島々宿〜徳本峠〜霞沢岳〜蝶ケ岳、新雪の山旅(’95秋) 
       構想7年、『あぁ、徳本峠』完結す!(前編)  
                 栗秋和彦

〇プロローグ
 「モシモシ、恐れ入ります。明日、お宅様にお世話になる者ですけど、今天気は如何でしょうか」
「いまぁ吹雪だよ!」
「雪はどのくらい積もっていますか」
「30〜40aぐれぇだよ」
「島々宿から歩くんですけど、どのあたりから雪は積もっていますか」
「岩魚留小屋ぐれえからづら、ケッ」
「(雪のせいで)時間は余分にかかるんでしょうね」
「お宅さんと一緒に歩いたことねーんで、分かる訳ねーだよ」
「ハァ、...」

  これは出発当日、つまり徳本峠到着の前日に峠の小屋へ直接電話した時の小屋の主人とのやりとりの全てである。ほとんど取り付く島がなく、この会話で徳本峠への憧れの半分は失せてしまったような暗澹たる思いがしたのだ。曲がりなりにも、営業小屋であるからには、お客さんを相手するという気持ちが、いくばくかあってもよさそうものなのに、『来るものは拒まず、去るものは追わず』の精神か、いやいやそんな生易しいものではなく『頭を下げて泊まりにくるなら、泊めてやってもいいぞ』といった方が言い得ている。

 ボクは“おゆぴにすと”第5号[あぁ、徳本峠(高瀬正人記)](注1)に盲目的にひかれ、何の思慮も持たず、あからさまに迎合し過ぎたきらいがあったことは認めよう。しかし高瀬の論を待たずとも島々宿から徳本峠へと辿る日本登山史の黎明期に活躍した、先蹤者たちのロマンを求めるクラシック・ルートだからこその思い入れが、峠の小屋に一泊し、昔から変わらぬ雰囲気に身を置くことにより、更に助長して“徳本峠”のとりこになる筈だ、とかってにシナリオを描いていたところゆえ、この会話の持つ意味は限りなく大きいと思えるのだ。

 マァしかし、たかが電話一本ではないか。穂高への玄関口たる徳本峠の位置付けが変わる訳ではないし、小屋のオヤジも電話での応対とは違い、面と向かえば案外話の分かる輩かも知れぬ。

 とにかく高瀬、挾間の待つブルトレ“さくら号”に乗り込み、見果てぬ青春の山嶺に思いを馳せた。穂高を恩師に例えるならば、久しぶりに師を仰ぎ旧友知己が集う同窓会の趣にも似て、コーフンは隠しきれず、当然のごとく浅い眠りのまま朝を迎える。そして名古屋でこれまた久し振りの鈴木と合流して、遠征隊員すべてが出揃ったのだ。さぁ、いよいよである。

〇秋の彩(いろどり)を歩く
 特急“しなの1号”の車窓から見る朝の木曽路は、鉛色の重くやるせない曇天で、心配症の自分としては先を案じて落ち着かない。が、塩尻を越えると急に天気は一変して快方へ向かい、願ってもない展開となってきた。そしてほどなく松本である。連休の初日とはいえ、すっかり陽が高くなったこの時刻では、乗り継いだ松本電鉄もゆったりと座れて、地元の民もけっこう多く周りは信州弁が飛び交い、いやがうえにも北アルプスの玄関口であることを実感させるのだ。

 一方、人見知りというものを知らない挾間は、早速地元の古老をつかまえては世間話やいにしえの信州・安曇野の山と人に係わる逸話・評伝(要するに小島烏水よりも鵜殿正雄の方が穂高に関しては玄人であるとか、嘉門次のプロフィールは知っちょるか等々の質問を浴びせかけていた模様)なんぞを質していたが、車窓から雪を被った常念岳が見えてくると、さしものおじさん(ワタル兄のこと)も口数が絶えて見入っていたね。もちろん自分にとっても雪山が特に珍しい訳ではなく、当たり前といえばそれまでだが、見上げる目線というか、山の高さが九州の山々とは違うのが今更ながら新鮮なのだ。昭和51年の穂高・涸沢春合宿以来、およそ20年もの歳月を経て見る北アルプスの峰々だからこそ、まだ前衛の山々を前にしてからこのキョーガクぶりは尋常ならざるともいたしかたなかろう。 

