島々宿〜徳本峠〜霞沢岳〜蝶ケ岳、新雪の山旅(’95秋) 
       構想7年、『あぁ、徳本峠』完結す!(後編)  
                 栗秋和彦

〇興奮のるつぼ、槍〜穂高の大パノラマを独り占め

 2日間の山歩きで充分満足したという鈴木を残して、早朝4時55分徳沢を後にする。もちろん夜空は満天の星、外に出していたコッヘル(の水)はカチンカチンに氷化して冷気厳しく、静寂の世界である。当面の目標である長塀山(ながかべやま・2565m)山頂(からの穂高方面の眺望)を目指す。

 いきなり長大な長塀尾根に取り付き、心身共に寝ぼけ眼の自分にはこの急登は応えるが、早起き得意の年寄り二人の足取りは意外にも軽く、自分としては若干の狼狽とも焦りともつかぬ心境で歩を進める。ヘッドランプの明かりだけが頼りの真っ暗の樹林帯を「カラン、コロン」とピッケルが岩角に触れて奏でる乾いた金属音、加えて「ギシギシ」と堅く凍てついた雪道を踏み締める“山靴の音”が交錯する。目下のところ、これらがこの小世界のBGMの全てである。それでも30〜40分も歩くと、うっすらと明るさが感じられるようになり、木々の隙間が急速に白みはじめたのだ。山が最も“神聖さ”を演ずるひとときであろうか。

 そしてほどなく、それまでの急登から解放されて少し開けた台地に差しかかった時、まさに樹林の透き間から山頂部分が燃えるようなオレンジ色に染まった前穂高岳を仰ぎ見ることができたのだ。しばし呆然と眺める他に術がない、とはこのことだ。そして少しづつ見て取れるスピードで、オレンジ色のラインが下がっていく。更に同時進行で空の紺が蒼へと変化する妙も見逃せない。あわよくば山頂からの日の出を、かなわぬならせめて見晴らしのいい稜線上からのそれをとの思いは果たせなかったが、予期せぬ荘厳な情景に巡り会えたことは幸運としかいいようがなかろう。久しく見たことがないモルゲンロートの極め付けを目の当たりにして、興奮はなかなか治まらないままピッチは上がった。

 もう周りはすっかり朝の気配で、針葉樹林の背丈もだんだん低くなり、碧白色の空の占める割合がぐーんとおおきく、新雪に覆われた白く静かな森は視界が急速に広がった。それにしても延々とつづく緩やかな樹林帯の登りは長く、なかなか山頂に辿り着けない。が、後は長塀頂稜からの槍・穂高の眺望を楽しむだけだ、と悠長に構えていた。と言うのは、長塀山はなだらかな尾根で構成された目立たない山ではあるが、芳野満彦の著書『山靴の音』にも記されているように『あまり人が登らなく、展望が良い。頂上付近はシラビソが密生していて槍・穂高の展望が上半分しか眺められない。

 しかしこの上半分しか見えない槍・穂高がいいのだ』とあるからだ。おっとこれはすでに高瀬が“おゆぴにすと”第6号、P5『菜美、麻里、可南・・・これが梓川だよ』で述べていることではあるが、この“上半分”の槍・穂高がどんな風景として映るか興味と期待でいっぱいであったからだ。 ところがようやくの頂は空こそ明るくまばゆい蒼天であったが、槍・穂高が望める筈の西方はすっかりシラビソの群生も成長を遂げ、わずかに木々の隙間から前穂高の一部を覗くのがやっと、と言ったあんばいで“上半分”のエキサイティングな眺望は望むべくもなかったのだ。期待が大きかっただけに、ショックは隠せない。

 三人共々「約束が違うではないか」と息巻いたものの、誰にぶつけることもできない。そもそも『山靴の音』は半世紀近くも前に書かれたものであり、木々の成長は我々の計算外であったからだ。(早い話、最近の案内書なんぞは全く読んでいないんだわね。ウェストンだ、嘉門次だわと黎明期の評伝、スタイル、風俗あたりにこだわり過ぎたきらいあり)

