笠ヶ岳から立山2010年大縦走 顛末記

計画の概要
メンバー:狭間、高瀬、鈴木
期間:2010年7月27日〜8月3日
行程表:
7/27 新穂高〜わさび平(テント泊)
7/28 〜笠ヶ岳(2897.5m)〜笠ヶ岳山荘(テント泊)
7/29 〜抜戸岳〜双六岳〜三俣蓮華岳〜黒部五郎小舎(テント泊)
7/30 〜黒部五郎岳(2839.6m)〜赤木岳〜北ノ俣岳〜薬師峠キャンプ場(テント泊)
8/1  〜薬師岳(2926.0m)〜スゴ乗越〜越中沢岳〜鳶山〜五色ヶ原キャンプ場(テント泊)
8/2  〜ザラ峠〜龍王岳(2872m)〜立山三山(3015m)〜真砂岳〜別山乗越〜雷鳥沢キャンプ場(テント泊)
8/3   予備日
食糧:6泊7日分

出発まで
 高瀬との、後立山縦走(2004年夏)、南アルプス南部縦走(2008年夏)につづく今夏(2010年)の山行は、表題の笠ヶ岳〜立山天幕縦走に決まった。私だけでなく、高瀬にとっても未トレースの領域であり、それぞれの思いの妥協点と言えなくもない。つまり、

私個人的には、ここをトレースすることにより、北アルプスの主要山稜に足跡をほぼ残すことになる。そうなれば次年以降は、待望久しい、よりマニアックなコースに転進できる。例えば、阿曽原から鹿島槍を越えて遠見尾根を下るとか、黒部から読売新道、雲の平を経て折立に下る、あるいは阿曽原から裏剣、奥大日を経て称妙滝に下る、さらにマニアックにといえば、松尾峠から旧立山温泉、長次郎の雪渓の登下降などなど、遅ればせながら北アルプスの、より深みに身を置くことができる、との思いがあった。

一方の高瀬にとっては、北アならば登山期間を、稜線近くまで残雪が期待できかつ、北アルプスの初夏が最もそれらしい7月20日前後に、との思いが強かった。

 どちらも仕事的には一応現役は退いているし、両者の折り合いにさほどの譲歩は不要であった。高瀬の希望通り出発は、7月20日前後週間天気予報をにらみながら直前に決定、即出発ということにした。その後、(現役ゆえにこの時期休みが取りづらいであろうと思われた)仙台の鈴木君が参加の強い意思表示をしてきた。

 ところがその後、私にとっていくら退職後の第二の職場とはいえ、仕事上どうしてもはずしにくい行事と出張などが山行予定期間付近に入ってきて、出発は結局7月27日夕、わさび平小屋集結してからということになった。つまりは不本意ながらも、私の仕事がらみの出張の延長線上の山行日程に皆を合わせてもらうことになった。

7月27日 久々の再会(歩行:1時間25分)
 出張先の東京のホテルで不要なものいっさいを我が家に送り返し、登山スタイルに変身し一路新穂高へ。新穂高で仙台からの鈴木君と合流後、15時25分登山開始。午後の日射しがジリジリと照りつける蒲田川左俣谷の左岸を歩き、時折進路右手の風穴からの冷気に一服の涼を得ながら小1時間ほどでわさび平小屋着。昨夜からフェリー、電車を乗り継いで少し前に到着した高瀬の笑顔がそこにあった。そう、長期の山に入る日、彼のテンションはいつも高いのだ。

       
                     わさび平小屋と隣接するキャンプ場

 この3人のメンバーでの最近の山行といえば、光岳〜聖岳〜赤石岳〜荒川岳〜三伏峠までの南ア南部大縦走(2008年夏,未報告)以来となるが、それも含めこれまで、一番面倒くさい食当を高瀬に担ってもらっていた。今回は、朝夕2食2日×3人分、つまり1人当たり延べ朝夕6日分、これを各自が用意、ということで皆が食当の負担を均等に分かつということにした。

