出て、
「籠城兵の心理としては、狭いところに長い間、閉じ込められていると、些細なことで、お互いが疑心暗鬼となるといわれています」
と、進言した。
その武将とは、天文3年(1534年)の勢場ヶ原の合戦で大友軍に勝利をもたらした功労者と知られた田北鑑生である。
「では、城兵の裏切りを誘うと・・・」
「さようです。我が弟、民部(田北鑑益)が、城内に知り合いがいると申しておりました」
義鎮は、すぐに民部を呼んだ。
「そなたは、城内に知り合いがおるそうだな・・・」
「はい、亡き義長様に付従って山口に滞在していた頃、一緒にお傍で仕えていた者がおります」
「我らに内通してくれようか?」
「皆、義長様に恩がある者たちです。成り行き上、毛利に味方しているだけで、なんとかなりましょう」
民部は、間者を城内に潜り込ませ、籠城兵の稲田弾正、葛原兵庫助に接触させた。
「民部殿の命で参りました。我らに内通いただければ、門司城と松山城を任せると仰せでございます」
「それは、ありがたい。狼煙の合図で、城内に入れるように手筈をしましょう」
義鎮の思惑通りに内応の手筈が整ったと思われたが、稲田と葛原の異様な動きは、隆景の家臣に気付かれていた。
城門を開け、狼煙を上げようとする時、二人は捕えられ、隆景の前に連れてこられた。
「我らを裏切り、大友に内応しようとしたのか」
「我らは、亡き義長様に仕えた者として、毛利に服従しようとは思わない」
「では、あの世で亡き主君に忠義を尽くすがよかろう・・・」
と、告げると、隆景は、密かに二人の首を刎ねさせた。
翌日、隆景は前日に処分した二人が生きているように偽装し、合図の狼煙をあげ大友軍を城内に誘き寄せた。
狼煙を見た大友軍は、戸次鑑連と田原親宏が先陣となって城に攻め込んだ。
この時、大友軍は、稲田と葛原の内応が見破られたことを知らない。
戸次隊は、明神尾(甲宗八幡付近)の毛利軍に対し鉄砲で一斉攻撃を仕掛ける。
「鉄砲は一度使用したら、次の玉込めまでに時間がかかる。その間に攻撃すれば恐れることはない。今だ、攻め込め!!」
鉄砲の攻撃に怯(ひる)み、引き下がろうとする毛利軍に対し、隆景は的確な指示を出した。
すると、今度は弓矢による攻撃が始まった。
足元に突き刺さった矢には、「戸次伯耆守鑑連」と朱書きされていた。
「まさか、鉄砲の弱点を弓で補う戦法を使う者がいるとは・・・。戸次鑑連とは、一体何者だ!!」
これが、この後に好敵手となる戸次鑑連と小早川隆景が初めて出会った戦いであった。
大友の先陣は、城の裏側になる和布刈(めかり)神社付近まで攻め進む。
そのころ、小早川水軍の浦宗勝と児玉就方は、船を使って小森江付近に上陸し、大友軍の背後を衝いた。
背後を衝かれた大友軍は乱れ、大里(北九州市門司区大里本町)まで退却する。
11月5日、大友軍は退路を断たれる事を恐れ、夜陰に乗じ総退却をはじめた。
大友軍の殿は、戸次鑑連が務めた。
この退却を察知した小早川水軍は、海路を先回りして、黒田原(福岡県京都郡勝山町)、国分寺原(同豊津町)付近で待ち伏せし、逃げる大友軍を襲撃する。
大友軍は甚大な被害を出したが、鑑連の決死の防戦によって、何とか退却することが出来た。
ところが、豊前の今井と元永(福岡県行橋市)に待機していた大友水軍は、毛利水軍の襲撃を受け、多くの船を失う。
海上からの退却を塞がれた大友軍は、陸路で日田方面に敗走した。
この撤退で、義鑑の時代から長年大友氏を支えてきた田北鑑生が重傷を負い、後日、その傷がもとで死亡する。
毛利軍は大友軍を追撃し、松山城、香春岳城(福岡県田川郡香春町)を奪い、豊前一帯を手中に収めた。
5.毛利との和睦
永禄5(1562)年、大友義鎮は、毛利軍の手に落ちた松山城の奪還を目指すが、攻略には成功しなかった。
吉岡長増は、どうしても、豊前を奪い返したいという義鎮の気持ちを察し、「遠交近攻(遠きと交わり、近きを攻める)の策」を進言する。
「敵の敵は、味方でございます。尼子に背後を攻めてもらえば、毛利も簡単には動くことは出来ますまい」
義鎮は、毛利元就に対抗するため、出雲(島根県)の尼子義久と同盟を結んだ。
「大友と尼子の両方を相手に戦うことは出来ぬ・・・」
元就は、将軍足利義輝に大友氏との和睦調停を願い出る。
この時期、義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指すため、各地で起きている大名同士の紛争調停に積極的に介入していた。
武田信玄と上杉謙信、松平元康と今川氏真、上杉謙信と北条氏政などの抗争の調停を頻繁に行っている。
義輝の仲介により、毛利、大友の和睦交渉が始まる。
6月、交渉に合わせ、義鎮は剃髪し「瑞峯宗麟(ずいほう・そうりん)」と号する。
「キリシタンになれば、庶民のような幸福が得られるが、家臣をまとめていくためには、しばらくの辛抱か・・・」
後世、宗麟の名で知られることになる「大友宗麟」の誕生である。
義鎮に倣って吉岡長増(宗歓)、戸次鑑連(道雪)等の重臣数名がこれに従って、入道する。
これで、朝廷や将軍家に影響力を持つ京都の寺社勢力を味方につけ、交渉を有利に進めることが出来た。
この時、宗麟は33歳で、臼杵の丹生島城に居を移して1年が経っていた。
和睦条件の合意は難航したが、宗麟の裏工作が功を奏し、
「毛利には門司城を残し、全て九州から撤退。更に元就の孫(輝元)と宗麟の娘の婚約をもって和睦とする」
という、大友に有利な条件で合意が成立した。
「せっかく奪った豊前と筑前を大友に返すのですか・・・?」
隆元、元春、隆景の三兄弟は元就に尋ねた。
「なーに、尼子を滅ぼすまでの間、預けておくだけじゃ・・・」
元就の戦略は、尼子と大友の両方に裂いていた軍勢を尼子攻めに集中し、尼子を滅ぼした後、改めて大友と戦うといったものであった。
こうして、永禄7(1564)年7月、大友宗麟と毛利元就との間に和睦が成立し、豊前と筑前が宗麟のもとに戻る。
永禄元年から和睦が成る永禄7年までの大友氏と毛利氏の戦いは、戦術としては毛利の勝利だが、戦略的には大友の勝利といえよう。
なお、永禄9(1566)年に月山富田(がっさん・とだ)城が陥落して尼子氏が降伏すると、毛利氏と大友氏は再び争うことになる。
作成 2017年 3月26日 水方理茂
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