Slow step




物心ついた頃からそうだった。

俺が欲しいと思うものは、いつだって全てあの人のもので、俺がそれをどんなに望んでも、決して俺のものにはならなかった。

いつだったか、ずっとずっと昔の事だ。あの人のおもちゃ箱の中にあった立方体のパズルが、どうしても欲しくなったことがあって、俺は一所懸命あれが欲しいと両親に頼み込んだ。

けれど彼等は「あれは裕紀のものだから」と、どうしても許してはくれず、「新しいのを買ってあげるから、少しの間待ちなさい」とそう言うのだ。

その時の俺は納得できなかった。俺は今あれが欲しいのであって、いつになるかわからない、新しい物なんて欲しくはないと。

大体、『それ』をあの人が手にしている姿を、俺は一度だって見たことがなかったから、興味がないなら俺にくれたっていいじゃないかと、そう思ったのだ。

けれど何度頼み込んでも両親は頑として許してはくれず、その日は美鈴さんが家にいなかったこともあって、「あれが欲しいと」泣き喚いた事がある。

それでも結局『それ』は、俺の物にはならなくて。

そういう事が何度も、何度も、何度もあって。だから俺があの人に抱いてる感情は、コンプレックスというものより、トラウマに近いものがあるんじゃないかと思う。

その原因となるのは、先のような玩具はもちろん。朋子の事はもちろんそうだし、朋子が勘違いしている沙夜子姉さんだって、俺は実の姉のように慕っている。いつもあの人に対してなんだかんだ文句を言っている、美央姉だってそう。だけど最大の要因はおそらく美鈴さんだ。

自分の実の姉に対して『美鈴さん』なんて他人行儀もいいところで、両親や沙夜子姉さん、そして美央姉から何度も注意されているのだけど、こればかりは直すことが出来ない(ちなみにあの人の呼び方に関しては、様々な思惑が絡まっている為、両親を含め皆良いとは思っていないようだが、何より本人が全く気にしていないため放置状態だ)。

だって彼女との間に、俺はロクな思い出がないから、兄弟だという実感がどうしても湧かないのだ。

少しばかり話は飛ぶが、高校時代や大学に入ってからの知人は皆、俺の事を「得な性格」だと言う。

誰からも疎まれない。誰からも憎まれない。誰からも妬まれない。

誰に対しても公平で、人見知りせず誰に対しても明るく接し、いつも笑顔を絶やさず、人の悪評や噂を立てず、それどころか困っている奴には優しい言葉をかけ、出来る限りの世話をみる。

だからお前が一人でいるところを見たことがない。いつだって誰かがお前の側にいる。・・・まぁ、見た目もあるんだろうけどな。

ほとんどの奴等が俺をそんな風に評価する。・・・そう言われる度、俺はどんな超人だ? と内心ため息をつく。そんな訳ないだろ、と。それではまるで、宮沢賢治が理想とした雨にも負けない人間のようではないか、と。そう心の中で反論する。猫という名の愛想笑いを浮かべながら。

聖人君子でもなんでもない、平凡な一市民でしかない俺には当然と言えば当然の事だが、俺を疎み、俺を憎んでいた人がいる。だからこそ、人から嫌われまいと、必死になって取り繕う今の俺がいる。

俺を疎み、俺を憎んでいた人。そんな人物に誰も気づいていないのは、それが実の姉だったから。その彼女は非常に優秀な優等生で、しかも俺など比較にならないほどうまく自分の中の猫を飼い慣らしていたから。そしてその彼女はもうこの世界に存在しないから。というだけの話だ。

先の彼女との間にロクな思い出がないと言うのは、二つの意味を持っている。

入退院を繰り返していた彼女との間に、ほとんど思い出がないという、量の問題。

そして、彼女との思い出は出来れば思い出したくないという、質の問題。

三・四歳の子供が、何となくと言う勘ではなく、嫌われているとはっきり認識できる程の憎悪を向けられていた。

両親や、他の人の前ではとても優しい人だっただけに、俺と二人きりでいる時彼女の口から紡がれる、まるで呪詛の如き言葉の数々とのギャップの激しさが、余計に恐ろしかったのを憶えている。

だから度々、彼女がその体質ゆえに入院したと聞いた日は、子供ながらに表情を取り繕い内心とても喜んだものだ。(あの人は俺とは逆に機嫌が悪くなるのだけど、俺に対して特に興味を持っていないあの人は、彼女と違い何もしてこなかった)