 さて、3人合流後早速テントを設営。今宵の食当は狭間。準備したものは松本で鈴木君に頼んで仕入れてきたもらった牛肉と生野菜、それにわさび平小屋で調達した大瓶ビール3本のおまけまでつけ大奮発した。何しろ、意図的ではないにしても、結果的に出張がらみの山行となった私としては、まったくの自費参加の2人に対しての申し訳なさを気持ちに表すとすればこういうかたちしかないのだ。もちろん、初日夕食を担当したのには翌日のハードなボッカをひかえ少しでも荷を軽くしておきたいとの見え透いた思惑もある。久し振りの再会ということもあり、当然3本では済まずプラスしたような・・・で大縦走初日の夜は明日に備え8時すぎの早めの就寝であったが、ほろ酔い加減の我が身が夜半どの程度の高いびきであったか当人は知るよしもない・・・。
ビールも入って皆熟睡したものと思ったのだが・・・

7月28日 晴れ 順調なすべり出し…標高差1520mのアルバイト(歩行:8時間30分)
 今日は今縦走中、最も高低差のある登りがいきなりひかえている。笠新道入り口(標高1370m)から杓子平を経て抜戸岳(2812.8m)すぐ横の稜線まで先ずは標高差1400m近い登りだ。


               錫杖岳と残月
 午前3時半すぎ起床。テントほか1週間分の食糧・装備を担いでの‘大縦走’の初日だけに、昨夜の毒気が残ってはいても朝から気合いが入っている自分がそこにある。食当は高瀬。早立ちを考え手近にできるものとの思いであろう、献立はおかゆとみそ汁。少々気になるカロリーはというと、おかゆが75キロカロリーくらいだ。ちなみにインスタントラーメンは約300キロカロリーほどだから、「今日の6時間以上のボッカを考えればこれで持つのかなあ」と問えば「大丈夫! 昨夜のご飯と牛肉野菜炒め、それにビールがしっかりエネルギーになりますから」と高瀬。

 5時丁度にわさび平小屋を後にして、白々としてきた錫杖岳の大岩壁と残月を仰ぎ見つつ5時15分、笠新道の登りとなる。

 各自の荷には個人装備に差があるが、総重量は概ね17〜18kgくらいのはずだ。樹林帯の急登を、45分ほど登り、5〜10分休むを繰り返しつつジグザグに登っていく。高度を稼ぐにつれ、まず乗鞍岳が、続いて西穂高〜奥穂高へと続く稜線が、蒲田川や中崎尾根を挟んで指呼の間に望まれるようになる。さらに高度を上げていくと焼岳から槍ヶ岳までの全貌が見渡せるようになった。ここら辺りで標高は2000m、歩き始めから2時間半、早くも鈴木君のペースが目に見えて落ちてくる。

  
             登るほどに視界が開け、まず乗鞍岳(左)が、さらに登ると槍・穂高連峰が一望に
   

 9時半、2450mの杓子平。登り初めから4時間余り、ここに来てスロースターター・高瀬はエンジン全開、一方、鈴木君はいよいよ足が前に出なくなる。金魚のように口を開けて弱音を吐く鈴木君に「おいおい、笠から立山といえば大縦走じゃないか。3000メートル級、1週間の大縦走しかも天幕縦走なのに、大したトレーニングもせんと・・・笠をなめとんじゃねえか!」と、かく言う私も足に乳酸が溜まりだし、その言葉はそのまま自分に跳ね返ってくる、自分への叱咤でもある。幸い、前を行く鈴木君のペースにマスキングされているが、この疲労を高瀬にさとられまいかとの思いが多少ある。


