ヒマラヤトレッキング(還暦記念登山)報告
(前編)

加藤英彦
(2001年12月28日〜2002年1月4日)





カトマンズ空港で待機中のツインオーター機
     
 正月休みを利用して初めてネパールトレッキングに参加しました。それというのも、丁度2002年1月1日が私の誕生日であり60歳(還暦)を迎えるということで、その記念に一人ヒマラヤ観光ツアーに申し込んで参加しました。
 以前からネパールには一度行ってみたいという気持ちはあったが仕事の関係とかでなかなかふんぎりがつかなかった。しかし今回は還暦という人生の一つの大きな節目となるときであるし、自分自身の記念行事として一人でも参加したいと思い決断しました。
 
 さて、暮れの12月27日の午後(15:30)、世間は正月を間近にしてあわただしいなか、大阪行きの列車に飛び乗っていました。大阪の友人・松田君の家に一泊し28日早朝の便で関西空港へ。集合時間の7時に遅れること9分で指定された国際便の旅客カウンターへ。出国のための諸手続を終え出発便の待合室で一人ぽつんと出発を待つ。みまわすとまわりは皆トレッキングスタイルである。JALのチャーター便は270余名の日本人を乗せノンストップで一路カトマンズへ。丁度隣に乗り合わせた京都からの中村氏も一人で申し込んで参加したということで、その後の全行程で共に行動することとなった。
 約9時間にもおよぶフライトの中で偶然にも重広恒夫氏にお会いした。氏もアンナプルナ方面のトレッキングのリーダーとして10数名のトレッカーを引き連れての参加であったと聞く。12月8、9日と黒岳でご一緒した時にネパール行の話をしておけばよかったのにと思ったことである。
 好天につきネパールに近づくと右手には雪をまとったヒマラヤの山々がみえてきた。いよいよ来たな、という雰囲気だ。
 さて、カトマンズ空港へは定刻やや遅れて到着(14:00)。入国の手続きを終え空港を出ると、そこには現地でのガイドが待っていた。早速荷物をうけとりマイクロバスにてヒマラヤホテルへ直行。テロ対策や正月明けの南アジア7カ国首脳会議の警戒か、空港周辺には軍隊の姿も見受けられ、厳重な空気が感じられた。ホテル着(4:05)。明日の予定のミーティングがあり4016号室に落ち着く。
 
 12月29日 朝のカトマンズは濃い霧に包まれていた。この季節めずらしいことではないという。7時出発なので5時のモーニングコールで起床。すぐに朝食を済ませて6時ホテル発。国内線のやや厳しいチェックを受けルクラ行きの一番機を待つことにする。案の定霧のため待合室ロビーはトレッカーでいっぱいだ。ここでもまたポカラへ行く飛行機を待っている重広氏とロビーにて会うことになる。
 さて、待つこと2時間、やっと晴れてくる。ルクラ行き一便に乗るためバスにて飛行機のそばへ。みると16人乗りのツインオーター機が2機待機している。タイヤはつるつるにすり減ったものだ。その前に来てまた待たされる。小銃を持った軍隊が警戒のためかうろうろしている。軍の飛行場も兼ねているので厳しいのだろう。さて、やっと飛行機に乗り込めという指示だ。耳に詰める綿花とあめが配られる。それでも離陸の許可がでないのか、シートベルトをつけた状態でまた待つはめになる。そして30分後、やっと国内便としては一番目にフライトの許可が出てトリブヴァン空港を飛び立った(10:36)。

乗ってきた飛行機と後方はコンデリ峰(6187m)
 目の前のコックピットは開いたまま、2名の操縦士だ。やがて水平飛行に移ったところ眼下にはネパールののどかな田園風景が、そして遠方には白く輝くヒマラヤの山々が見えてくる。ルクラまでの約40分のフライト、肝を冷やしながらも約400mの長さの、崖っぷちにある滑走路に無事到着(11:07)。昨年やっと舗装されたものだという。やや傾斜をつけた山の斜面をうまく利用した滑走路だ。ここまで陸路を歩けばカトマンズより6日もかかると聞く。我々に続いて2番機、3番機と到着。そしてエプロンも3機がやっと翼がすれすれな状態の狭いところだ。そしてすぐに待っている人を乗せカトマンズへとんぼ返りしていく。空港のトイレはやっと一つ、それでも水洗だったが全員25名が終えるのに30分もかかってしまった。 

