地獄谷と奥大日岳
奥大日岳から別山乗越
・・・かつての日を回想する山旅
                       (2011.9.2810.1)

Key words: 奥大日岳、剱岳、早月尾根、長次郎谷、剱沢、三ノ窓、別山乗越、昭和47年春、昭和50年夏、雷鳥沢(温泉)、雨、沈殿、ゴアライトテント、36時間

2011年928日(水)
 前夜、山姿に出張道具を手に持って品川プリンスホテル泊。チェックアウト後、とりあえず山道具一式をホテルに預け、夕方回収することとして本業の仕事場に向かう。

 飛行機旅行の難点は、ザックにガスカートリッジなど危険物を入れておけないことだ。そこで、本来の旅行目的である会議を終えた夕方、慌ただしく秋葉原のニッピンに立ち寄り、ガスカートリッジなどを調達して品川プリンスホテルに荷を回収しに戻る。

 出張を利用した登山では、山姿と仕事着のトランジッション、特にその場所とタイミングになかなか気を使うが、その点で品川プリンスホテルは利用価値が高い。ホテルチェックアウト後でも、山姿への変身にはちゃんと更衣室を用意してくれ、しかも若いフロント嬢がザックまで担いで案内してくれる。商売道具のビジネスバッグ、衣類などは長期預かりもロハでオッケーなのだ。高速バスの出発時間の午後10時半近くまではロビーで長時間時間をつぶす。ホテルが大きく人の出入りが断然多いからそれも遠慮不要だ。

 午後10時半、品川発サンシャインツアー高速バス富山行に乗り込む。

 今山行は、当初計画では称名滝から大日岳としたが、予想される天気が9/29が晴れのち曇り、9/30が曇りのち雨、加えて変更不可の格安パック航空券にしたため帰り航空便の変更不可もあり、諸々考えた末、9/29室堂からの入山、雷鳥沢〜奥大日岳〜別山乗越〜雷鳥沢(テント泊)、翌9/30は一ノ越から天気次第で立山雄山をピストンののち黒部に下り(ロッジくろよんテント泊)、10/1扇沢に下山、羽田最終便で帰分ということにした。

929日(木) 快晴微風のち晴れ
 早朝5:45、高速バスは高山駅北口に到着。深夜バスに慣れるなんてことも、深夜バスで眠れるなんてこともまずなかろう。ただただ忍の一字でひたすら朝すなわち目的地到着の時を待つのみだ。眠った実感はなくても少しは眠っているものだ。そう思うことにしよう。


  早速、近くのコンビニでお目当ての鱒寿司(富山名産ますの寿し、左写真)4個を調達。富山からの入山ならこの鱒寿司は欠かせない。腹にたまるし日持ちがするし、何より旨い。行動食でも翌日の朝食でも、うってつけだ。6:28電鉄富山の立山行に乗り込み、室堂着が8:45。ターミナルで山菜そばを遅い朝食にし、9:10奥大日岳目指して出発。

 天気は快晴、微風。空はどこまでも澄み渡り、みくりが池湖面のディープブルーとの間に立山から別山乗越のくっきりした稜線が連なる。その西の端にわずかに剱岳山頂と早月尾根が望まれる。

 今回の登山目的は、奥大日岳の頂を踏み室堂周辺の東西の稜線を移動しつつ、剱岳を飽くことなく俯瞰し、大分登高会昭和50年三ノ窓定着合宿に思いを馳せることにまずある。今日のこの一日はそういう意味でも願ってもない好天だ。

     みくりが池と別山乗越方面

 雷鳥沢キャンプ場までは地獄谷沿いの道を採ったが、あまりの強烈な亜硫酸ガスの臭いに身の危険すら感じ急ぎ足で通過。雷鳥沢から新室堂乗越までわずか150mほどの高低差をジクザクに登っていく。あわよくば室堂から大日岳の稜線に紅葉をと期待したが、辺りのダケカンバはやっと色が変わり始めたといったところで錦秋には程遠い。

 新室堂乗越に立つと、眼下に柴崎芳太郎、宇治長次郎一行が下ったと新田次郎点の記に記されている東大谷や毛勝谷が展開し、先ほどまで重なり合っていた剱御前から前剱の稜線の展望が開けてきた。先ほどまでの室堂の喧騒が嘘のように静かな稜線を西にゆっくり移動しながら次第に高度を上げていく。

回想 昭和50年夏剱岳三ノ窓合宿
 移動するほどに、北に馬場島から突き上げる長大な早月尾根の全貌が捉えられるようになった。かつて剱岳の合宿の際、アプローチに採ったルートだ。三ノ窓定着にわざわざ最もアルバイトを要するこの尾根を採ったのも当時のリーダーの、継続登攀に耐えうる体力・精神力を鍛えることに主眼があったからにほかならない。