   ポーズ 二態・・・この時はまだ何ぼか余裕が
 もちろん、この山行に備え、大分市近郊の霊山、本宮山での早朝20〜25kgのボッカトレーニングも10回以上はこなしたし、何よりも九重遭難碑修復のため偵察山行に始まり高瀬らとともに炎天下での機材運搬など、不充分ながらもそれなりの準備をこなしてきた。北アの縦走にあたってはそれくらいの気合いで臨んできた。だから、準備不足を理由のペースダウンは看過しにくく、鈴木君に対しついつい冗談とも本気ともつかぬ言葉になったのも事実。

大休止しをとってアンニンフルーツなど回し食いする。
 さて、杓子平まで来れば稜線までは一気呵成にと思ったものの、ここからが意外と手強い。しばらくはダラダラ登りで抜戸岳から派生した尾根西面のカールをトラバース気味に上がっていくが、これがまず結構長く、最後の急登となる抜戸岳稜線基部までに1時間10分を要した。さらに稜線直下の雪渓基部から標高差200mの急登に50分、最後の踏ん張りどころだ。「こんな日の朝めしがおかゆなんて、ガス欠にもなるわなあ」などと体力の無さを食当のせいにすり替えぶつくさ言う私。朝から登りの連続ですでに6時間ほどが経過した。最も眺望が利くところであろうが、ガスが次第に頂稜部から立ちこめ始め、まだ真っ昼間の午前11時過ぎだというのに、気持ちに焦りが出てくる。
 元気な1人を除き、稜線までの最後の急登は、まるでサウスコルを目前にした急斜面の登高をみるような牛歩だ。先頭を行く高瀬がイライラ感を募らせてきている気配が感じられる。今山行に当たり、先頭は二番手との距離を常に意識して間隔を開けないようにと釘を刺していたので、他人のペースに合わせるのを大の苦手とする高瀬としては、イライラ感が大いに募ってきているに違いないと思った次第。

 実際、抜戸岳付近の稜線に上がり着けば、あとは快適な稜線漫歩のはずなのに、意外とアップダウンが多く疲れた身体は相変わらず重い。

               
                笠ヶ岳は間近…左奥が山頂、肩に笠ヶ岳山荘がわずかに

 そして12時45分テント場着。わさび平から7時間45分の所要。ここを通り過ぎそのまま少し登った笠ヶ岳山荘まで約15分。山頂はもう目と鼻の先だ。山荘で大休止してビーフカレーやおでん、それにビールの昼食をとり、空身で頂上に向かう。

大縦走の実質的な初日、予定コースをほぼ終え気が抜けたのと2700m以上から続いている偏頭痛が登高意欲をそぐ。それでも笠ヶ岳からの槍・穂高連峰には格別の思いがあり、、山頂では少し晴れかけた眺望の中、食い入るように各頂を確認する作業に入った。気まぐれなガスはすぐに視界を遮り、結局山頂から槍・穂高の連嶺を眺められたのは、この時一瞬のことであった。

それにしても、ここ数年のうちに、カラパタールまでのエベレスト街道トレッキングを思い描いているが、後立山、南ア南部ほかこれまでの縦走で2700mくらいから上での毎度毎度の偏頭痛を伴う‘高度障害’に、エベレストを間近に観る夢に黄信号が点る。

 天幕を張り終え早めの夕食は鈴木君担当でレトルトの牛丼プラスアルファ米、野菜具沢山のみそ汁。夜間雨となる。高瀬が、明日は山荘での素泊まり沈殿を提案してくる。いや、提案というよりもかなり断定的な物言いだ。予報は確かに終日あまり良くはなさそうだが、台風や低気圧の接近など決定的なものとも思えない。ましてやまだ今縦走は始まったばかりだ。高瀬の真意を測りかねつつ就寝。夜半風雨絶え間なく続く。今回のテントは鈴木君持参の3〜4人用、フレームを組み、本体を下からフックでひっかけ、フライシートで覆うという、夏山低山用でいかにも風雨に弱そうなのが気にはなる。実際、大袈裟な雨音と少しの風にもフライシートがパタパタと本体をたたく。