マニ石(ガート)の前で


コンデリ峰とタルチョ(祈祷旗)
 さて、早速一軒のロッジで昼食となる(11:50)。カトマンズの日本食レストランで手配したおにぎりの昼食だ。ツアーガイドがずーっと持ってきたやつだ。昼食の間、外の広場ではこれからの荷物をポーターとゾッキョ5頭に乗せるための作業が行われている。準備がととのいいよいよトレッキング開始である(12:40)。ルクラの小さな家並みをぬけ少し下りにかかる。道は乾燥のためかほこりっぽい。牛の糞もあちこちに、決して美しいとは思えないが、皆それでも慣れっこになっているのだろう。ペースはゆったりとしたものと、やっと隊のメンバー12名もわかってきたが、皆それぞれツアーに申し込んだ人で、どのくらいの体力・経験・年齢かとかは定かでない。

 それでもペース自体ゆっくりしたものだ。ツアーリーダーである若手のO氏も皆の様子を振り返り観察しながら全体を掌握しつつペースをつくっているようだ。すれ違う牛やポーター、現地人追い越していく者もあり、日本の山で言う「こんにちは」を現地語で‘ナマステ’と挨拶してすれちがって行く。トレッキングとはこういう風に歩いていくものだと感覚的に理解していく。さて、本日の行程はパクディンという部落まで、途中チュプリン、ガートを過ぎ、夕刻になって大きな吊り橋を渡ってそのすぐ右側の広場に早速テントを張ることにする(4:25)。12人のために全部で8つのテントを張る。そしてトイレ用に男女別にもう2つ張る。夕食は専門のキッチンボーイ2名、それにサブ2名でつくる。隊のシェルパはサーダ(長)1名、2名が若手のサブのシェルパ、ゾッキョ5頭にヤクドライバー1名、ポーター2名総勢11名のメンバーだ。

 夕食は広場の持ち主のロッジの食堂とおぼしきところを借りて食べる。食後改めて12名の自己紹介があり、どこから来たメンバーか今までの山経験などを一人一人が語って皆の様子がより分かった次第である。
 この時にツアーリーダーの萩尾氏より高山病対策のため毎食後パルスオキシメーターで動脈血酸素飽和度を測るように、そして朝夕の食後に利尿剤のダイアモックスを1/2錠ずつ飲むこと、そして健康チェックとしてその血中酸素の数値を毎日記録しておくようにと用紙が配られた。トレッキングする人の高山病対策のためのチェックであり、行き届いた配慮でもある。そして、水分を充分にとること、アルコールは飲まないようにとも指示があった。苦しい思いをする高山病にかからないようにアルコールは控えろとのことである。
 その夜は利尿剤を飲んだせいか2回もトイレに起きた。多い人は6回と言っていた。しかし、トイレに起きたとき冷え冷えとした満点の空に十四夜の月がとてもきれいに見えた。夜2回目にトイレに行ったときテントのトレイをあけたら先客があったので広場の隅の現地人用のトレイを利用した。その脇には5頭のゾッキョが静かに寄り添うように寝入っていたのが印象的であった。夜、湯たんぽは良かったのだが、寝袋のチャックが引っかかって半分しか閉まらず寒い思いをした。

タムセルク峰(6623m、ベンカールより)
 12月30日 今日の行程は1日約6時間とある。朝、6時起床。テントの外で「時間ですよ」と起こしかかるシェルパの声で目が覚める。「サーブ.ティー」といったところだ。広場の中央には沸かしたお湯が用意されており顔を洗い歯磨きをする。朝食後ツアーリーダーの指導のもと出発前ストレッチ体操、深呼吸と続く。7:50出発。 
 弱い人を先にということで女性達を列の先頭へ、しかし夫婦の組が4組もありそれぞれがやはりペアとなっての行動となる。それでもペースはゆったりであり、遅れる人もなくスムースな行動である。
 ベンカルを過ぎ9:30タムセルクが眼前に白い雪をまとって強烈に現れる。左側コンデリ山群の崖の上からの滝のあるところを過ぎて休憩所がある。日本人流に言えば「滝見茶屋」か。地図をながめて道の確認をする。もうすぐ吊り橋がある。

モンジョでの昼食
 昼食はモンジョの部落だ(10:30)。先行していたキッチンボーイ達の用意したイス・テーブルで広場の中央での昼食となる(インスタントラーメンとサラダ)。このころよりもう一方のB班の行動が遅れ気味なのがわかる。聞けば一人が下痢症状で遅れているとのこと。我々の班は皆順調なペースでスムースな動きでリーダーも楽なようだ。モンジョを発ち(11:55)、サガルマール国立公園入り口のゲート(12:15)。入園料1,000ルピーもツアーの代金の中だ。すぐに下って又大きな吊り橋にかかる。ロープはワイヤーでかなりしっかりと作られているが、結構長いので渡っている間にゆれる。バランスをとりながら、しかしこわいという雰囲気ではない。

