名山探訪 第7回 大峯奥駆け〜紀行と印象〜続編(2006年5月3〜4日)
                                        狭間 渉

5月4日
 4時45分起床。昨日はゆっくりした行程だったので、早く床についたため休養充分だ。今日の予定は1,600〜1,800m級の奥駆け道主要山岳と稜線を踏破して釈迦ヶ岳(1,799.6m)経由前鬼(812m)までの約13.5km、今山行の核心とも言えるロングコースだ。ラジオの天気情報では終日好天が見込まれる。役行者に感謝・・・いや、我々のために役行者に願掛けてくれた佐藤さんに感謝と言うべきか。

ご飯とみそ汁の簡単な朝食をそそくさと済ませ、宿に頼んであった弁当を受け取り、6時15分に山小屋を出発。無風、深い霧が立ちこめひんやりとした空気の中を、加藤さん先頭、佐藤さんしんがりで、まずはこの山系、というよりも近畿地方最高峰である八経ヶ岳()の頂(1,915m)までの小一時間、オオヤマレンゲのこと、シカの食害による白骨樹のことなど佐藤さんの懇切丁寧な解説に耳を傾けながらの登高。6時40分山頂着。ガスの中、これから先の長丁場を思うとゆっくりもしておられず格別の感慨はない。単なる通過点といった感じだ。

 登山者の多くは近畿最高峰、日本百名山の八経ヶ岳が目的らしく、山頂を過ぎると行き交う登山者は急に少なくなる。いわゆる奥駆けと呼ばれる縦走スタイルの本格派だけとなる。前鬼から、あるいは八経ヶ岳というよりも山上ヶ岳からのどちらからにしてもロングコースとなり、それなりの身支度が必要だ。これから先はそんな感じの登山者ばかりとなる。
 
         
              朝靄の中を出発                      八経ヶ岳山頂

※大峯山(おおみねさん)は奈良県の中央にある山。深田久弥日本百名山やそれを元にした各種一覧表では、大峰山(1915m)とあるが、これは大峯山脈中にある近畿最高峰の「八経ヶ岳」の高さであり、一般的に単に「大峯山」言えば山上ヶ岳(1719m)を指す。深田久弥は山上ヶ岳と八経ヶ岳の2峰を登山しており総称して「大峰山」と紹介している。全国に数多く存在する大峰山の由来の山といってよい。この一帯は1936年吉野熊野国立公園に指定され、さらに2004年7月ユネスコ世界遺産に『紀伊山地の霊場と参詣道』の文化的景観を示す主要な構成要素として史跡「大峯山寺」史跡「大峯奥駈道」が登録された。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

明星ヶ岳(1,894m)は山頂直下を捲き、手頃なところで大休止し、草餅でエネルギーを補給。渡部さんがストックワンセットを八経ヶ岳山頂に忘れたことに気づくがどうしようもない。ここら辺りから霧の合間に時折晴れ間がのぞき始め「これから天気になるでー」と佐藤さん。‘大峯奥駆け道の案内人’としての責任と期待・安堵が込められた言とみた。

船ノ峠8時46分、楊枝ノ森8時57分通過。佐藤さんによると船ノ峠は船底型の窪地に由来するもの、楊枝ノ森は霊が集合する場所だとか・・・、「気をつけないと取り憑かれますよ」と。

 ところで、先程来、もっぱら案内人・佐藤さんの言ばかりを紹介したかっこうになっているが、実際今山行では他のメンバーは概して寡黙で、案内人・佐藤さんの名ガイドにもっぱら聞き入るという図式に終始している。従って僕の登山メモをみても、記憶の糸を辿っても、他のメンバーの言動に特筆すべきものがほとんどない。何か紹介してあげねばと思いながらも材料がほとんどない。裏返せば、それほど今山行での佐藤さんの存在感の大きさ故ということであろうか。

 さて、本題に戻す。・・・ここら辺りの稜線からは七面山の、高距数百メートルにも及ぶ大岩壁が圧巻である。岩壁に対峙する場所に遙拝所がある。修験道の山らしく山中の要所には遙拝所があり朽ちかけたものから真新しいものまで卒塔婆が数多く、頃合いの木に寄り掛けられている。確かに何となく辺り一面に霊が漂っているような一種独特な雰囲気がある。佐藤さんは合掌しながら「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、・・・」と般若心経を唱える。ごく自然な振る舞いでこの山に深く傾倒していることが窺い知れる。