この時は途中早月小屋(伝蔵小屋)で幕営、足掛け2日を要してようやくたどり着いた剱岳山頂は休憩なしで素通りし、「我々の目的は剱の頂を踏むことに非ず」とばかりにそのまま三ノ窓コルに直行し天幕を設営し終わるや否や、総勢8名が小窓の王南壁ほか計4ルートの登攀目指して散って行った。そんな、当時のおぼろげな記憶がよみがえってきた。

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 一方、尾根の南方に眼をやると薬師岳から槍ヶ岳まで北アルプスの主稜線がすべて見通せるという幸運の中にあった。ここ数年、白馬岳から針ノ木岳までの後立山連峰縦走、船窪岳から鷲羽岳など黒部源流の山々縦走、笠ヶ岳、白馬岳〜朝日岳北アルプス最北の山々縦走、立山〜新穂高縦走などなど、剱岳を様々な角度から遠目に眺めてきた。それもこれもすべてこの一点、すなわち剱岳を遠望し大分登高会の青春群像に想いを馳せる、ことに尽きる。

 そして11:56奥大日岳(2606m)山頂着。本当は律儀に称名滝方面から突き上げるべきであったこの山には格別のこだわりがあった。以下に少しく振り返る。

                

大日岳、奥大日岳への想い
 昭和46年から47年当時、大分登高会は、会としては停滞期にあった。活動が停滞していたというよりも個々人の登山意欲はあったが、会としては世代交代期の乗り換えがうまくいかず、私のように新人はなすすべなく近場の山でいたずらに時を過ごしていた一時期があった。

先輩格・内田さんもその一人であった。47年4月末から5月初旬の、いわゆるゴールデンウィークには、私が会在籍中唯一、会として、いわゆる合宿が計画されていなかった(韓国合宿と称する個人山行がのちに表面化し物議をかもしたのもこの時期であった)。

 そんな時「立山・剱に行こう!」と持ちかけたのが内田さんだった。1週間分の装備・食糧・登攀用具ほか準備したザックはあまりに重く、弥陀ヶ原から室堂への歩程で早くも顎を出すほどであった。せめて立山三山の頂だけでもと思うも、断続的に降る雨に数日の沈殿を余儀なくされ、著しく戦意を削がれ、登山らしい登山をしないまま、入山5日目に下山を決意、その足で内田さんの古巣・名古屋に向かい碧稜山岳会の石川富康さん宅に宿泊、翌日御在所岳藤内壁を1本登って帰った記憶がある(登高第72号昭和47年8月「5月の剱岳周辺」参照)。

 前置きが長くなったが、剱・立山は私の初めての北アルプス行であり、室堂周辺から初めて仰ぎ見た北アの山が大日岳〜奥大日岳の連嶺であった。悪天に悩まされた山行であったが、ひととき見た、どこまでも澄み切った北アの紺碧の空と大日岳から奥大日岳への(いや、奥大日岳から大日岳というべきか)、山の荒々しさを覆い隠すほどの豪雪の、たおやかな純白が、この時強烈にインプリンティングされてしまった、…まるでアヒルのひなが孵化して最初に眼にした動くものを親と思うように。

内田さんはこの時の印象を「…眼前の大日岳の青と白のスカイラインが目にしみる。これで元は取ったような気分になり、後はもうけだけ。(…後略)」こう書き記している。

 そんな登高会初期のころの苦い思い出と、絶頂期の頃の剱岳合宿などの思い出が交錯する、この奥大日岳登山は長いこと心に温めたものであって40年来の想いがやっと実現したというところだ。

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 さて、今山行での主目的をかなえるために踵を返し別山乗越に向かう。往路右手に見た剱御前〜剱岳〜早月尾根の稜線を今度は左に見ながらいったん高度を下げる。往路気づかなかったが、前剱手前の窓の向こうに見覚えのある山容に気づき地図を広げていると意図が伝心したのか傍らの同世代の登山者から「五龍岳ですよ」との声。また剱岳を挟むように左手には白馬岳がわずかに顔を覗かせる。この尾根からは後立山は見えないものと思い込んでいたから五龍や白馬岳を垣間見たことに嬉しくなった。

 室堂乗越の最低鞍部(2360m)から別山乗越までは、400mほどの、さほどでもない標高差だ。しかし、何しろ昨夜の深夜バスに加え、今朝方海抜ゼロmから一気に2450mの室堂まで上がってきて、ただでさえ頭痛がするのに地獄谷でいやというほど亜硫酸ガスを吸い喉の調子も悪く体調は最悪だけれども、好天は今日だけとなると、どうしても別山乗越までは今日のうちに登っておかねばならない。