7月29日 終日雨 沈殿決定…長期縦走に付きものの同行者との葛藤(歩行:15分)
 食当は私。さとうのごはん、フリーズドライの豚汁、のり、昆布の朝食を済ませたのち、午前6時頃、今日の行程についての協議となる。

狭間:「天気は良くなく、雨は終日止みそうにもないけど、とりあえず双六小屋まで行こうか」

高瀬:「この雨の中をですか!3000m稜線での風雨ですよ。無茶は止めましょうよ。私はこんな日は動きませんよ」「笠の山荘に避難すべきです」

狭間:「ええっ?、・・・」     

 高瀬のいつにない強い口調に圧倒され、しかも断固拒否を決め込んだ、選択・妥協の余地もない物言いにしばらく絶句する私。しばらく考え込んだのち、

狭間:「このパーティには決定権をもったリーダーは居ない。3人の協議ということになる。その場合、最も安全な行動を主張する者に全体として従わざるを得ない。風雨の中を行くより行かないとする主張に従うしかない。」「ただ山小屋は目と鼻の先だから、今から慌てて避難することはない。沈殿はテントで充分。そうと決まれば俺は寝る!」

 今日の幕営予定地である黒部五郎小舎までの間には双六小屋、三俣小屋の各キャンプ場が2〜4時間の歩程であり、とりあえず双六小屋までだけでも歩を進めておくと、今日の1日分のロスを縦走後半に取り戻せるのではとの思惑もあったし、そう主張もした。鈴木君もパーティの1人として考えを述べたようだが、彼に悪いがほとんど記憶が残っていない。一方、一番元気な高瀬の主張の裏には「私はいいですよ。何とでもなりますよ。でも、あなた方二人はこの雨の中、ホントに大丈夫なんですか。行けます?」と暗に問われているようでもある。自分が極めて非常識なことを言ってるのだろうか、笠から双六までの2800mの稜線をとりあえず行ってみようというのが、それほど重大かつ危険なことなのだろうか、・・・昨年のトムラウシのこと(※)が頭をよぎる。‘こう言っては何だが、次元の異なる遭難と一緒にされたくない。我々にはテントも、食糧も、ゴアテックスの雨具も、ポリエステルの下着も、その替えもある。1週間近い縦走では雨中登山も織り込んでおかないと・・・’などと考えながら悶々とふて寝を決め込む。

正午近くになった。この間、テント内では少し重苦しい沈黙がずーっと続いた。私は、ゴアテックスのシュラフカバーで雨水から厳重に守られた寝袋に潜り込み、フライシートを打つ大袈裟な雨音と風の音も、時折天井からポタポタと落ちてくる雨滴もさして気にならず、ただただ悶々とふて寝を決めていたのだが、高瀬はその間ずーっと、テント内に入り込んだ雨水をタオルで拭き取ったり、私のシュラフカバーの雨滴をぬぐったりとせわしげに動き回っていた。そのことが、少々奇異にさえ感じられた。

そして12時過ぎ、高瀬が「今から小屋に避難しましょうよ」と切り出してきた。やや唐突に感じられ「テントでの沈殿じゃだめなんか」と私。そう言いながらも寝袋から抜け出し周りを見渡すとグランドシートのあっちこちに水が溜まり二人の寝袋もびっしょり濡れ状態。天井には水滴が次々と落ちる出番を待っているではないか。「これじゃあ夜は越せないし、腰痛もありもうこの二晩まともに寝てないんですよ!ここらでじっくり休養をとらせてもらえませんか」とたたみかける高瀬。

それから山荘に逃げ込むのにさして時間はかからなかった。13時、笠ヶ岳山荘に入る。

 雨中のテントに比べれば山荘はまるで天国のようだ。乾燥室で濡れた寝袋、衣類、テントを乾かしながらその間談話室で鈴木君と山小屋に常設されている山岳書を読んだり、お茶をつくったりでのんびりと極楽気分で夕食を待つ。