          
          遙拝所で般若心経を唱える                      七面山の岩壁

 9時25分、遙拝所から少し上がったところ、七面山の岩壁が最も迫力ある姿で眺められる台地で今日2回目の大休止。パンとジャム、マーガリンでエネルギーを補給し、気がつけば霧はどこかにすっかり散ってしまっている。気分がいいのか加藤さんはザックの中からハーモニカを取りだし埴生の宿など演奏。しかし、ゆっくりもしていられない。まだ今日の全行程のやっと三分の一なのだ。

七面山の遙拝所から仏生ヶ岳を捲き気味に登ってなだらかな稜線に出るとすぐに展望所・孔雀の覗き。眼下に五百羅漢と呼ばれる節理状の巨岩が林立している。ここから釈迦岳(1,799.6m)までは110分とある。指呼の間のようで意外に離れている。「ここからが大峯奥駆けの佳境!」と、やや疲労気味の我々に檄を飛ばすように山頂直下の急峻な斜面を指さすのは、もちろん佐藤さん。

                   
            孔雀の覗きで佐藤さんの指さす眼下には五百羅漢と呼ばれる節理状の巨岩が林立

 釈迦ヶ岳の急峻な登りに入る直前、岩場の鞍部を通過するところで「ここが‘両部分け’、ここまでが胎蔵界、これから先は金剛界、ここはその境界に当たる場所です」との解説に一同「ふ〜む」と頷きながらも、そのことよりも本日の行程で実質的に最後にして最も急峻な、目の前の登りの方が気になる様子。歩き始めてそろそろ6時間になろうとし、疲労も溜まってきた。今回のメンバーのうち3名が還暦を超え、残り2名は五十歳代である。還暦とはいえ、皆さん仕事はともかく山は現役バリバリである。釈迦ヶ岳の最後の急登をどんどん登っていく。

 佐藤さんのほか加藤会長、渡部さんの還暦組が先に‘若手’が追随する形で12時20分釈迦ヶ岳(1,796m)山頂着。まずは佐藤さんが昨日から担ぎ通した缶ビールで乾杯。すっきり晴れ上がった山頂からは360度のパノラマが展開する。

           
             北奥駆け南半分の核心部を振り返る・・・最奥が弥山、右手前が仏生ヶ岳

通常、奥駆けと一般に称するのは‘北奥駆け’のことで、女人禁制の山上ヶ岳から南下するのがオーソドックス。今日のコースは山上ヶ岳など北奥駆けの前半部分を割愛した南半分の核心部ということになる。少々解説がくどくなったが、今朝方歩いて来た山並みとさらにその向こうに山上ヶ岳、大普賢岳、行者還岳など奥駆け道の北半分の核心部が一望され、圧巻である。

 中高年層主体の老若男女が思い思いに弁当を広げる山頂で佐藤さんは誰彼となく様々な疑問に応えたり解説したり、知り合いに声をかけたりしている。こちらも山小屋でこしらえてもらった弁当を広げる。少し固めのご飯の上にたくあんと佃煮を少々のせた質素なもので、冷え切っていることもあり加藤さんと僕は少々持て余したが他の三人はきれいに平らげていた。

 釈迦ヶ岳からはいくつかのピークを越えたりまいたりしながら全体としては次第に高度を落とす。13時47分深仙ノ宿、ここら辺りが「大峯奥駆けの大中心地」。修行僧の宿坊があり、近くの岩場に断食の修行場もあると聞く。ここでも法螺貝が聞こえてくる。

               
                       釈迦ヶ岳から南奥駆け方面

 辺り一面バイケイソウが顔を出している。この山域はシカが多いらしく、バイケイソウは花が咲き始めると花托部がシカの餌になるため開花期にあの白い大きめの花は意外と拝めないらしい。
 
 付近の大日岳は遠目にも露岩の急峻なスラブがひときわ目に付く。最近は転落者が多いことからこのピークへの登山は控えられているようだ。ここで68歳の渡部さんが是非登りたいと言い出す。そうであれば誰かサポートをしなくちゃあと顔を見合わせている間に、渡部さんは一人で登り始めた。

この岩場の核心部は最上部山頂直下であり手がかり足がかりのない10mほどの急な一枚岩に鎖が1本垂らしてあるだけ。結構腕力が要りそうだが、渡部さんは「懺悔懺悔六根清浄」を繰り返しながらためらいもなく登っていく。カメラを構える間もなくガスの中に消えていった。続いて私、先蹤者・渡部さんの68歳とは思えない身のこなしに感心しながら、ちょっぴり緊張しながら通過。案内人として我々の無事を見届けた佐藤さんが最後に手こずりながらちょっと真顔で上がってきた。

