かねてよりの娘達との約束の穂高へ 
 
「菜美、麻里、可南・・・これが梓川だよ」  
                                   
高瀬正人

『松本から徳沢』
 光陰矢の如し、いやこの日が来るのを待ちかねていたというのが、正直な気持ちであった。長女菜美子が5才の時に、私はある約束をした。それは、10年後に家族全員で穂高に登るというものであった......。松本駅は、昔の面影がなく、近代的な駅ビルに変貌をとげていた。タクシーで上高地へ(何と贅沢な、私はいつからブルジョワになったのか)。奈川渡、沢渡、懐かしい見覚えのある風景に見入る。残念ながら小雨まじりの曇天で、期待の展望は得られなかったが、16年振りの上高地はその澄んだ冷気で我々ファミリーを迎えてくれた。

 ここでは娘たちに感動の声を上げて欲しかったのだが、穂高は見えず、雲の中。明神付近より雨脚が強くなり、厳しい洗礼だ。久々の歩きに洋子ママは遅れがち。相変わらずの混雑の河童橋を横目に徳沢へ急ぐ。上高地より2時間で徳沢着。雨に煙る梓川、「菜美、麻里、可南これが梓川だよ」と言いたかったが、とても照れくさくこんなことは言えなく心の中でつぶやいた。娘等は驚くほど冷たく澄みきった梓川でしばし、じゃれあっていた。(コースタイム 8月12日 上高地 13:30→明神14:20→徳沢15:35)

   
 
『徳沢から蝶ケ岳敗退』
 夜半の雨は朝まで降りつづいた。小雨の中を村営徳沢ロッジを出て、徳沢園の裏から長塀尾根を登る。小5の可南子に合わせて、目標の山を蝶ケ岳とした。洋子ママは、徳沢での優雅なる待機だ。長塀山を経由して蝶ケ岳(2,664m)で穂高を仰ぎ見るという予定だが、この天候では.....。

 芳野満彦は、この長塀山を愛していた。その理由は「あまり人が登らなく、展望が良い。頂上付近はシラビソが密生していて槍、穂高の展望が上半分しか眺められない。しかしこの上半分しか見えない槍、穂高が良い」と“山靴の音”で書いている。樹林帯の中を菜美を先頭に可南、麻里とつづく。すれちがう登山者も殆どいない。天気さえ良ければ静かな、胸高まるアプローチであろうに。単調なジグザクの登り、雨は風を混じえて強くなり、安物のカッパは浸み出す。可南がかわいそうになってくる。

 この頃、下山者と出会い、上の様子を尋ねた。「風雨は更に強く、展望は全くなし」思わずガックリし、躊躇なく退却を決めた。標高2,000m付近である。残念無念ながら子供等も安堵の表情を隠しきれなかった。あぁ蝶ケ岳敗退。

 徳沢では家族全員でミニバレーをして遊ぶ。この頃より、湧き上がる雲間に前穂の岩壁が見え隠れ。しばしミニバレーを中断し、その圧倒的迫力に息をのむ。これが穂高だぞ。(コースタイム 8月14日徳沢6:00→長塀尾根2,000m付近7:40→徳沢9:00→上高地五千尺ロッジ15:30)

『徳本峠、上高地散策』
 全員、早朝にたたき起こす。この上高地は早朝が最も素晴らしいことを教えなくては。梓川河畔をゆっくりと散策。美しい流れと静寂と清明な空気、冷気。この素晴らしい雰囲気は今も変わらない。朝食後、風邪気味の可南子と留守番の洋子ママを残し、徳本峠を目指す。観光客で賑わう明神池、嘉門次小屋を経由し、あこがれの徳本峠へ。菜美、麻里と山道を楽しみながらの登りで、さほどの苦もなく峠に着く。

 実のところ“おゆぴにすと”第5号で、6周年企画と銘打った『あぁ徳本峠』をこんな形で果たしたくはなかったのだが。この峠はあくまでも島々谷から長い時間をかけ、重荷を背負って登らねばならない。かつての先達が果たしたように.....。

         

 振り返ると、明神、穂高の雄姿が眼前に展開される。子供等より期せずして歓喜の声が上がる。上部の方は雲の中だが、その雄大な姿はまさしく穂高なのだ。峠の小屋は思っていたより小さい。島々谷の方はまったく鬱蒼とした樹林帯である。いつかこの谷を、の思いを強くして引き返す。
 そして帰りの散歩は実に楽しかった。娘等と冗談を交わしながら、徳本から明神への“穂高”を散策しているひとときは、私の最もリラックスした、楽しい夢のような散歩道であった。そしてこの時『5年後にもう一度』と約束させられたのだが、私の頬はゆるみっぱなしであったように思う。 (コースタイム 8月15日 上高地五千尺ロッジ8:00→明神9:00→徳本峠10:40〜12:00→上高地14:00)
(平成4年8月12〜15日)
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