 室堂乗越からジグザグの急登2時間ほどで午後2:10別山乗越に到着。ここは剱岳本峰、立山方面、大日岳方面の3つの主稜が交錯する、この山域の要衝だ。昭和50年夏剱岳三ノ窓合宿の際、転落・負傷し仲間に担がれて通過・下山したところでもある。傍らに乗越の象徴・剱御前小舎がある。

長次郎谷〜剱沢への想い


三ノ窓へ・・・昭和50年夏剱岳合宿(剱岳上部の雪渓を横断、右下:八ツ峰、中央:五龍岳、吉賀信市撮影)
 小屋の前の広場に立ち剱沢方面に眼をやりながら、かつての遭難時大変な労力と時間をかけ仲間に担がれた、その時のコース・状況など記憶を呼び戻そうとするが、ほとんど何も具体的に思い出せない。

池ノ谷左俣→三ノ窓のコル→長次郎谷コルと担ぎ上げられ、長い長い長次郎谷雪渓を下され再び剱沢小屋まで担がれたのだから、自責の念や同行した山仲間たちへの様々な想いが駆け巡ったであろうに、さっぱり具体的にはよみがえってこない。「えらく長かった」という感覚だけがわずかに残る。

わずかにと言えば、当時3か月ほど禁煙中であったが、佐藤精一君だったと思うが「痛みますか?・・・なんぼか楽になりますよ」と吸いかけの煙草を口に差し込まれた…そんな取り留めもないことは何故か覚えている(以来30過ぎまで再び喫煙者に逆戻りした)。

その翌日の、剱沢からこのコルを通過し室堂までの記憶がまたあやふやだ、室堂で待機していた救急車に乗せられるところははっきり覚えているのに。それ以来37年ぶりの別山乗越だから、感慨もひとしおというわけだ。

 剱沢方面を覗きんでいると登山者が一人上がってきた。コルに居た15分ほどの間で出会ったのは一人だけ。ひと気のないこのコルから八ッ峰ははっきりと判るので、その手前の狭い雪渓を下ったはずだが源次郎尾根に阻まれて長次郎谷雪渓は残念ながら確認できない。気持ちを変えて、剱沢のはるか向こうに眼を転じ後立山連峰の、雪倉、白馬、鑓、不帰、五龍と続く山々を一つ一つ確認する。のんびりとした中、少し感傷的な気分に浸るひと時だ。

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 しばし感慨にひたった後、小屋に立ち寄り天気を確認する。天気はこれから下り坂、明日は終日風雨で稜線は雪に変わるだろうとのこと。当初の予想よりさらに悪くなりつつあるようだ。少しでも好天の兆しがあるようなら、雷鳥沢テント泊の予定を変更して小屋泊まりとし、明日立山三山の稜線を一気に駆けロッジくろよんまで下ることも考えたが…残念。

 雷鳥沢への下りは、かつて交替で担いでくれたであろう仲間の顔、彼らが踏みしめた登山道を噛みしめながら約1時間ほどで16:29雷鳥沢テント場着。すぐさまテント(ゴアライト2-3人用、シングルウォール)を設営し、雷鳥沢ヒュッテ(雷鳥沢温泉)に向かう。大日連峰から立山三山まで残照を眺めながら気分は、久しぶりにおゆぴにすとになった。

    
    雷鳥沢キャンプ場          雷鳥沢ヒュッテと雷鳥沢温泉

 帰営後、アルファ米とレトルトビーフカレーが今宵の夕食。メールを開くと「元気に山をほっつき歩いてるやろか?巷では宿題かかえてうんうんうなってる輩もいて、秋の一日もそれぞれですなぁ」などのメールが入っていた。

 まあ、それぞれの人生。自分の置かれた環境の中で山を登る。自分の今のスタイルは当初シミュレーション通り、少なくとも今のところは。しかし、人生は必ずしもシミュレーション通りには行かないのが世の常。だから、できるときにやる。それが自分のスタイル、ということを改めて確認する。

 午後8:25、テントから見上げる空は、本当に明日は風雨なのかと疑うほどの満点の星。気温が急に下がり、夏用寝袋に潜り込んでも寒くて寝付けず。ラジオを聴く。どんな番組だか忘れたが、この時印象に残った言葉を忘れないためにメモしておこう。

○心と身体と財布の健康

○アンチエイジング

○老いは怖くない。目標を失うことが怖い。

 午後10:30テントを打つ強い雨音に、やっと寝入ってなんぼもしないうちに目覚める。雨は断続的に強くたたきつけ風も強くなり、一晩中そんな状態が続いた。さらに未明からどしゃ降り状態となった。軽量化のため敢えてフライシートは持ってこなかったが、さすがゴアテックス、約20年使った愛用のゴアライトテントはどしゃ降りにもよく耐えてくれる。

