Jannu expedition '81

1981年秋の記録)

(第9回)
          
                       吉賀信市
 
           
                        
出発準備完了 

6.キャラバン(その4)

9月21日 曇り  起床:6時

朝、19人のポーターが交代する。これから先は標高が高くなり自然環境も険しくなる。

ダランバザールから歩いて来たポーターたちは体力的に寒さや険しさに対応できない者がいるようだ。すでにポーターの半数ほどは代わっており、だんだんと顔なじみのポーターが少なくなり寂しい想いがする。

少年、少女(男女:4人)ポーターも帰る。ダランバザールから毎日のように声を掛け合い、時には互いの昼食を分けあったりして共に歩いてここまで来た。30kg以上の荷物を背負ってここまでよく歩いたものだ。彼らがいなくなるといっそう寂しくなる。

帰るポーターの賃金の支払いに40分ほど要してキャラバンは8時ちょうどに出発する。

ナイケに荷物の数量とポーターの人数をチェックさせる。荷物46個に対しポーターは42人である。ポーターの補充ができておらず4個はダブルキャリーとなる(1人で2人分担ぐ)。

 キャラバンルートは昨日と同様、タムール河の右岸沿いにひたすら奥へと進みヘロックを過ぎた辺りから川の流れはチャーチュ・コーラに変わる。

ルートには丸太橋、数本の竹で作った橋、峪にカズラを渡した吊り橋、そして川の渡渉など次から次へと障害物が現れる。まさに歩くに値する大自然によるアスレチックコースを満喫することができた。このような厳しい土地にも民家が点在している。少年が梨を売りに来たのでドッコに入っているすべてを買った(80個/10Rs)

       
               丸太橋

13時すぎからは右に高捲きの登り道となる。午後の強い日差しのなか坂道の登りはきつい。ポーターの額からは汗が流れ落ちる。本日は私たちが尻を追うのでポーターの歩きは速いようである。

路は高捲きに高度を上げて行き、登り詰めた所から幾分平坦な道に変わり吊橋を2ヶ所渡ってしばらく登った所がシャカトンであった。1610分着。標高は1500mほど。草地に幕営する。近くには民家がないようで住民の訪問はなかった。この辺りの標高は約1500m。この草地には多くのヅカが生息している。

ポーターの最後尾が着いたのは夕暮れ近い1815分。1人のおばさんポーターはバテてしまい荷物をナイケが背負っていた。今日はポーターも私たちもほとんど休みなく歩き、かなり長い距離であったように感じた。

ポーターにはダランバザールからの者がほとんどいなくなってしまった。歩いていてキャラバンが楽しい雰囲気でなくなった気がする。近くに民家がないのでポーターたちにはビニールシートを貸して簡易の天幕として夜露を凌ぐようにシェルパに指示する。隊員の状況は、森口、昨日より下痢にて若干不調。篠原、朝波Dr、リエゾンの3人は異常なし。吉賀、熱は下がったが、まだ咳と下痢があり今日もブドウ糖の注射(抗生物質の薬を混ぜて)を朝波Drにお願いする。

コースタイム:チルワ(800)〜シャカトン(1610

 

922日 晴れ一時雨  起床:530

今朝はポーターの準備が早い。6時半すぎに出発し始めた。

ところが間もなく「ポーターが賃上げを要求して動かない」とリエゾンが知らせて来た。

「規定通りの賃金(24Rs)を支払っているのにどうしたことだ」と思いながら現場に行ってみると15人ほどのポーターが出発を拒否してたむろしている。

            
               ストライキ
 

一昨日雇ったポーターで少し英語の喋れる背の高い男が煽動しているようだ。

彼らの要求はグンサまで10Rs/1日(約200円)の増額。

小遠征隊なので舐めて揺さぶりをかけているのであろう。日数に余裕があれば15人とも解雇したいところだ。リエゾンやシェルパにも説得させるが引き下がらない。いつまでもカタコトの言葉で交渉している訳にもいかない。しかし、賃上げを呑むこともできない。

そこで妥協案として簡易ライターをポーター全員に1個支給することで話をつけた。

このような場合には、言葉(英語)を不自由しない程度に喋れないことがハンディーになる。

これに要した時間約1時間、8時すぎに出発となった。

キャラバンはアムジラッサへと登り道が続き蛇行しながら高度を上げて行く。

14時ごろ、2人のポーターが担ぐ籠に乗った若い女性(米国人)に出会う。

1人でジャヌー方面にてトレッキング中にアクシデントとのこと。足を覆っていたハンカチを取って見ると右足の打撲、及び裂傷。薬などは何もつけてなく傷が化膿して赤く腫れ上がっている。

 この傷なのに深刻な表情はしておらず片手に摘んだ野の花を持ってジョークも言える余裕を持っていた。薬品の入った荷物を背負ったポーターが登ってくるまで待機させ朝波Drが応急処置を施して別れる。

そのすぐ後スコールの来襲を受けながらキャラバンは進み16時すぎにアムジラッサに到着した。幕営地は草を刈り取りどうにか天幕を張れる場所を確保できた。

昨日と同じく近くには民家なし。したがって訪問者もなかった。

標高は2300mほどもある高地なのにまだヅカや毛虫がいる。夕方、例のポーターたちが今度は、シートとロープを支給するように要求してきた。いちいち要求を聞き入れる事は出来ない。互いに怒鳴り合って大喧嘩の末、今まで通り貸すことになった。