 一方の高瀬は夕方まで布団にもぐり込んだまま。まんじりともせずに過ごしたこの二晩分を一挙に取り戻そうとするかのようだ。‘それにしても二晩ということは昨夜来の雨ばかりでなく、初日は俺のいびきがうるさかったということだろうか。だいだいテントでまともに寝たことなど未だかつてない。寝入ろうが頭が冴えて眠れまいが、横になっとりゃあ疲れはとれるもんだ。テント泊とはそういうもんだ’という私の考えとの間にかなりのギャップがあったのかもしれない。

無類の読書家・高瀬だが、山荘所蔵の山岳書に眼もくれず布団に潜り込んだまま

7月30日 曇り時々霧雨 そして想定外の出来事が…沈殿延長(歩行30分)
 小屋泊まりだから早発ちにしても午前5時前に起きればいいのだが、歳のせいか午前3時半頃目覚め用足しに部屋を出ようとすると、高瀬が小声で体調不良を訴える。

聴けば、午前3時頃から不整脈に襲われ、今は少し落ち着いているが、まだ続いているとのこと。「そりゃ大変。今俺にできることは?」と問うも、「今は少し落ち着いているからこのまま様子をみたい。朝の出発はちょっと無理かも・・・」と気の毒そうに小声で言う。午前5時からの朝食の食卓でも、着くのは着いたが食が進まない。不整脈が間歇的に襲うようで、身体に今ひとつ力が入らないらしい。「宿泊者の大半は中高年だから、1人くらい医者の心得のある人が居るかもしれないし、居なくても薬ぐらいは誰か持ってるかもしれない。皆にあたってみようか」と言っても「とりあえずしばらくは安静にしときたい」という。

事態の逼迫度合いは本人しか分からない。いくら‘患者’が不要といっても、ここは小屋番とも相談してヘリを手配するとか何か手を打つべきではないかと迷うが、見た目にはとても病人とは思えないし・・・下山するにしても双六に向かうにしても、とりあえず今日一日安静にして様子をみるということで、今日も停滞とする。

余談ですが・・・山小屋のこと
 ところで、北アルプスの山小屋は停滞を決め込んだ人が退屈しないようにできている。まずどこの小屋でも豊富な山岳書がある。全部は読めなくてもパラパラと眼を通しておき、良い本が見つかったら下山してから書店に向かう、という手がある。炊事スペースでコーヒーを沸かしたりしながら、他のパーティと山談義に花が咲くのも一興。ガスが少しでも晴れればカメラ片手にぶらりと外へ出て風景を楽しむこともできる。朝食夕食も楽しみだ。結構おかずも良いし熱いご飯とみそ汁は何杯でもおかわり自由だ。カネはかかるが、2800mの高見に身を置き至福のひとときを過ごすことができる。せっかくの食事もたいして手を付けず安静のためただひたすら布団にもぐり込んで体調回復を待つ高瀬には悪いが、だいたい昨日午後からは鈴木君と二人にとっては、しっかり元を取るべくこんな調子の山小屋での過ごし方であった。

少々気になったのは鈴木君が「高瀬さんの体調不良には一昨日来の狭間さんとの葛藤が深因のところでありますねー、きっと」と言ってにやりと笑った時だ。

7月31日 曇り時々雨、のち晴れ 笠ヶ岳を去る(歩行:約5時間)

 高瀬は昨日、ガスの切れ間をみて空身で山頂をゆっくり往復してみたが特に異常はなかったという。今日の朝食もそこそこ腹に入ったようだ。昨日の朝の時点で今縦走計画は中止、頃合いをみての下山は既定路線であったから軽量化のため山荘に食糧などおいて、帰り・大阪からの船便の時間を考慮して7時過ぎに山荘を後にし、往路をひたすら下った。高瀬の内心は窺うよしもないが見た目特に異常もなく普段通りの軽やかな足の運びであった。そして正午頃、3日前に気合いを入れて臨んだ笠新道の入り口に再び戻ってきた。考えてみれば、これまで‘大縦走’で元の登山口に戻ったというのは記憶にない。そういう意味ではこれまでがたまたま幸いつづきだったということだ。