心配なのはグランドシート部だ。防水機能の劣化は否めない。それを補完する意味もあり、かつ夏用寝袋を補強する意味でゴアテックス寝袋カバーを被っていたので、床の少々の濡れは大して気にはならない。それにしても寒い。夜中に何度か起きだして温かいスープなど作り体の中から温める。

930日(金) 終日雨
 とにかく半端な雨じゃない。少しでも天候回復の気配があれば、せめて一ノ越を越えロッジくろよんまでは行きたいと思うも、間断なく風雨がテントを打つ中、ラジオでは「富山地方山間部は大雨に注意」などと言っている始末。

あきらめてテントをさっさと撤収して室堂ターミナルに逃げ込む手もあるが、何しろ変更不可の航空券は明日10/1の最終19:10羽田発なのだから、早く下山しても余計なカネを使うだけだ。ここはもう1日ここで辛抱しよう、テントの中で沈殿し人生を考えるのも悪くないと、終日寝袋の中、沈殿を決め込む。

時折空腹感を覚えては起き出し、おにぎりスープなどフリーズドライ食品を温め身体を中から温める。それ以外は専らラジオを聴き入ったり寝入ったり、そうこうしているうちに夕方を迎える。とうとう終日、外に一歩でも出るのが辛いほどの冷たい風雨だった。

 夕方、携帯電話をONにすると、いきなり旧職場からの電話が鳴る。一瞬出るのを逡巡するが、今日はまだ平日だ。急に現実に引き戻され応答すると、なんでも我が社自慢の特効薬でクレームがついた、週明け早々に対応してもらいたいとのこと。携帯電話は便利なのか不便なのか、標高2400mの山中から関係部署に対処法についてやり取りをして一件落着。

氷雨と寒気が忍びより、そして事件だ
 雨はかまわず降り続ける。気がつけばグランドシートは下からしみ込んできた雨水で水深1cmくらいの層ができている。それもそのはずテント場そのものが、まるで池かと見まがう状態なのだから。マットのうえでかろうじて寝袋の水没を免れている有り様だ。それでもまるまる24時間以上の大雨に我がテントとシュラフカバーはよく耐えた。そこに油断が生じた。テント2日目となる夜の10時半、あまりの冷たさに目覚める。

 就寝中どうやら寝返った瞬間マットから脱落、シュラフカバーのジッパー部から、グランドシート上に層を成した雨水が大量に流れ込んでしまっているのだ。これは事件だ。身体半分は冷え切っている。心臓部を濡らさなかったのが幸いだった。すぐさま下着を着替え雨具をまとい、熱い野菜スープを作って身体の内から暖を取り直し、そののちテント内に溜まった水をタオルにたっぷりとしみ込ませては外で搾る、という作業を、数えて30回ほどやってやっとテント内の排水完了。寝袋に再び潜り込む。さすがにこれまで以上に寒い。ちょっとヤバい。

 おこげスープなどで空腹を満たすとともに身体を温める。その後は数時間おきに溜まった水をタオルで吸い取り外に出し、熱い茶などで身体を温める・・・同じ作業の繰り返し。

 そうこうするうち明け方近くとなり雨足はかなり弱まってきた。体が温まると眠気を催すがすぐに寒気でブルブル、ガタガタと震えが止まらない状態のまま朝を待つ。

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101日(土) 小雨のち曇り
 昨日テント内への雨水の侵入に最初に気が付いたときに、ちゃんと根気よく排水作業を施すべきだったとあらためて深く反省。それはともかく30時間以上も降り続いた雨も午前6:00頃になってやっと小康状態になる。

考えてみれば今日は誕生日だ。誕生日を北アルプスの山中で迎えるなんてこれまでなかったことだ。しかも今日は立山を去る日だ。ここに来てやっと少し気分がハイになり、景気づけに大塚博堂の「ダスティンホフマンになれなかったよ」をスマホから大きな音で流しつつ、意を決して寝袋を出ることにする。ビーフシチューとアルファ米の朝食をとりながらテントの入り口を思い切り開放し立山三山方面を見上げる。雨はここにきて漸く止んだものの、頂稜部はまだ濃い霧の中だが、山肌はここ数日の冷たい雨で紅葉が一気に進んできたようだ。

             
                   雨あがる・・・雷鳥沢から立山三山方面

 36時間ぶりに戸外に出る。そそくさと撤収し8:45室堂発のバスに間に合うよう雷鳥沢を後にした。

 扇沢に着くころには久しぶりに日差しが降り注ぎ、大町行のバス発車までの約1時間を利用してすべての山道具を天日干しとする。わずかな時間であったがお天道様の有難味を、あらためて知った次第。感謝感謝。
                  (孤高の山旅人・狭間 渉、2012.2.12記)

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