遥かなるアンデス Jirishanca 1973
・・・ヒリシャンカ南東壁回想・・・
(第1回)
吉賀信市
          
1.プロローグ

 1973年7月16日(晴れ)、起床:2時。登頂への思いで興奮のせいか目ざめが早い。日の出前の寒さもさほど感じない。また、雪庇が風を防いでくれたことも幸いした。腹ごしらえを済ませて日の出を待つ。5時30分、勢いよくツェルトを剥ぐ。不要な物はこのビバークサイトにデポする。必要な物は下降時に使用するスノーバーとカメラ、空身同然で頂上へ向かう。天気は快晴微風、体調も良し。

 日の出をうけて左手(南面)のイエルパハー(6634m)が紅く染まり、次第に強くなる朝陽を浴びて黄金色となり、次には白くまぶしく輝く。その雄姿は、‘アンデスの白い鷹’その名にふさわしい。両側がスパッと切れ落ちた急峻なリッジをピッケルとスノーバーのコンビネーションで篠原トップにて慎重に登攀する。登頂への期待に胸は躍る。小ピークを2つほど越して最後の登りに入る。

 3ピッチ目、リッジは右から左へと蛇行する。そのスカイラインを行く2人の姿が、白い雪、紺碧の空に美しく映える。4ピッチ目、クラストした急斜面を篠原が力強くアイゼンを蹴り込みながら登る。砕けた氷片が風に吹き上げられ朝陽に輝きながら舞い落ちてくる。篠原の姿は、黒々とした蒼さを感じる空に溶け込むように消えて行った。

 「着いたぞォー。頂上だァー」風の中、篠原の声が聞き取れた。長塚が続く。その後を一歩一歩を噛み締めるようにトレールを追う。2人の姿が目に入る。頂上だ。3人がやっと立てるほどの広さだ。ヒリシャンカ南峰(6126m)の頂に立つ。

 谷川岳、穂高、北アルプス、そして私の原点である高崎山の岩場でのトレーニングが通じた。ヒリシャンカの頂に南東壁の新ルートより達したのだ。右手には、北峰からロンドイ(5883m)へと続くカミソリの刃のような急峻な氷の稜線が蛇行して続いている。時計は、7時35分である。南東壁(高度差:1200m)に取り付いて以来、実に49日の長い長い闘いであった。

 これは30年程も前の古いアンデス遠征記録である。全容を語る前に、この山行まで辿り着いた過程に少し触れてみたい。 
                         
           
      
                
 私は、昭和43年に社会人となり会社の仲間に誘われて山行をするようになった。初めて登った山は、奥秩父の雲取山であった。東京にいた1年弱の間に、奥秩父、丹沢、三ッ峠、富士山など10ヶ所程登り、転勤となり大分に帰ってきた。

 帰ってしばらくは会社の仲間と九重周辺等を歩いていたが、そのうち単独で行くようになった。加藤文太郎の『単独行』に感化されてか、重いキスリングを背負って独りで祖母・傾山縦走、大崩山周辺に行ったりしていた。山岳雑誌を読むようになると、「今自分がやっていることは、いわゆるハイキングだ。‘登山’ではない」と思うようになった。「‘登山’をするためには技術をまなばなきゃだめだ。そのためにはどこかの登山クラブに入る必要がある。」と思い、大分市内にどんなクラブがあるか探してみた。その中の大分登高会と言うところが、ヒンズークシュに遠征したことがあることが分かり、そこに入ることに決めた。

 昭和45年1月のある日曜日、由布岳の東峰で独りビバークを終えての帰り、昼前に入会するためサニースポーツ(大分登高会の事務所を兼ねた山の店)に立ち寄った。

 店の奥にメガネを掛けた色の黒いエラの張った顔のオヤジがパイプをくゆらしていた。
 あっ、この人が西さん(西さん=西諒と言えば当時、大分県内のみならず中央の岳界でもちょっとは名の知れた人)かと瞬間的に思った。
 「会に入るのか。よし分かった。今、会の者が高崎山で岩登りの練習をしよる。山の格好をしちょるじゃないか、今から直ぐ行け。丹生と言う、メガネを掛けた面長の、面倒見の良い男が行っちょる。」
 「はい。わかりました」と当時あった路面電車に飛び乗り高崎山へと向かった。

 入会してからは毎週、岩場のトレーニングに精を出した。高崎山で単独にて練習中10数m転落。意識不明となり救急車で病院に搬送された。気がついたらベッドの上で、どうして、なぜ、ここにいるのか翌日になるまで理解できなかった。全身打撲と左手首骨折で1ヶ月ほど入院となった。また、会社では、出張命令を春山合宿があるので拒否したこともある。そのことが原因の1つとなり、東京に転勤命令が出た。この時は仕事のことより、谷川岳、穂高に近くなり、中央のいろいろな山に登れる、と思った。

 東京ではどこの会にするかと検討した結果、西さんが第2次RCCでソ連(カフカズ)に遠征した時のメンバーで、篠原のいる東京露草登高会に入ることにした。

 昭和46年暮れの穂高合宿に出発。合宿を終え穂高からそのまま転勤地に赴任した。露草に入ってからは、毎週のように谷川岳、北アルプスの岩場をトレースしていた。

 会では、昭和48年5月にアンデス遠征計画が決定し、最後の準備中であった。アンデスの岩壁を想定して、黒四ダムの上部、大タテガビン南東壁に3回の合宿を行い新ルート(高度差:500m)を開拓した。この合宿の最中、「お前もアンデスに行かないか」と誘われた。

 ペルーアンデス・・・・・‘アンデス‘と言う響きには‘ヒマラヤ’よりも明るい開放的な感じがする。山はヒリシャンカ、会に入るまでは聞いたことのない山だが、写真を見ると凄いとしか言い様がない、とても登れるとは思えないような大岩壁。氷の鎧で守られた要塞であった。

 海外登山なんて、めったにチャンスはないと思い、親にも相談せずに参加することに決めた。登山計画書を持って会社に説明し3ヶ月間の休職を申請したが、留学ならまだしも趣味での休職は前例がなく認められないと言うことであった。行くと決めたからには、後には引けない。あの大岩壁を登れる確率は高くないかも知れないが自分の力を試して見たい。行って見たい。また、東京は何かと便利は良いが長く住む所ではないと思っていたので、山が終わったら大分に帰ろうと思い、出発の間際にちょうど5年間お世話になった会社を退職した。

 国内での準備を終え、昭和48年5月6日、地球の裏側、南米大陸・アンデスまでの23時間余りを要する空の旅へ4人の仲間と共に夢とロマンを求め、そして少しの不安を抱いて羽田を飛び立った。(つづく)

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