ヒマラヤトレッキング(還暦記念登山)報告
(後編)
加藤英彦
(2001年12月28日〜2002年1月4日)

 2001年最後の夕焼け









 早速の昼食(12:10)はホテルの評判の日本食・親子丼が出される。カラパタールまでの長いトレッキングの帰りにビューホテルで食った親子丼の味は格別であったと聞いていたその親子丼だ。やはり日本食は美味い。それから夕方までの時間は何をするとはなくホテルの中をうろうろしながらエベレストを眺め、エベレストと対話しながら過ごす時間となった。そしてまたクライマックスは、2001年この年の最後の夕刻に訪れたのだ。それは夕焼けというよりも暮れゆく太陽の光が刻々と変化することで、エベレストの姿がすばらしく変わっていった。まさに一大ページェントを目の当たりにして、自然のすばらしさに驚嘆するのみであった。ホテルの人もこんなすばらしい夕焼けは、年に20日もないのでは云うほどで、その幸運が2001年の大晦日に現れ、これに行き合わせた幸せは何ものにも替え難い体験となった。午後5時25分 エベレストの頂から残照が消えた。







ラマ僧による年越しのセレモニー




 年越しのホテルの食事がまたすばらしいものだった。こんなヒマラヤの山中で大晦日の夜に年越しソバまで出て、和食のフルコースを食べようとは。そして辺りが闇に包まれたころ今度はちょうどアマダムラムの頂上左手より十六夜の月が静かに上っていった。山頂の右手にはその月明かりに照らされた雲が幻想的に浮かんでいるのが見えた。そして粋な計らいか、年越しのセレモニーをするラマ僧4人が待機している間、すなわち日本時間の0時、現地時間の午後8時45分になるまでの間、食堂の中で焚き火をあたりながら、ぜいたくにも宮原社長のアコーディオンを聞く時間となった。本人はまだ練習中とことわっての演奏であったが、静かな大晦日の夜にしみ渡るその音色は格別である。そして何と数曲めに社長が演奏しはじめたのが「坊ケつる讃歌」のメロディーであった。即座に私は一人声を上げて「人みな花に・・・」と歌いだしたのだ。二十数名いた中で唯一人、アコーディオンに合わせて得意の歌を披露できた最高のひとときとなったのである。待つことしばしで8時45分となり待機していた4人のラマ僧による年越しの音楽は静かに、又荘厳のうちに大晦日の夜に響いていったのである。予定どおり下のナムチェバザールにもう一泊していたならこの光景にも巡り合うこともなかったのだ。何というラッキーなことだ、ついているの一言だった。



2002年初日の出のあたるエベレスト
1月1日
 明けて新年元旦であり、60才の誕生日となったこの節目の朝、目が覚めるとホテルの曇ったガラスの向こうには雪煙の上がるエベレストが見えるではないか。二年越しの幸運とはこのことであろうが、ホテルの屋上テラスに出てみると西の空にはまさにその上部だけ初日があたって雪山の上に昨夜のいざよいの月がまだ残ったままである。これもまたシャッターチャンスである。すぐに写真機の放列となる。エベレストの斜面にも東からの初日があたっている。昨夜の夕焼けとはまた違った色だ。初日の出を待つことしばし、ホテルのある丘は周囲を高い山で囲まれているので、すぐに初日があたるといった状況ではない。だんだん西側の山に当たっている陽の範囲が下へ下へと降りてくるのが分かり、ついに8時22分、タムセルクの右側の方から一条の光が差し込んで、初日の出となる。


元旦のホテルの朝食

 会う人ごとに「御目出度う」の挨拶を交わす。さて朝食はまた贅沢にも角切りの餅が入った雑煮が出された。あぁこれまた思いもよらず美味な食事となったのだ。本日の行動は近くのクムジュン部落までの散策とのこと。弁当持参でA、B両隊でのんびりと下っていく(9時30分発)。途中ホテルへ水を運ぶおばちゃんたちに出会う。





1960年建設のクムジュンの学校
 クムジュンにはヒラリーの提案で建設された学校があると聞いていたが、今日は元旦なので学校は休みだった(10時)。しかしゆっくりとその校庭はみることがてきた。しばらくの後、ゴンパ(寺)へと廻って行った(11時)。その寺へ入るのに20ルピーの拝観料を払い、中へ入った。左手には例によって大きなマニ車があり、奥の院に入ると正面にはチベット仏教の派手な色の仏像が数体、そして何といってもここの目玉はイエティ(雪男)の頭髪の部分が保管されていることだ。寺の守り番であるおばあさんがおもむろに開けた扉の中にガラス越しに大事に保管された頭髪の一部が見えた。こういうのは本物かあるいはまがい物かはともかく、そうだ!と云えば本当に雪男の頭だと信用して見るしかない。貴重な物を見せてもらったことだけで十分だ。ゴンパの後は近くのロッジで昼食(11時30分)。