ウード・コシ川に懸かる吊り橋(谷まで100mはありそう)
 ウード・コシ川にかかる吊り橋は高度差100m以上(12:45)。以前とは違った左岸のルートをとるよう橋がかけらているようだ(地図からして)。そしてそれからが本日のハイライト、高度差600mの登りとなる。ゆっくりゆっくりと登る。20分くらい登っては立ったまま深呼吸で息をととのえて又歩く。その繰り返しで急登を登っていく。ペースはビスタリビスタリだが高度のため、そして何よりヒマラヤ山中であるとの意識のためか、国内での北アルプスあたりのペースとは違った感覚である。

シェルパの里・ナムチェバザール
 それでもペースを守ってやがてナムチェ・バザール入り口の茶屋が見えてくる(3:35)。大きな集落だ。名にしおうシェルパの里である。入り口からほど近いところが本日の宿泊地だ(4:10)。例によってテントを張り終えるのを待つ。ロッジの食堂で待っている間、日本人が突然現れる。直感で宮原氏とわかる。ホテル・エベレストビューを建設した人であり、このツアーのH観光の社長でもある。B隊に一人遅れた人が出、B隊のリーダーのM嬢がその人についてモンジョにとどまったため、明日のB隊の引率のためホテルより下りてきたという。早速、私は10月に藤原さんの亡くなったや西さん達のことも話して、宮原社長もそういう関係かと納得する。
 実は明日この隊のスケジュールはナムチェに連泊する予定だったがエベレストビューホテルのお客が4人しかいないので「皆様方、一日早くホテルへどうぞ」といううまい話ももってみえたのだ。早速、食事の間全員にこのことを知らせ一日早くホテルへ入る行程をとることに決定する。そのためポーターやキッチンボーイ等は今日までということで食事のあと全員に労をねぎらってチップを渡すというセレモニーを行った。それぞれの階級に応じてチップも違うのでリーダーが現金を揃えるのに苦労していた。それと、現在は不穏分子のためこのナムチェにも軍隊が警戒している。今晩はトイレに行くときも懐中電灯をつけないで行くようにとの指示があった。
 その晩は十五夜の満月が煌々と輝き、底冷えのする夜もしんしんと更けていた。結局トイレには2回起きたがテントの前で静かにコトを済ませた。

 エベレスト遠望
 12月31日 2001年の最後の日である。今日の行程はビューホテルまで半日行程である。例によっての朝の一連の作業を済ませて8時出発。ナムチェバザールの集落の中の道を一歩一歩確実に登っていく。予定では村はずれの丘にある博物館に寄ることにしていたが、その前に軍隊が駐留しているので見学できないとのことで、パスとなる。
 やがてナムチェバザールの急登も終わり(8:40) シャンポチェ飛行場の端をかすめて行く手に新しい建物が見えてきた。看板にパノラマホテルとある。そのホテルの外側を右から回っていったとき、ついに見えたのだ(10:15)。真正面に雪煙上がるエベレストが、このめで見えたのだ。まさに感動の一瞬であった。快晴のもと約20km先にあるあの、写真でよく見ていたエベレストが忽然と姿を現したのだが、ローツェの尾根越しに、そして右手には独特な姿のアマダブラムを従えているではないか。まさにあの、写真そのものの姿である。これを見るために来たんだ。天候は快晴である。空はあくまで青い。感激で言葉も出ないとはこのことだろうか・・・・。

トレッキングのメンバー
   しばしの間眺めて次ぎにカメラを取り出した。皆がエベレストをねらって撮りまくっている。広角にして、望遠にして、そして次々と山を変えて、次にエベレストの前に立って記念撮影としゃれ込む。何と天気の良いことか、シャンボチェの丘の上からみるエベレストよ。今日の行程はビューホテルまでだ。すぐその丘の上の林間にホテルの屋根とおぼしきものが確認できる。あそこまで登ればよいのだ。楽なもんだ。三々五々、好きなペースでホテルへ向かっている。やがてホテル玄関前の階段に着いた(11:00)。ここで全員揃うのを待って記念撮影だ。一行全員のカメラが揃ったところでシェルパの若手が一つ一つシャッターを切る役目だ。そしてやっとホテルへ入る。部屋は10号室3人部屋となり、中村さん、岩手よりのHさんと同室ということになる。(つづく)
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