やっとこさで這い上がった山頂には役行者の実母の像が祀られている。案内人・佐藤さんはここでも軽く手を合わせ読経したあと、大日岳での、この難行苦行に挑戦した、はるばる九州からの我々2名に敬意を表して「フレーフレーおゆぴにすと渡部、フレーフレーおゆぴにすと狭間」と大峯の山域に響き渡るように声高らかにエールを送ってくれた。

 15時17分太古の辻。ここから先は南奥駆け道となる。前述したように、通常、奥駆けとは熊野から山上ヶ岳、八経ヶ岳、釈迦ヶ岳を経由してここから前鬼に下るのが一般的。大峯を志す者ならば、先ず辿るべきコースではあるが、奥駆け道はさらに南へ奥深く長い。太古ノ辻以南、笠捨山〜玉置山を経て熊野本宮に至る主稜は、以前は踏む人もまれで、ひどい藪に覆われていたらしいが、十津川村や地元山岳会、とりわけ、佐藤さんも関わりのある‘新宮山彦ぐるーぷ’のご努力により再び拓かれ、復活したと聞いた。案内人・佐藤さんは一昨年の5月、奥駆け道を北から南に既に踏破しているが、我々との山行を終えたのち、今度は熊野から吉野へ単独で奥駆け道を北上する一大決心を打ち明けてくれた。

              
                     奥駆け道南北の起点・太古ノ辻にて

 ここまで来れば、本日の計画の大半は終えたようなもの。役行者の御利益もあって好天に恵まれ、前鬼までは、最初急峻な下り、もちろん要所要所にはロープや木の階段など設え整備された登山道を左手に時おり、孔雀の覗きから見下ろした五百羅漢を仰ぎながら1時間ほど慎重に下り、後は沢添いの緩やかな道を40分ほどで17時少し前に前鬼の宿坊・小仲坊に到着して10時間余りのロングコースを無事終えることができた。

大型連休の真っ直中、奥駆け道の拠点でもあることから、宿泊者も多く昨日のように個室というわけにはいかなかったものの、有り難いことにお風呂にも恵まれ、ロングコースの疲れを充分癒すことができた。

(コースタイム)
5月4日 弥山小屋6:15→八経ヶ岳6:40→舟ノ峠8:46→楊子ノ宿9:40→仏生ヶ岳側面10:19→釈迦ヶ岳12:20→深仙ノ宿13:47→太古ノ辻15:17→前鬼・小仲坊16:59

あとがき
 この山行の予習をあまりしていないことの釈明として気の利いたことを冒頭にいろいろ書いた。大峯山の印象は、ひと言で言えば大変に奥深いところということ。修験道の山としては、僕の思い入れの深い石鎚山も役行者の開山によると言い伝えられ、その意味でも、また、深山幽谷の景観に共通するものがある。しかし、石鎚山が観光地化され、やや俗化した感があるのに比べて、大峯は山深さの故に、修験道の山としていにしえの良きものを今に余すところなく伝えている。そこが大峯の良さであろう。

 ところで、大峰山と大峯山の使い分けがよく分からないがこの紀行では、ガイド役の佐藤さんからいただいた「大峯山 奥駆道;縦走の記録(実録・出会い・感想)平成16年5月2〜8日」に倣って大峯山を用いた。いずれが正しいということではなく、いろいろな場面で使い分けられ、それぞれにそれなりの理由があるようだ。

 今回加藤さんに誘われるがままにこの山行に参加したのは、あまりこだわりたくないとはいえ、大峯山が日本百名山の一つであり、しかもそうそう簡単に単独では踏み入る機会のないこの山域への渡りに舟的な‘打算’からというのも事実。不勉強なまま参加して、山行後にあらためて分かったことは、大峯山は少なくとも山上ヶ岳に登ってこそ、いやもっと言えば奥駆け道を通してこそ‘なんぼのもの’であるということ。

例えて言えば、日本百名山・九重山を登る場合、九重と久住とくじゅうの謂われなどにも関心を持ち、そのことを承知の上で久住山にも大船山にも登ってこそ‘なんぼのもの’ぞということと似ている。その意味で今回僕の大峯行が1回きりで終わるのであれば、九重を最高峰の中岳だけで手っ取り早く済ませ百名山を‘消化’するような愚に似ている。山は心を後に残す方がいいに決まっている。この次のこの山は北からにしても南からにしても、奥駆け道を通すことにチャレンジしてみたい。その時初めて日本百名山の一つとしてカウントすることにしよう。