このような状況であっても隊の荷物や小物でなくなった物は皆無である。ポーターたちは誠実だ。

コースタイム:シャカトン(700)〜アムジラッサ(1600

 

923日 晴れ  起床:6時

ポーター1人雇って43人。3人不足。したがって3ダブルキャリーとなる。シェルパたちの手配や段取りが良くないと言うか悪い。今朝は昨日の喧嘩の効き目があったのか730分までに全員出発した。私たちも歩き始めるしばらく登ると数軒の民家がある。そしてその前に荷物がおいてある。みんな出発したと思いきや1516人のポーターは民家に入りチャンを飲んだり、トウモロコシを焼いて喰っていた。キャラバンはチャーチュ・コーラの左側の林の中や草地を進んで行く。この辺りになると民家も見あたらず往来する人もいない。アムジラッサまでは川沿いの高い崖のような場所に、「よくあんな所に住めるものだ。仙人が住んでいるのか」と思えるような家を時々見かけたが今はもう見かけなくなった。しかし、道はしっかりしている。標高の低い峪に近い所の道が氷河の雪解け水で寸断されるのであろう。

今日のキャラバンルートは、変わり映えのしない同じような景色が続き写真に撮る所もない。14時にギャプラ着。まだ、雪を被った山は見えないが立ち枯れの木が目立つ景色となる。ポーターの半分くらいは着いているかと思ったのだが、シェルパと隊員、リエゾンだけであった。荷物が着かないとお茶の準備も出来ない。まだ、時間があるから良いもののどこで道草を喰っているのだろうか。初めてヒマラヤを経験する者が偉そうな事はいえないがシェルパが良くないと思う。

1時間余り待つとシェルパとポーターも着きはじめた。さっそく幕営しお茶の準備にかかる。

ポーターの最後尾は16時ごろに到着。

ここギャプラは5〜6戸の集落のようでキャンプ地から見えるところに民家はないが二組の母子の訪問があった。住民はチベット系で今までの村人とは面立ちが異なる。私たち日本人に良く似たモンゴロイドである。

言葉もチベット、ネパールのちゃんぽんで話をしているようである。大人も子供も服装はしっかりとしており暮らし向きは良いようである。

標高は2600mあまりとなり陽が沈むとさすがに冷えてくる。水も冷たい。また、ヅカはもう見あたらないようである。ポーターたちはシートを張りその下で薄い毛布に包まって休んでいる。

朝波Drは仕事の都合で925日には帰ることになる。

コースタイム:アムジラッサ(730)〜ギャプラ(1400

          
                    キャンプ地(ギャプラ) 

924日 晴れのち曇り 起床:6時

ポーターたちは寒さのため、夜明け前から焚き火をして暖をとりながら『ガヤガヤ』話をしていた。外は羽毛服がないと寒いほど冷え込んでいる。今日も7時半までに全員出発した。道草はしてないようでポーターの歩きも順調である。キャラバンはチャーチュ・コーラの左側の道をすこしずつ高度を上げて行き12時にポーレに着く。

家が多くあり学校もあるとのことだ。ここも住民はチベット系、ギャプラから急に顔立ちが変わったようだ。ギャプラの住民と同じく良い身なりをしている。写真に撮られるのを嫌がり声をかけてカメラを向けると「くるり」と横を向き撮るのに苦労をしたが、彼女らが興味を示すカメラのファインダーを覗かせたりして小1時間交歓の後、少女たちはカメラの前に並んでくれた。服装は日本の着物に似たようなのを着て前掛けをしている。この辺りから5000m6000mくらいの雪山が左右に見え始めた。

     
                      ポーレの娘さんたち

              
                          グンサへの道

川沿いの道を進んで行くとグンサ村の入り口辺りと思える位置にタルチョ(お経の文句を印刷した白い布)付けた長い竿が20本ほど立ててあるのを見かける。タルチョの前を通り過ぎるとまもなく橋がありそれを渡るとグンサの村であった。

           
                       はためくタルチョ

1420分にグンサ着。最後尾のポーターが着いたのは16時半。キャンプ地は広い草地で付近の放牧地には多数のヤクやゾが放たれている。また、地理的にチベットとの国境が近く、住民もチベット系で、やはり写真に撮られるのを嫌がる。リエゾンとチェック・ポストに挨拶に立ち寄る。国境に近いため警察官が10人あまり駐在しているとのことであった。ポーターはここグンサで賃金を支払い全員解雇となる。

これより上部は氷河もありちゃんとした靴のない者は無理なのである。また、ここから先はグンサ村の縄張りのようである。支払う残りの日当が7日分と多いため全員の支払いを終えるのに2時間ほどを要した。標高が高いために陽が落ちると急に冷え込む。早く着いたポーターはみんなが揃うまで寒い所で2時間あまり待たされた。しかし、誰も不平や文句を言って来なかった。

今日中にグンサ・ポーターを手配しキャラバンの出発は明日にする旨を村のリーダーに伝える。朝波Drは明日から帰りのキャラバンとなる。ここまで来てジャヌーを見ることも出来ず申し訳なく残念である。夕食はニワトリをしめて久しぶりにビールの栓を抜きささやかな別れの宴となる。

コースタイム:ギャプラ(730)〜ポーレ(1200)〜グンサ(14:20)

(つづく)

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