 今日中に九州に帰らなければならぬ行程である以上、時間の余裕はない。とにかく長塀山の頂は踏んだことになり、ここで引き返せばギリギリではあるが、ふもとの山のいで湯を一点は稼ぐことができ、山といで湯の二点セットメニューをこなすことはできよう。しかししかし『槍・穂高の展望を欲しいままにする』第一の目的は断念することになり、将来にわたって禍根を残すことになろうぞ....。といろいろ思いあぐねた結果、最後は長老・挾間の「見えるとこまで行こうではないか、クリさん」の一言で結論が出たのだ。そして「少なくとも蝶ケ岳ヒュッテ付近まで登れば森林限界を抜け展望が開ける筈だ」と高瀬が付け加える。彼の意気込みもひしひしと伝わってくる。後は時間との競争である。シラビソの林を駆け下り、小ピークをいくつも越え、ゆるやかな上りを踏み締めて行くと急に前方の視界が広がり、目の前に台状のピークが現れる。そしてよく見ると雪の付着も少なく、もはや低木のハイマツを除けば展望を遮る木々は認められないのだ。

 「ヤッタ、ついに森林限界を捉えたぞ」と高瀬。一方挾間はビデオカメラを回しつつ「いいかいクリさん、上に着くまで横を(西方を)見たらアカンぜよ」と無理な注文を出す。楽しみは一気に味わおう、との意らしいが、こんな場面で気長に待つことができる性格ではないことぐらい、よーく知っているくせに(とチラチラと盗み見をしつつ、感嘆の声を押さえるのに苦労した)。そしてほどなくの頂稜は風強く、わずかなハイマツと雪塊、それに一面の砂礫で覆われた台地状の連なりの一角であった。

 目の前には赤い屋根の蝶ケ岳ヒュッテが風に抵抗するように砂礫の尾根上にへばり付いて建ち、そのすぐ背後にいくぶん高く蝶ケ岳(2664m)が座っている。奥には常念岳(2857m)が堂々と控えているが、この秀麗な稜線も今日の主役ではない。やはり圧巻は目を左へ転じた西の空間いっぱいに広がる、槍から穂高へ連なる日本屈指のダイナミックな眺望であろう。雲ひとつ、木一本遮るものはなく、梓川を挟んで指呼の距離に圧倒的高度差で対峙するアルペン的威容は、まぎれもなく青春の一時期、それぞれの人生を賭けた(とは少し言い過ぎか)岩と雪の殿堂であった。

        



 まさに興奮のるつぼ、槍〜穂高の大パノラマを独り占めして(正確には三人で独占か)、気分はこの小世界にとじこもったままである。筆舌には尽くし難く再びビデオカメラのお世話にならざるをえまい。それにしても「長塀山で引き返さず、ここまで来て良かったなぁ」としみじみ語る挾間に無言の相槌を打つ二人であったね。

 もちろん展望は360度欲しいままで、北には常念岳〜大天井岳の稜線越しに後立山の連嶺(五竜、白馬方面であろうか)、時計回りに長野・戸隠、浅間山、佐久の山々、そして懐かしの八ケ岳、ポツンと孤高を保つ富士山、甲斐駒や北岳がはっきり見てとれる南アルプス、中央アルプス、御嶽山、乗鞍岳、更にズームアップして昨日の霞沢岳、焼岳と続くが、「やっぱり、ど迫力の槍・穂高にはかなわないよな」と少し落ち着いたのか高瀬の確認するようなつぶやきが印象的であった。

 そして傍らでは早速、挾間の操るビデオカメラが回りはじめ、モデルへの注文が喧びすしい。時間を気にしながらの慌ただしさだけが映像に残らないように、結構気を使いつつ孤高の人(モデル)となる。大袈裟に言えば、『人生に於ける貴重かつ感動のひとときベスト10』の一つが今なのであって、願わくば我にもっと時間を与えたまえ、と言いたいのだ。



〇エピローグ
 “おゆぴにずむ”を標榜する我々としては、久し振りの信州は北ア・穂高の山々を巡った後の“山のいで湯”は当然クリアしなければならぬ既定の行動であった訳だが、定められた時間の中で槍〜穂高の大パノラマに接することを優先させた結果、予め目星をつけていた坂巻温泉はもちろん、周辺の魅力ある他のいで湯を含めて一点も稼ぐことができず、この点については若干の悔いが残った。二者択一を迫られれば仕方ないことではあるが、時としてこんな山旅もあり得よう。しかし結果としては初冬の穂高周辺の懐の深さと趣を充分味わうことができて満足のいく山旅であった。

 そしてそれはともかく、各々の家庭のパワーバランス(レベル)に違いはあれど、それなりに世俗事を断ち切って、三泊四日にもわたる『徳本峠』に集うことができたことで、“おゆぴにすと”第5号[あぁ、徳本峠]で高瀬が提起した
    『山の神(嫁はん)、こうるさいガキ共によって失われつつある、一家の長としての落とし前をつける事により、“おゆぴにすと”の再構築を図る』
という古典的命題は一応果たした(?)ことになるのではと思っている。構想7年、『あぁ、徳本峠』は一定の完結をみた! と言えるだろう。言い出しっぺではないにしろ、何となく肩の荷が降りたような気がする。
                          
