蜻 蛉 ギョロギョロと、愛くるしい目で、四方に気配りし、人類が初めて空を飛んだ飛行機の様に、透明で頑強な二枚の羽根を持ち自由気ままに、飛び回る昆虫に蜻蛉がいる。 ギンヤンマ、アキアカネ、シオガラトンボ、そして赤とんぼ、かげろうまで。多種である。このトンボ、小さな昆虫に於いて、一頭と数える! 昆虫図鑑 にもない新種?なる虫がいた。その名は“極楽蜻蛉”である。 そしてその発生は、函館と大分に一頭ずついた。 なぜかこれほど離れた地に! 又 幼虫からの飼育係りである伴侶は、共に日本の伝統的芸能日本舞踊を愛し、繁栄を師する立場であることが偶然にも共通するのである。 その極楽トンボたるやの言う台詞は、北も南も同じであった。 「男の夢なんだ!最後のチャンスなんだ!男のロマンなんだ!頼む 行かしてくれ!!」 その強引な作戦で、極楽蜻蛉二頭は農大初の八千メ−タ−峰遠征に参加できるのであった。 1989年 6月12日ナンガ・パルバット8125mの登頂を信じて二人は成田空港で再会した。そして先発隊と合流すべく熱風のラ−ワルピンディ−(現イスラマバード)へと急ぐ。 農大の遠征隊の中であっては、15人中1〜2の長老になる。 若い隊員に迷惑かけまいと頑張るが、町中で40度の灼熱。老いたトンボ二頭は悲惨な目に会い、特に北で育ったトンボは大変なことのようだった。それでも、桜井兄の持ち前の責任感と粘りのタフさで全員を引っ張り、大型バス・小型ジ−プ・ポ−タ−とキャラバンをつなぎ、離日後、9日でBCを設営出来たのは異例の早さであった。 久々の農大最強のチ−ムで臨んだ我々は、BC設営後、誰もが、魔の山 人喰い山と異名吐く、ナンガ・パルバットの日本隊ルート、農大ルートの開拓に、一丸となって燃えた。 二頭の長老はル−トの出来た後、軽い装備を日々上げた。 しかしC-3も出来上がり、いよいよこれからというときに悲劇がおとずれた。 異例の気象で雷雲が発生し、仲間の一人に落雷した。 何とか一命をと、皆で頑張るのだが、BC下降中、願いも虚しく、帰らぬ人となった。 一転して悲劇の登山活動になる。 その中で一番辛い仕事は桜井兄であっただろう。 すぐさまギルギットまで下り、遺族の出迎え、そして事故の報告! 断腸の思いだったでしよう。 その頃BCに残った我々は、悲しみの中、岳友を荼毘に付す。 遺骨を渡し桜井兄はそのまま、遺族と帰国の途に着いた。 ナンガ・の仲間の悲劇はその後に続く! 馬場を失い、その翌年、白馬岳で中嶋を、大天井岳で早坂を、トゥインズ峰(7350M)遠征中 佐藤も、そして今度は桜井先輩までもが若くして逝ってしまった。 ナンガ・から帰って、二頭のトンボは北海道の山・九州の山・と仲良くテントを担いで歩いた。 酒を飲みながら、次はエベレストだな・・・・・・・いい酒のツマミになった。 そして北の大地と南の草原で、血のにじむようなトレ−ニングが始まった。 あれから15年 農大のエベレストは成功の内に終わりました。ロ−ツェに5人、エベレストに5人登頂者を出し、私も何とか頂上までと頑張ったのですが、8600mで終わりました。 元気だったら一緒に来れたのにと期間中思っていました。八十有余年 農大も若い人へと変わりつつあります。しかし先輩が愛した農大山岳会は、私も 若い人も受け継ぎ守っていきます。 そして厳しくも優しかった、桜井先輩の思い出を話し続けていくことと思います。(2005.3.21受領) |