でも、だからこそ。俺に対してひどく辛く当たる美鈴さんから、一身に愛情を向けられているあの人がとても羨ましかったし、彼女が亡くなってしまった時は、彼女からの本当の愛情を、弟として受け取る機会が無くなってしまった事が、とても悲しかった。

そういう彼是も関係しているのかもしれない。あの時。朋子からあの人が好きだと打ち明けられた時、色々と理由をつけながら反対したのは。

結局のところ、朋子にしても美鈴さんにしても、俺は無いもの強請りで駄々をこねるエゴイストなのだ。

 

「馬っ鹿だな、お前。色恋でエゴイストにならない人間なんていないだろ。もしそうなら、それ恋愛じゃねぇよ」

大学の入学式で隣り合わせた。たったそれだけの理由で、今まで度々つるんでいるこの男、御手洗賢哉は思わずポロリと毀れた俺の悩みを、膝を叩きながら大笑いする。

基本、身内の人間以外必要以上に自分の内側に引き込まないようにしていた俺が、コイツだけはどうしても拒めないのは、コイツが持つどこか憎めない雰囲気や性格もあるんだろうけれど、行動が度々美央姉を彷彿とさせる(人の悩みを膝を叩きながら大笑い。そしてそれがなぜか不快ではない、なんてそのいい例だ)せいかもしれない。

「御手洗。声押さえろ、近所迷惑だ。それと人の悩みを大声で笑うな、失礼だぞ、お前」

「ああ、悪い悪い。でもよ・・・昨日まで朋子ちゃんと、ここでアンアンギシギシやってたんだろ? それに比べりゃ男の馬鹿笑いなんぞ、気になるもんか」

「・・・クッ」

あの人の泣いてる姿なんて、レアなものを思わず垣間見てしまったらしい朋子は、あの時予想した通り、五日なんて(それなりに)長期に亘ってこの部屋に泊まっていった。

そして今日、俺が大学に行っている間にあいつは帰ったのだけれど、あの馬鹿はとんでもない忘れ物をしていったのだ。

いや、真っ先に気付かなかった俺も、悪いのかもしれない。

けれど。

朋子がいた間色々と散らかってしまった部屋を片付けよう。(朋子は沙夜子姉さんと美咲から禁止令が出ている為、家事を一切しない。と、いうか出来ない)そうだな、そろそろ食器が無くなりそうだからまずは洗い物から片づけるか。なんて考えてシンクの前でシャツの腕をまくり上げた時だった。缶入りの発泡酒一ケース片手に、御手洗が現れたのは。

部屋の有様を見て、朋子が居ると勘違いしたのだろう(コイツは今回のように突然訪ねてきて、二・三度朋子と出くわしている)、ニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべ「まぁ、楽しんでくれ」なんてほざくから、思わず引き止めてしまった(そうでなかったら、こいつは絶対明日大勢の前で、某RPGの真似をしてこう言うだろう。『昨夜はお楽しみでしたね』と)のが失敗だった。

帰った時は気付かなかった。

(なぜならベッド周りの片付けは、俺の中では優先順位が低いからだ。)

いや、帰ってすぐに片づけなど始めず、まずは腰を落ち着かせていれば気付けたかもしれない。

(本棚とベッドの間の死角に落ちていたし、朋子の好きにさせようとして部屋の中は荒れ放題荒れていたから、それだって怪しいものだが)

いや、それよりも、だ。あいつも曲がりなりにも女なら、大体普通は気付くだろ。騒ぐだろ。下着が足りないなんて事になれば。

(なんだか怖くて、それ以上の事は想像できなかった)

そしてその第一発見者が、この御手洗賢哉だという、いろんな意味で腹立たしい事態になったわけだ。

ベッド周りに無造作に落ちている女物の下着。それがナニをしていたか、と言うのを想像させるにそう難しい事ではなくて。

これまでこいつに対して、朋子との関係を一応はぐらかしていた俺にとって、これは手痛い失敗だった。なぜなら俺と朋子の関係は、同盟なんて言い繕ってはいても、結局のところ他人から見れば、単なるセックスフレンドでしかないわけで。