           



(コースタイム)

11/2 大分(挾間・高瀬)18:56⇒(特急・にちりん50号)⇒小倉20:28 40⇒(寝台特急・さくら)⇒門司20:52(栗秋合流)
11/3 名古屋6:54 7:10⇒(特急・しなの1号、鈴木合流)⇒松本9:16 19⇒(松本電鉄)⇒新島々9:48 52⇒(タクシー)⇒島々宿 10:00 15⇒二俣11:44 55⇒岩魚留小屋13:50 14:05⇒徳本峠17:08 徳本峠小屋泊 歩行距離15.2k
11/4 徳本峠7:13⇒ジャンクションピーク8:17 23⇒K1ピーク(霞沢岳前衛峰)10:36 45(折り返し)⇒ジャンクションピーク12:41 46⇒徳本峠13:10 51⇒明神14:56 15:02⇒徳沢15:42(挾間・鈴木は16:25着) 徳沢キャンプ場泊 歩行距離15.3k
11/5 徳沢4:55⇒長塀山7:45 8:00⇒蝶ケ岳ヒュッテ手前のピーク(槍・穂高の展望地)8:35 9:01(折り返し)⇒長塀山9:26⇒徳沢11:11 (以上挾間、高瀬、栗秋) 12:15⇒明神12:55 13:00⇒上高地13:40 52⇒(タクシー)⇒松本15:20 17:06⇒(特急・しなの26号)⇒名古屋19:24 50⇒(新幹線・ひかり57号、新大阪で鈴木下車)⇒小倉23:31(栗秋下車) 50⇒(特急・ドリームにちりん)⇒大分(挾間・高瀬)11/6 1:34 歩行距離18.5k 総歩行距離49k

(注1)“おゆぴにすと”第5号(昭和63年6月1日発行)P4 〜おゆぴにすと6周年企    画〜[あぁ、徳本峠](高瀬正人記)参照
                              (平成7年11月2〜5日)
あとがき
 生来、遅筆の己としては、記憶の途絶えぬうちに書きとめなくてはと、いつもの焦燥感に駆られてきた。特に今回は念願の“徳本峠”であるからなおさらである。最初の書き出しこそ、徳本小屋のおやじの電話での印象が強過ぎて、つらつらと書きなぐるようになぞってきたが、帰門後は公私ともに俗世間のしがらみに弄ばれ余裕がなく、だんだんと鮮明な記憶と感動が薄れつつあった。「これはいかん、あん時はどうやったかいな」と思い起こすは素振りだけで、ボクの脳細胞はからっきし負託に応えてくれない。しかし今回はいつもとはちょっと違った。挾間の労作である、デジタルビデオカメラが残した貴重な映像(というか老後の楽しみ)が手元にあるからだ。「そうだ、これがボクの記憶を補って余りあるはずだよな」とは当然の帰結だったのかも知れない。

 早速、奥方からは物好きだの“ビデオおたく”などと言われようと、くだんの映像を繰り返し眺めては、少しづつ“マス目”が埋まっていったのだ。が、この手法は『絵を書く』ということに例えれば、まさにそこそこの観光地の絵葉書を買って、後でそれを観ながら机上で写実的になぞるということになるのではないか。

 現地でスケッチした素材をいろんな創造力を働かせながら、アトリエで描くという、云わば正当(?)な手法とは反することの戸惑いは拭いきれない。 世の中の流れがアナログからデジタル化への道を辿り、社会生活の上では大いに我々はその恩恵に浴している訳だが、この作業の中でおぼろげな記憶を拾い起こし、乏しい想像力も動員して、時にはデフォルメもあるやも知れぬが書きすすめた上で、デジタル化の恩恵を受けると(ビデオを見てみると)、「なるほど、あそこはこうであったか、とか思っていた行動や景色とは時刻、イメージ、色調などが違っていた」なんてケースが起こりうる。

 もちろんだからと言って、すべてを映像に忠実に書き直す訳ではないが、ファジーな記憶をもとにおもしろおかしく、時には破天荒に描く楽しみからは、いくぶんなりとも遠のいたように思う。何せ後ろから監視人の非難、矯正、抑圧の声が聞こえてきそうで、ボクの繊細な神経では少し重荷になったりもする。そういう意味ではこの“老後の楽しみ”も功罪半ばといったところでしょうか。(おわり)

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