              



 そして稟とした冷気と蒼天の空、紅葉の谷間を仰ぐ新島々駅に降り立つ。うん、まさにシナリオどおりではないか。しかし今日の行程を考えるとあまりのんびりとする訳にもいかず、徳本峠登山口の島々宿(しましましゅく)まではタクシーで時間を稼ぐ。

 島々谷にかかる橋のたもとに徳本峠入り口の看板が立っており、これを右折。民家も途絶え舗装が切れたところで車を降りていよいよ登山開始である。周りは既に深山の趣を呈して、全山紅葉の真っ只中であった。気になる挾間の高度計を覗くと、およそ700mを指している。徳本峠(2135m)まで標高差約1400m、15k余りの行程の端緒についたということになろう。丁度、北方へ伸びる急峻な谷に沿って歩くことになるので、紅葉は順光を受けてより鮮やかに映る。まさに秋の彩を歩くとはこのことであろうぞ。時間的には余裕のない今日の行程と、はるか彼方の雪の徳本峠を思い描くよりも、暗黙の内にひとまず、たっぷりと北アルプスの玄関口、島々谷の本場(?)の紅葉を堪能しようということになった。

 

 特に北沢と南沢を分ける二俣までの約6kの道程は山全体が冬の訪れを待つ、つかの間のあで姿で競演するような、きらびやかな晴れ着のオンパレードであった。しみじみ日本の秋の山はいいなぁと思えるのだ。もちろん、外国の山々を巡った訳ではないが、スケールアップされた岩と雪の峰々や、それを支える広大な針葉樹林の圧倒的な“ど迫力”画面とは異質の繊細な“彩”の魅力は語り尽くせない。紅葉に酔いつつ、更に二俣からは南沢側へ曲がり込み、苔むした石垣や炭焼き窯跡が見守る谷をたんたんと進む。少しづつ陽も陰り標高も稼いできたのか、谷間の色調は全体的にセピア色の趣となるが、この中でもナナカマドの“赤”はよく目立ち見事なまでに色づいていた。赤といっても様々で深紅からオレンジがかったものまで、色調はそれぞれ微妙に違う。そこに広葉樹の黄色、枯れた草の淡い茶色が加わって全体のバランスを保つのだ。紅葉とひとくくりにしてしまうが、あでやかな色彩から“わびさび”の漂うパステルカラーの世界まで、この谷では広範にその極致を楽しめるのだ。

 

 しかしながら色々とレトリックを駆使しつつ(?)書き立てても、ボクの表現力では語り尽くせぬもどかしさは否めぬ。そこで今回の共同装備の目玉として調達した、挾間の操る最新鋭のデジタルビデオカメラが活躍することになるが、根気よく操って初めて臨場感溢るる映像が楽しめる訳だから、いくら物好きとは言えそれ相応の(重さの)ザックを背負ったまま、小走りに先行したり、後方から注文を出したりと、労苦をいとわず名カメラマンぶりを発揮した挾間には頭が下がる。紙面を借りて労をねぎらっておこう。

 で話を元に戻すと、やがて木陰には積雪が現れはじめ、ほどなく岩魚留小屋(1250m)に到着した。もうこのあたりまで来ると秋の“彩”はなく、すっかり冬枯れの森のたたずまいである。シーズンオフの今は閉鎖され廃屋のようにうらびれた小屋の周辺は、時折雲間から覗く淡い陽を受けても、寒々とした印象を拭い去ることはできない。夏は涼風を誘う(であろう)広場の桂の木の大木も、心なしかうつむきかげんで、うなだれたように見える。半日の間に確実に季節の移ろいを見てきた訳だがこれはまだ序盤である。峠まで4.5k、まだ標高差にして900m余りを稼がねばならぬのは皆分かっているので、申し合わせたように口数少なく、早々と腰を上げたのだ。そして凝縮された3時間余の後、烈風吹きすさぶ白色、薄暮の峠に辿り着いたのだが、この間の各々の人生模様は、くだんのデジタルビデオカメラがキッチリと捉えているので、退屈な文章よりビジュアルな映像に“ゲタ”を預けたい。