アマダブラムをバックに全員記念撮影

 ホテルから持参のおにぎりを出されたスープで食べる。そしてそこを出て100mを行かないベーカリーで今度はお茶の時間である(12時30分)。「世界一高いところにあるベーカリー」という看板が出ていたので、パンを頼むも今日はないとのこと。仕方ないので日本から持参のパンの缶詰を食って、紅茶だけの注文となる。そしてその店に備え付けの落書き帳に「日本から来て今日が還暦にむあたる60才の誕生日」だと記入した。ちょうど英国人のトレッカーが3人入ってきて私の記述を見て、「おめでとう」と手を差し伸べてきた。分かったのだろう...。
 さてお茶の後はまたのんびりとホテルまで坂道を登って帰った。途中アマダムラムの見える絶好のポイントで25人全員揃っての記念撮影となった。


誕生祝いのケーキに入刀

 ホテルに帰り着いた(14時20分)後は自由時間だ。ハーモニカを奏でようと目論んでいたので、屋上のサンルームに上がり、陽に当たりながら吹くハーモニカの音色はまた格別だった。一曲毎に周りにいる人たちからの拍手が気持よかった。ならばここで一句、「還暦のエベレストへ 響けハーモニカ」といきたい。 このように時の経つのもあっという間だったが、ここで終演として中村氏とひさしぶりにビールで乾杯、喉を潤した。
 そして夕食後はテーブルにケーキが出された。なんとそれには Happy BirthDay Mr.Nakamura & Mr.Kato とのメッセージが添えられているではないか。たまたま同行の中村氏も今日が誕生日だったので、二人でローソクを消し、感激の挨拶と相成った。粋な計らいのH観光に感謝感激である。そしてその夜もロビーの暖炉では、宮原氏のアコーディオンに私のハーモニカの共演で楽しい時を過ごしたのである。何とハッピーな誕生日であったことか


エベレストをバックに

1月2日

 いよいよ下山の日である。今日もまた快晴のエベレストが目の前にあった。2泊したホテルを出る朝、カトマンズからのヘリコプターの到着時刻に合わせてホテルを出発するとのこと。その前にチベットの風習でカタという相手を祝福する意味を込めて贈る白いショールを一人ひとり首からかけてもらった(8時30分)。全員が輪になり、その答礼の意味で「加藤さん三本シメ」の声がかかり、私が音頭をとり三本シメの拍手で別れの挨拶とした。8時40発。そしてのんびりとシャンボチェの飛行場まで下って行った。途中、写真の絶好のポイントでゆっくりと撮影し、だんだんとエベレストが遠ざかっていく。そしてそこを右に曲がればエベレストが見えなくなるというポイントに来た。そうしたら自然と大声で歌が出てきた。「エベレストよ!さよなら ごきげんよろしゅう また来る時には笑っておくれ」と。一大シンフォニーの終曲だ。この歌をうたい終えた時に本当にエベレストは見えなくなっていたのだ(9時10分)。


藤原さんを荼毘に付した大岩の前で

 あとはだらだらと下って飛行場へは9時28分着。そしてヘリを待つ間、宮原社長も下山のため追いついて来て「加藤さん、ちょっと」と手招きをする。付いていくと2.3分行った奥に大きな岩陰があった。そしてその下が黒く焦げたようになっている。すぐに分かった。ここが11月3日、ロブチェで亡くなった藤原さんを荼毘にふした場所だということが....。同じ大分県からエベレストを見にトレッキングに出かけた杵築の藤原良則さん(69才)が10月30日高山病で4920mのロブチェで亡くなったのだ。思わず合掌して冥福を祈った次第である。ヘリを待つ時間がまだあったので、脇にある大石に登ってみた。そしたら何と先程別れを告げたばかりのエベレストの頂上部分が見えたのだ。そこでまた別れの歌を思いつくままに数曲大声で唄ったのだ。3日間歩いたルートを初めて乗ったヘリから眺める。7分間の空中散歩でルクラの空港へ無事到着(11時8分発 11時15分着)。