 最後にこれだけは。今回の案内人の佐藤さんは「大峯に命を賭けてます!」と言い切るほどの御仁で、自分自身が大峯山に厳しい試練場として身を投じることにはもちろんのこと、大峯の山の奥深さ、古来からいかに人々と関わってきたか等々について登山の初心者からベテランを問わず人々に普く理解してもらうこと、そのことに限りない喜びを感じる・・・こういう人が、というかこういう登山人生があるのだなあ、と僕は素直に敬服する。その佐藤さんは、我々の山行を案内した後、太古ノ辻で予言したとおり、熊野から吉野まで奥駆け道を南から北に8泊9日を要して、見事、所期の目的を完遂したとのメールをいただいた。さらにその後、奥駆け道の宿坊(おそらく行仙宿山小屋か)に常駐し、奥駆け道の登山道、登山者のお世話をしているとうかがった。まさに「病膏肓に入る」とはこのことか。いっそうのご奮闘とご健康をお祈りして、今回の紀行をもってこの山行の案内のお礼に返させていただきたい。

参考 佐藤さんからのメール
「大峯」:お礼5/16 「・・・(前略)・・・それにしても、好天に恵まれた4日間、本当に幸運だったと思わざるを得ません。私の長い「山籠生活」の中でも、これ程の好天続きは初めてのことだったのではないかと思っています。「大台ヶ原」から熊野灘・尾鷲湾までは、直線距離でせいぜい10数kmなのですが、それでもあの辺りはガス・雲が発生しやすく、くっきりと海が見えることはまれです。やはり皆様の日頃の精進に対する<役行者の御加護>があったのだと思います;《六根清浄》。余談ですが、今年はあの連休中に「大峯」に入った人の数が、昨年の優に倍にはなった模様です。「世界遺産」指定で知名度が上がった所為だろうと思います。「新宮山彦ぐるーぷ」の建てた山小屋も連日満杯。「行仙宿山小屋」では、4日・5日は40人を超す各地からの登山者で、一部あぶれた人もあったと聞きました。それにつれて、事故も多発。私共と同じく3日頃「大峯」に入った、愛知県安城市の女性登山者は、未だに不明。一昨日、私は26日からの大峯縦走に備え「行仙小屋」へ行きましたが、途中寄った川上村の駐在さんの話では、その前日=23日に「弥山」〜「前鬼」縦走中の神奈川県からの10数名のパーティーの一人が、「釈迦ヶ岳」近くの鎖・岩場で100m滑落、助けに向った一人も続いて滑落という事でした。昨日のNHKのテレビニュースは、「釈迦ヶ岳」付近を飛ぶヘリからの風景を写しながら「…150m滑落した千葉県○○さんの遺体を発見」と報じていました。当日は多分雨だったと思いますが、「大峯奥駈道」はやはり<超危険と背中合わせ>なのだと、改めて感じた次第です。一昨年の京都「聖護院」の140年振りの<大峯全山奥駈=170km>でも大事故がおきています。我々の「山行」も慎重の上にも慎重であらねばと考えること頻りです。何れにしましても、我々の《大峯・大台ヶ原》は、これからも末永く心に残る素晴しい「山行」だった事は間違い有りません。有難う御座いました。皆様にも宜しくお伝え下さい。本来ならば書信にてお礼の書状を認めるべき所、取敢えずメールにてお礼申し上げます。乞御寛恕。合掌 佐藤  皆様へ」

報告;「大峯奥駆」無事生還6/4 《予告しておりました「大峯奥駈」;昨日無事帰ってまいりました。今般は、5月26日の朝大阪・天王寺発、那智に向いました。既報の如く「熊野古道・雲取越え」と「大峯全山奥駈」に挑戦する為です。この日、PM1:23に那智駅に到着、まず「補陀洛山寺」を訪ね、即「那智大社」に向って歩き始めました。以来、「雲取」・「大峯」の峰々を越えること8泊9日:140kmを越える難行苦行の山旅でした。幸い、2日目(27日)を除き好天に恵まれ、予定より一日早く、昨日(3日)の正午に吉野の「櫻本坊」に辿り着くことが出来ました。多くの方々の声援に感謝しております。有難う御座いました。なお、今回の奥駈に関しましては、<「櫻本坊の南奥駈」の参考にしたいので、各地区間の所要時間等の行程を含む手記に纏めるよう>に院主に要請されてもおりますので、近々に一文に纏める積りです。※ 急なことですが、この17日(金)に、甥の結婚披露宴に出席する為に帰分することになりました。その折、お会い出来る方には《奥駈四方山話》が出来ると思います。以上、「補陀洛浄土」から「金峯山浄土」への旅の報告です。 合掌 佐藤 》  

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