        

        
 
〇徳本峠収容所の実態に迫る!
 旅は宿である・・・・・というのがボクの持論である。どんなにいい天気、どんなにいい景色でもその日に泊まった宿の部屋は湿っぽく薄暗く、そして方角違いの料理(例えて言えば、草深い山里の一軒宿で赤黒く変色したまぐろの刺身なんぞを並べる感覚とか)を、娘の時代が昔あったのだろうかといぶかしげなオバさんが、客を客とも思わぬような横柄な態度で、「あぁ、しんど」などと運んでくるような宿に泊まってしまうと、たちまち自分の人生は暗いものに思えてくるのだ。

 いい景色の中をいい気分で歩いた日は、是非とも気持ちのいい宿で一日をしめくくりたい。もちろんこれは宿のグレードや宿泊料金の多寡で決まるものではない、と思っている。しかししかし山小屋は違うぞ。(一般的には)予約制ではないし、山道を何時間も歩いて辿り着いた登山者を追い返す訳にはいかない。時には天候の急変等により、予想を越える人であふれるかも知れぬ。満足に食事も取れず、ギュウギュウ詰めのタコ部屋もどきも想定せざるを得ない場面もあろう。不便さの代償を甘受しつつ泊まるぐらいの認識は持ち合わせているつもりである。それでは山小屋の善し悪しは何か、となれば小屋の主人のちょっとした気配りや、限られた条件の中でも心地よさを提供しようと試みるマインドの多寡、すなわち心意気のレベルで決まってくるのではと思えるのである。もちろん登山者(お客)も譲り合う心が大切になってくるのは言わずもがな。

 で、ほうほうの体(てい)で辿り着いた徳本峠小屋はどうであったか。結論から先に言おう。まさにそこは極寒のシベリアに開かれた収容所群島を連想させるに充分な“収容所”そのものであった。昨日電話のやりとりで抱いた心配は、現実のものとなってしまったのである。そこで極力、主観は排してありのままをたんたんと述べてみたいと思う。イヤ、感情に押し流されたくだりもあるかも知れぬが、そこは人生修行の未熟さゆえご容赦願いたい。

 先ずは最初に洗礼を受けた挾間リーダーの葛藤から再現してみよう。到着早々、4人を代表して宿泊の手続きのため、ランプの暖かい明かりに誘われて小屋の玄関とおぼしき板戸をガラガラと開け入る。いつになく挾間の後ろ姿が頼もしい。そしてしばし空白(烈風吹きすさぶ外で待つ我々には、何も聞き取れはしない)の後、つむじを曲げた彼の表情が暗闇にもはっきりと見てとれたのだ。要約するとこうである。

 「コンバンワ!予約している大分のハサマです(ウッ、暖かいなぁとしみじみ感じ入りながら)」と先ずは到着の挨拶。暖かい部屋と、目の前の食卓にはオデンのうまそうな匂いが湯気と共に誘っているんだわ。これぞまさしく“砂漠のオアシス”と言わず何と言えよう。ところがである。

「あんた、今、何時だと思っているだね。こんな時間に着いても食事はないよ。先に着いたお客さんに4人分回したからね。ケッ!」
「あの、予約してるんですよ、我々は(まだ5時を過ぎたばかりなのに....)」
「来るか、来んか分からんお客さんを、暗くなるまでずーっと待つ訳にはいかねーんだよ」(つまりこの小屋では予約は約束事ではなく、単なる連絡にすぎないのである)
「ウググ....」と一瞬たじろぐ挾間。が、敵は更に畳み掛ける。
「ここは食堂だ。邪魔になるんで泊まるんなら向こうの入り口からへーってくれ。カレーぐらいなら作れっけど夕飯はないよ。さぁどうすんだい?」と配膳に忙しく立ち回りつつ、言いたい放題のオヤジの視線は、全く挾間には向けられなかったそうである。