同意の事とはいえ、それは決して威張れた事ではない。

そして男で、しかも提案者である俺はともかく、朋子の抱える『マイナス』は肉体的にも、社会的にも、非常に大きいものだ。

それにもし妊娠なんて事になれば、(もちろんならないように、最善は尽くしているが)あいつの過去や性格を考えれば、俺に相談せず一人で堕そうとするのは目に見えていて。

けれどそれがもし俺ではなく、あの人との間の子供だったなら、朋子はどこかでひっそりと産み育てるんじゃないか。

なんて考えると俺とあの人との間にある、歴然とした何か大きな壁のようなものに圧迫感を感じ、恐れ、疎み、それが嫉妬なのだということに気付くと、自分がエゴイズムに満ちた人間なのだと再認識させられる。

結局俺はあいつの事なんて、これっぽっちも考えていやしないのだと。

そして酒の助けも借りて(素面では絶対に出来ない)、朋子との事でいろいろ相談らしきものをこいつにしていた俺が、ついそう漏らしてしまったところ、冒頭の御手洗のセリフになるという訳だ。

もちろんセックスフレンド云々なんて、他人に知られて良い事なんて何一つとしてないから、俺と朋子の関係は恋人だということにしてある。

俺たちの年代にとって、俺と朋子のような関係は別として、恋人同士なら肉体関係を持ったとしても、その他大勢の価値観からそう逸脱していないからだ。

「まぁ、あれだ。俺は布きれには興味ないし、他人のやってる姿なんか想像したりしないから、そこは安心していいぞ? やっぱり生身相手じゃないとな」

「いや、そういう心配はしてないが。それよりそれを堂々と口に出すのはどうかと思うぞ」

学内で色々と浮名を流すコイツの事だ。女性関係に不自由していないようだから、そういった心配はしていない。それよりも、と続けた俺の後半の言葉に、御手洗は口角を上げて不敵に笑うだけで。

その後は、ただ黙々と二人して酒をあおる。さっきからチビチビやってる日本酒とは別に、この前帰省した時父の部屋からくすねたウイスキーやブランデーなんかも引っ張り出す。ちなみに御手洗が持ってきた発泡酒はとっくの昔に無くなっている。

姉弟の中で俺が一番酒好きの父の血を濃く継いだのだろう。こういうただ黙々と盃を傾ける時間も、俺は好きだったりする。

「高志―。お前、損な性格だよな」

「エッ?」

そんな時間がしばらく続き、唐突だったということもあってか、(多少は酒のせいでもあったのだろうけど)御手洗の言葉を理解できず、思わず間抜けな声で聞き返した。

なぜならそれは今までいろんな人間が俺を評価してきた言葉とは、真逆の言葉だったからだ。

「だってよー。朋子ちゃんはお前の彼女なんだろ? だったらさ、『好きだー』でいいじゃねぇか。それを頭の中で彼是捻くり回して、挙句ゲシュタルト崩壊なんか引き起こして。それを損な性格と言わずなんと言う?」

ゲシュタルト崩壊? この場合その使い方は合っているのか? いやまて、そうじゃない、そうじゃない。

それまで結構無心に飲んでたから、考えが纏まらない。ああ、俺相当酔ってるな。その時初めて俺はそう気づいた。

「悲劇ぶって恋愛してどうすんだよ。『恋愛は明るく楽しく』ああ、これ俺の座右の銘ね。いや、結果的にね、悲劇になっちゃうことはあるよ? でも、最初から悲劇にしようと思って好きになるわけじゃねぇだろ? だからガーンといってバーンとなりゃいいんだよ」

最後のはよくわからんが、バーンとなったら拙いんじゃないか? それ玉砕してるだろ。

御手洗のテンションから、コイツがリミッターを超えてしまった事は気づいてた。こいつがコンパの席でこうなるのは、ちょくちょく見かける姿だ。

けれど酔っぱらいの言葉だからこそか。頭を通さず、心から直接口に出てきたようなそんな御手洗の言葉に、俺は思わず感動していた。そうか、難しいことは考えず、とりあえず行動してみるのも良いかもしれない。

ああ、俺もこいつも二日酔い確定っぽいけど、今のコイツの言葉、明日の朝も覚えてればいいな。そうすれば、いつかきっと、いや近いうちに朋子に「好きだ」といえる時が来るかもしれない。

そうだと良いな。・・・そう願った。

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