しかし九重では加藤さんも昨年(2009年8月)、不本意ながら転落の憂き目に遭ったし、今山行のことも含め、これからは山を続けていく限り、こういう想定外のことがいつ誰にあっても不思議ではない。そういう年齢になったということだろう。要は、お互いを理解し、また、それぞれの家族も含め、合意形成をきちんと得ておくことが大事だろう、・・・そんなことを下山しながら考えた。

しめくくり
 最後にせめて笠ヶ岳の印象や想いだけでも触れておかねばならない。
 かつて大分登高会時代、合宿山行の大半は穂高山系であった。西穂から槍ヶ岳を、あるいは北鎌尾根から北穂高岳を、それぞれ目指した春山合宿の時も、滝谷のドームなどを攀じた夏山合宿の時も、涸沢岳西尾根や南岳西尾根を登った冬山合宿の時も、常に背後にどっしりとした山容で佇む笠ヶ岳のことが気になっていた。鈍頂といえば鈍頂だが、穂高連峰と付かず離れずの立ち位置で前衛に峻険な錫杖岳を従える姿は様になっていた。いつかは登ってみたいと思ったものだ。

 今、槍・穂高に登りたいとはあまり思わない。それよりもかつて青春の血をたぎらせたこの連峰を周辺のいろいろな頂や尾根から眺めたいとの思いが強い。笠ヶ岳からのその思いは、いっそう強い。

 だから、その笠ヶ岳に登れただけでも、しかも一瞬ではあったが山頂から槍・穂高連峰の大パノラマを眺められたことで、今山行の元は充分とったような気がする。鈴木君もきっとそうだろう。

 
         笠ヶ岳山荘からの大パノラマ(山荘販売の絵葉書より、晴れていればこんな槍・穂高が遠望できたはず)

 いつものことながら、山に入ったその日から、すでにしだいに里心が増幅していくから、予定外の下山であっても、心はすでに里に向かっている。自分の健康・体調のせいで今山行計画の大半を先送りにしてしまったという負い目が高瀬にないことはないだろうが、私・鈴木君ともにそれほどどん欲ではないから、‘要らざる気遣いは無用にしたまえ’と言いたい。深田久弥の言葉で一番好きなのは「山は心を後に残すのがよい」だ。いっぺんに登り尽くさず再訪を約す、そういう登り方を良しとする考え方だろう。「まあいいさ、また来るさ」…そういう思いで新穂高を後にした。(完,2011.8.27狭間記)

(※)トムラウシ山遭難事故とは、2009年7月16日早朝から夕方にかけて北海道大雪山系トムラウシ山が悪天候に見舞われ、ツアーガイドを含む登山者9名が低体温症で死亡した事故である。夏山の山岳遭難事故としては近年まれにみる数の死者を出した惨事となった。

私・狭間個人的には、この遭難事故よりも前1989年10月の立山で起きた大量遭難の教訓がまったく生かされていないということが少々気になった。体力、経験はもちろんのこと、山で大事なことはそれ以上に近代的な装備を充分取り入れ携行すること、との教訓が生かされたのだろうか。‘低体温症が発生するような状況下では(体力よりも)装備がものをいう場合が多いと思う。山登りでは必ず最低限必要なものとしてしツェルト、軽シュラフ、シュラフカバー、ポリエステルの下着など40年前ならいざ知らず、今では担いでも重量はしれているこれらは日帰り山行といえども必携品だ’…そういう思いに至り携行実践のきっかけとなったのが立山の大量遭難事故であった。

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