 日頃さかしい挾間も、さすがに開いた口がふさがらず、とにかく宿泊の意だけをやっと伝えて出て来たのだった。あぁ何たる独裁、横暴、鉄面皮のオヤジか。これを聞いた温和な高瀬までが、「こんな小屋、こっちが願い下げだ。テントも持っているしよ!」と息巻いて宣う。ボクも憤りを押さえることは出来ないが、この目でオヤジと対面した訳ではないし、今から凍てついた暗闇の中でテントを張る億劫さと、食料は明日の徳沢でのキャンプに充てるべく、一泊分しか持っていない我が隊としては、トーンダウンは否めないのだ。もちろん一泊分とは言え、食材は大量かつ豪華に揃えているし、非常食も充分過ぎる程持ってきているので、(テント泊まりでも)腹を空かせることはなかろうが、食料係としては明日の一点豪華主義を貫いたディナーの計画を放棄することになり、シナリオに狂いが生ずる。ここはやはり癪ではあるが、百歩譲って“徳本峠収容所”の軍門に下る他はなかろう。「長いものには巻かれろ、と言うことか」とポツリ、諦めつつ自嘲気味な高瀬の言葉が皆の胸にズシリと重く響いたのだった。

 しかし真実の“収容所”生活はこれからであった。ザックを別棟(大カマボコ型テント)に預け、身の回りの小物だけを持って“向こうの入り口”から入ってみると、10畳ぐらいのスペースに大勢の宿泊客が、静まりかえってたたずんでいるのだ。中央にストーブがあるので部屋は暖かいが、皆まるで生気がない。夕食前の団欒というか、せめて仲間内での談笑ぐらいあってもよさそうに、まるで“アホウドリ”の営巣シーンよろしく、一様に同じ方向を向いて黙しているのだ。別の見方をすれば、耶馬渓は羅漢寺の大洞窟を支配する、五百羅漢の幽閉鎮座に似てなくもないぞ。いやしかし、五百羅漢の方がそれぞれに表情があるだけマシではないか、とも思えるのである。

 我々としては酒とツマミを携えて、夕飯(この際カレーでも食おうかと腹を括ってきたのだ)前に軽く一杯のつもりであったが、とてもそんな雰囲気ではなく、もちろん座れるようなスペースもないので、受付を済まそうと4人とも、いきおいくだんの食事部屋に入ってしまったが、心ならずもここで不精ヒゲの“所長”(オヤジ)と“看守”(手伝い)2名の独裁者グループと対面することになった。

「受付をお願いしたいんですが」
「ムム.....」
「あのぅ、受付を」
「ケッ、見れば分かるだろ、配膳で忙しいんだ。後だよ、後。ホラホラ邪魔だし埃がするんで出て入ってくれよ」
「ハァ、...」と返す言葉もない。

 待機部屋に戻ると皆の視線がいっせいにこっちを向く。『ホレ見たことか。さわらぬ神にたたりなしだわぃ。逆らっても一文の得にもならんのは、よーく分かってるもんね。わしら』とでも言いたげな表情なのである。悔しいが、この場面ではなす術もなく立ちすくむ他に手立てはなかった。

 そして夕食の支度が終わったのか“収容所々長”が現れて号令である。つまりは寝場所の指示指定方の発表となったが、先ずは優先席の屋根裏部屋から。次いで中二階のブルトレ寝台風“蚕棚”、更にこの待機部屋と名前を読み上げていく。そして最後に、飛び込みで来た登山客たちであろうか、食事部屋に寝場所を定められた12,3人の名前を呼んでお開きとなった。この小屋に定員というものがあるなら、これをはるかにオーバーしている筈であるが、我々の名前はない。

「あのぅ、私ら呼ばれていないんですが....」とそぉーっと尋ねてみると、語調を荒げて「当ったり前だわね、お宅らはまだ受付も済んでないんやろが」との“仰せ”。実に腹立たしいのだ。 しばらくしてようやく宿帳に記入を許されたが、我々を除いてはみんなは集団一斉食事を命じられ、隣の部屋へ強制移動である。中に一、二のグループが荷物の点検やらで手間取っていると、「ホラホラ、ぐずぐずしとると(食事を)下げるよ。ここもすぐフトン敷くんだかんね、エーッ!」と容赦なく“看守”の檄が飛ぶ。もちろん言われっぱなし、誰もあらがう者はいない。おかげで(?)ガランとした待機部屋で、ストーブの周りにゆったりと座れてひと心地ついたが、カレーの出番はまだなく、今度は食事部屋を除いてフトン敷きが始まるといったあんばいで、とにかく今宵の作業は一刻も早くケリをつけたいとの思惑であろう、せわしげに立ちふるまうのだ。

