Slow step




 何度体を重ねても、心まで手にはいるわけじゃない。

 逆に虚しさばかりが募っていって。いつかその虚しさに押しつぶされてしまうんじゃないかって、あの日からずっと考えていた。

 だけどそれは、子供の頃から欲しくて欲しくて仕方ないものだったから。

 だから今の状況を続けていれば、いつか全てを手に入れられるんじゃないかなんて、そんな甘い考えを抱きつつ、今日も俺は寂しさから逃げ出してきたコイツを抱きしめる。

 


 ガチャ・カクンと、玄関の鍵と扉が開く音。そして一言も無しに、ソイツがガサゴソと靴を脱ぎ始める雰囲気が玄関から伝わってくる

 無言の侵入者が誰かなんて、合鍵渡してるのは一人しかいないから考える必要はないんだけど。

 いつもは空元気丸出しな、やたらと高いテンションでここに来るアイツが無言って事は、相当打ちのめされてるって事だ。

 案の定出迎えに部屋から出た俺の前には、もともと僅かに垂れ気味な眦をこれでもかってくらい引き下げた、朋子の姿。

 俺の顔を見て、泣きそうな笑顔を浮かべて飛びついてきて、そして背中に回される手。その手が微かに震えている事に気付いて。

 『ああ。これは、もう泣きたいとかそんなレベルじゃないんだろうな』

 付き合いは長いから、コイツの表情や言動で大体の感情は理解できる。

 今までの事例から考えるに、この『絶望一歩手前』の状態から、あの二人の前に平気な顔を装って出て行けるまで回復するには、少なくとも数日かかるだろう。

 それは自分でも理解してるのか、上がり框には普段よりも大きなバッグが置いてあった。

 あの二人は自分達が、周りにどんな影響を与えているかなんて、考えてみた事もないんだと思う。美央姉や義兄さんの話では、高校時代も、見た目だけはやたらと良いあの二人の言動に一喜一憂したり、振り回されたりしていた人は結構居たらしいけど。

 ここにも一人、そのお仲間がいる。

「今日はどうした?」

 (自分では)出来得る限りの優しさを醸し出した(と思ってる)声色で尋ねると。

「・・・高志は言わないの?」

 俺のシャツに顔を押し付けてるせいか、少しくぐもった答えになっていない声。

 なんて言うか、あまりムードのある抱きつき方じゃないよな、これって。そんな事を、頭の片隅で冷静に考えてる自分がいて。

「なにを?」

「好きだ、って」

「なんで?」

「・・・好きなんでしょ?」

「好きだけど」

「じゃ、何で言わないの?」

「言える訳ないだろ」

 相変わらずコイツ、勘違いしてるし。

 『お前に好きだなんて。愛してるなんて言えるわけがないだろ』

 それが、今まで幾度となく繰り返された質問に、俺が幾度となく心の中で繰り返してきた答え。

 人を、好きになる、愛する事は出来るくせに、自分が人から愛されてるなんて、これっぽっちも思っていないこの女に、そんな事言えるはずがない。俺がそれを言えばコイツは絶対冗談だとか同情だとか、そんなふうに受け取るだろうから。

 無知は罪だと言うけど、コイツに関して言えばちょっと違うと思う。

 コイツの「無知」は「罪」なんじゃない「残酷」だ。心がまっさらな子供が何気に残酷なのは、傷の痛みやその辛さを知らないから。それと同じだ。

 だからこいつはいくらでも残酷になれる。人から自分が愛されてるなんて思ってもいないコイツは。愛される事に無知なコイツは。だから俺に対していくらでも残酷になれる。

 ホント。何で俺は、こんな厄介な女を好きになったりしたんだろう。

 


「私、裕紀兄さんのことが好きみたい」

 ずっと昔、朋子から聞かされた言葉。

「駄目だ。絶対駄目だ」

 それを聞いて、とっさに口から出てきた駄々をこねる子供のような言葉。

「傷の舐め合いみたいなそんな気持ち。そんなの、絶対駄目だ」

 だってあの人とコイツは、ものすごく似ているから。その時の俺には朋子があの人に純粋な恋愛感情を抱いているとは思えなかった。なにより、それまでの朋子があの人を怖がっているのは、誰の目から見てもあきらかだったから。

「朋子様は居場所が欲しいだけなんです。だからそれを自分に与えてくれた裕紀様に惹かれたんです。精神的にも、物質的にも、裕紀様は朋子様に居場所を与えてくれたから・・・だから前向きではないけれど、傷の舐め合いだけで好きになったのではないと思いますよ」

 数日後、美咲から聞かされた言葉。

 精神的・・・積もりに積もった「寂しい」と「悲しい」に押しつぶされそうな自分によく似ていて。そんなものを抱いているのは、世界で自分一人だけじゃないんだという、後ろ向きな安心感。

