詩75
画家ピカソ
10.11.26
人の顔
それは神の手になる作品
神秘に魅せられて
何世紀にもわたり
画家たちはこぞって
その作品の
模写に
挑みつづけた
だが
ついに諦めて
画家ピカソは
人の顔を滅茶苦茶に
描き始めた
自分自身の絵を描くために
ふるさとの丘に登って
10.12.11
ふるさとの丘に登って
見下ろせば
遠く 菜の花の咲くなかを
おもちゃのような電車が
通り過ぎてゆく
わたしは
そっと 思い出す
この小さな電車が
かつて わたしの夢を
運んだことを
わたしは
なおも 思いをいたす
あの おもちゃの電車は
夢を
どこに運んでいったのか と
わたしは
丘を下りつつ まだ思う
小さな電車は
わたしの 大きな
夢は運びきれなかったのだ
と
玄関のチャイムが鳴ったので(12月18日)
10.12.18
玄関のチャイムが鳴ったので
出てみると
若者が
宅配便の小包をもって
立っている
贈り物は誰でもうれしいもの
私はうれしさに
ついチップでもはずんでやりたくなった が
私はまたチップの習慣のない日本を
日頃 良しとするもの
それで 思い切り感謝の気持ちをこめて
労いの言葉を述べた
若者の瞳がかすかに輝いてみえたようにも思えたが───
とにかく私の方はそれで満足した
言葉の大盤振舞は少しも負担にならない
言葉はいくら使っても減らない
言葉の出し惜しみは少しも気にならない
───言葉で済ませられるのなら
実は私は可也ケチなのだ
若者は
そんな私の下心には気づかないで
帽子を脱いで律儀に
丁寧な礼をして去っていった
その後で
私はそんな自分をそっと蔑んでもみたが
所詮
詩人のしていることとは
こんなことなのである
一気呵成になる
☆モンテーニュはプラトンもソクラテスも心の快楽以上
の価値はないと言い切るが、その意味では詩はさ
らに心の快楽以外のなにものでもない。
たしかプラトンもどこかでそう書いていた。