 しかし我々はお客様の一員である。邪魔にならぬよう気は配りながらも、ひとまず乾杯でもしようと、迂闊にも、この最中に「あのぅ、缶ビール下さい」と宣った後で後悔したね。「今何しよるんか分かるやろが、ったく。」取り付く島がないばかりか、逆に『キィーッ』と逆鱗に触れたような表情で睨まれる始末。缶ビールの入った箱はすぐ隣にあり、自分たちで勝手に取ってオヤジには金を渡すだけなのに、「こんな難しい買い物は初めてだよぉ」とそぉーっと呟いた鈴木の弁に共鳴することしきりであった。

 そしてそれでも何とか食事(カレー)に有り付き、少し酒も入って他の“収容者たち”とわずかばかり談笑も交えたが、殆どの人達は食事が済むと寝床に潜り込んで(まぁだ7時前だよ!)、引き続き好むと好まざるとにかかわらず、静かな夜を強要されているかに見えたのだ。(ガイドブックには、・・・・雰囲気のいい古きよき時代の山小屋をゆっくり堪能するといい・・・・などと白々しいことが書いてあったな)

 こうして意図的に(?)圧迫された“収容者たち”のエネルギーは、長い夜をそれぞれの胸深く収められ、ついぞ花開かぬままであったが、我々にあてがわれた食事部屋の寝床は、飛び込み客中心に充てられのか、予想以上に狭かったね。一人60a巾もなく、圧迫され寝返りも思うにまかせず、ほとんど寝つかれぬまま朝を迎えたのだ。この意味からもまさに収容所群島であった訳だが、ボクはただ単にこの狭隘ぶりを捉えて問題にしているのではない。いわゆる平常時の寝室となる屋根裏部屋、中二階、待機部屋においては、布団一枚分と比較的ゆったりスペースが確保されていたからであって、こういう場合は全体も少し詰めてもらい、皆が少しでも気持ちよく泊まれるような配慮がオヤジには欲しいのである。まして我々は“予約客”なのである。ここんところを声を大にして言いたいのだ。うがった見方をすれば、この“収容所”において、食事部屋をあてがわれた者は、他の“模範囚”の見せしめであり、逆に隔絶された権力社会の治安維持に一役買わされていることになろう。中でもスケープゴート化された我々は“公序良俗健全日常的なこの小屋の営み”にとって『害』、すなわちなくてはならぬ苦々しきスパイスの役として機能していた(?)のではないか、などと考えてしまうのだ。

         

 あぁ、しかしこんなことばかり遠吠えで述べ立てても事態が変わる訳ではない。いい加減にして切り上げろとのおしかりを受けそうなので、このあたりで“収容所”での証言はおしまいとしたい。少しは実態に迫れたかなぁ。(つづく)

(おことわり)
 この山行は1995年11月3日のことであり、この2年後の1997年に小屋の管理人が替わり、少なくともそれ以降この小屋を訪れた人にとって、当時のような不快な思いをすることはないことは、東京のMさんからの以下のメールからも明らかである。(2003年5月17日追記)

「・・・(前略)・・・予約なしで登ってきたお客さんには昼間であれば上高地の旅館などを案内しているようです。そんな場面に遭遇したことがありましたが、女性の従業員が何度も何度もゴザに額をすりつけて謝っている姿をみて感心したことがあります。ねばっていたお客さんも納得して降りていきましたが、小屋としては予約なしを認めてしまうとどうにもならなくなってしまうことを心配しているのでしょう。勿論、緊急避難的な場合は認めていますが、それだけに、皆さんの体験されたことは想像できないことでした。大勢の宿泊客が『夕食前の団欒』もなく『一様に同じ方向を向いて黙しているのだ』は、想像を絶する雰囲気で、皆さんの到着の遅れが原因でないことがわかります。・・・(後略)・・・」(2003年5月16日付け、東京Mさんからのメール、一部抜粋)

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