 物質的・・・「行ってきます」と出て行く場所。「ただいま」と帰ってくる場所。ご飯を食べて、のんびり休んで、安心して眠る事の出来る場所。そんな生活する場所を失いかけていた自分に、離れという住処を作ってくれた事。

 傷の舐め合いだけで好きになったんじゃない。確かにそうかもしれないな、美咲。本当なら成り行きとは言えあいつを救ってくれた事を、あの人に感謝しなくちゃいけないのかもしれない。

 だけどそれでも、なぜか無茶苦茶頭にくるんだ。

 無知で無力で、アイツが一番寂しかった時に何もしてやれなかった自分に。

 そしてあいつの気持ちにこれっぽっちも気付こうとしないあの人に。

 無茶苦茶、頭にくるんだ。

 


 自分ではもう感情を処理しきれなくなって、もうどうしようもなくて、それでやっとここに逃げてきたくせに、それなのに涙一つ流さない朋子をゆっくりと抱きしめ、頭の上に一つ二つとキスの雨を降らせる。

 最初は首を振って嫌がるけど、それでも構わず続けると、諦めたのか朋子が少しずつ体の力を抜いていく。

 何でコイツのことが好きなのか、いつからコイツの事が好きなのか、そんな事ももうわからないくらい子供の頃から、ただただ朋子だけが好きで。

 全てが欲しくて、だけどそれは手に入らない。

 だったら仮初とは言えコイツを救ってやりたくて、こいつをこんなふうに抱きしめてやりたくて、俺はこいつに一つの提案をした。

 (苦笑つきで)後日の美咲曰く『恋愛同盟』。

 朋子は、自分を決して見ないあの人の面影を俺に重ねるために。その寂しさに蓋をするために。そしてあの人の意識をほんの僅かでも自分に向けたいがために。

 俺は、いつでもコイツを抱きしめられるように。そしていつかコイツの心を手に入れるために。

 不毛だって事はわかってる。フェアじゃないって事もわかってるし、俺が沙夜子姉さんの事が好きだと勘違いしてるこいつを騙してるって罪悪感もある。

 だけど互いに自分の思惑と想いと、それを成就する為に。こいつはその提案を受け入れた。

 俺もコイツも馬鹿な事をしているなんて、そんな事はもう百も承知だ。

「抱き合ってた」

 唐突にポツリと漏らす朋子。一瞬何の事かわからなくて、それまで幾度と無く繰り返していた髪へのキスを止める。

 だけどそれは本来なら考えるまでも無い事。

「あの二人が? だけどそれはいつもの事だろ」

 あの二人はいつだってそうだ。お互いを異性として見ていないし、他人の目を全くと言って良い程気にしないから、抱き合うぐらいなら人前で平気でする。あの二人をほんの少しでも知っていれば、そんな事は「なにを今更」だ。

「泣いてた」

 再び一言だけ漏らす朋子。

「沙夜子姉さんが?」

 それはそれで珍しい事だと思う。あの沙夜子姉さんが泣くのもだけど、泣いてる沙夜子姉さんを慰めるために、あの人が姉さんを抱きしめるなんて。

「違う。・・・裕紀兄さんが泣いてた」

「あの人が?」

 朋子の言葉が俄かには信じられなくて、おもわず聞き返した言葉に朋子はコクリと小さく頷く。

 あの人が泣いてる姿なんて、実の弟の俺だって今まで見た事が無くて。

 普段からほんの僅かな感情の起伏でさえ人に見られる事を嫌うあの人が、たとえ相手が沙夜子姉さんとはいえ、泣いてる姿なんてものを見せるとは思わなかった。

 でも、だからなんだろう。コイツがこんなにも沈み込んでいるのは。

 きっと自分が想像もしていなかったあの人の姿を、沙夜子姉さんが当たり前のように受け入れていた事。その姿に自分の想いの儚さとか、絶望とか、沙夜子姉さんに対する嫉妬とか、そんなマイナスの感情がごちゃ混ぜになった。

 きっとそんな所だろう。

 それなら。

「もう自分で自分をどうする事も出来なくて。だから・・・ゴメン、高志。また迷惑かけちゃうけど」

「別に迷惑とは思っていないからかまわない」

 お前が俺を頼ってくれるなら。

「・・・アリガト」

 俺がお前を慰める事が出来るなら。

「どうして良いのかわからないなら、とりあえず今は泣けばいい。そうすればきっと頭がスッキリする」

 迷惑なんて幾らでもかけてくれて構わない。思い切り泣いて。ゆっくり眠って。明日お前が笑っていられるなら。

 それは俺にとっては幸せなんだ。

 だから今は思い切り泣けばいい。

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