下山のヘリコプターから見下ろしたモンジョの吊り橋

 ルクラ〜カトマンズ間は例のツインオッター機だ(12時25分発 12時55分着)。ホテルヒマラヤへ直行してすぐにシャワーを浴び、5日間の汚れを落としたのだ。それにしても乾燥しているせいか、たいした汗もかかないし、日本のそれとはかなり違った感覚であった。
 夕食はフリーだったので市内観光から帰った中村氏、B隊の3人(東京の親子連れ)と一緒に(ガイド付き)、サイノというレストランでチベット料理(一人750ルピー、ビール200ルピー)を食った。帰路、偶然宮原社長と会い社長の車に7人乗って帰宿。


バクタブル ニャタポラ寺院の五重塔と石像
1月3日
 本日はパタン市内観光とする。午前中徒歩にて地図をたよりにパタンのダルバール広場へ。偶然日本で勉強したという歯科医に会う。案内したいところだが時間がない、また明日と言って別れる。ダルパールでは博物館などを見て帰っていたら、先程の歯科医にまた会った。昼食は日本食レストラン「いな本」へ。ビールと湯豆腐が美味かった。午後は2時からバクタブル観光へ出かける。カトマンズ郊外の古い王宮の跡。物売りの攻勢が激しい。しかし55窓の王宮とか五重の塔、像などが見事だ。夜、ヤク&イエティーにてツアー主催の夕食会はネパールダンスの観賞付き。あまりダンスそのものは面白くなかったが、最後にレッサンピリリーが出て客席から何人かの飛び入り。私も登山靴のまま舞台に上がって楽しい踊りのひとときとなった。








パシャパティナート 火葬場の風景

1月4日

 昨日の歯科医・カルナ氏が約束どおりホテルへ現れる(8時45分)。今日のホテル出発は午後1時なので午前中市内観光の案内をしてもらう。手持ちのルピーがほとんどなくなっていたので3000円チェンジする。先ずタクシーに乗ってスワヤンプナートへ。猿の寺で有名。カトマンズを見下ろす高台にあるラマ教の寺院。次に中村氏が火葬場を見たいと云う。パシュパテナートへタクシーをとばす。Ring Rordを走る。入り口にて200ルピー払う。煙が立ちのぼっていた。今日は多いのか5ケ所ぐらいから煙だ。アグリのテレビで見たとおり橋をわたり対岸から見る。順番待ちで次に火葬の用意をしたのもある。人生の末路の旅路の姿を見た。帰ろうとしたら霊柩車から降ろされているのにも出くわす。

 次にダルパール広場へ。人間が多い。入り口にて200ルピー、ガイドブックにも載っていたとおりの建物(ハヌマンドカやカーラバイラブ、そしてクマリの館など)。ここにも物売りが集まってくる。ここから地元の店の集中したところを歩いて帰る。どちらの方に歩いているのだろうと思って人込みの中を歩いていたら、ガイドが帰りは乗合いバスにて帰ろうと言い出す。彼が云うのだから間違いなかろう。バスといっても日本でいえばマイクロの小型だ。はじめ乗客は少なかったが、あっという間にいっぱいになって出発。乗ってすぐ代金の徴収(6ルピー)だ。時間表などはないみたい。バス代は歯科医が払ってくれた。お礼に日本から持ってきた電卓、ボールペン、食料の残りなどをあげる。そのままホテル前のバス停で別れる。


シヴァ神 恐怖の神 カーラ・バイラヴの前で中村氏と


 1時にホテルを出て空港へ。バスの中でここでもガイドからカタをかけてもらう。カトマンズの地理もやや分りかけてきた頃別れの時だ。空港での出発チェック、出国手続きに延々と待たされる。そこでまたポカラ方面からの帰りの重広氏と再会してお互いの情報を交換する。JALのチャーター便に乗るため出口待合室で待つ。機上の人となる。定刻よりやや遅れて無事夕焼けのトリブァン空港を飛び立つ(17時20分)。無事のトレッキングを安堵する。バンコックにて給油のため、機外へ。荷物を持ち出せなかったため空港内でややトラブル有り。そして翌早朝(1月5日)関西空港着は6時。空港にて同行したメンバー全員で別れのセレモニーの後、9時10分発のANAで大分空港着10時10分。11時30分にはひさしぶりの我が家へ帰着。今回の還暦祝いのトレッキングを終える。

 天候にもメンバーにも恵まれ最高のトレッキングとなった。思い切って決行した今度のトレッキングは還暦を迎えるという大きな節目にふさわしい旅となった。トレッキングとはこういうものだ。ネパールとはこういうところだというのがほんのさわりの部分ではあったが、分ったようにに思えた。日本を出て外から日本を見て気候・風土・その他あらゆる面でやはり一番日本がよいと感じた次第だ。後日、同行した京都の中村氏より撮影したビデオテープが届いた。今回の記念のトレッキング報告会を4回も催すこととなったが、その都度このビデオが生の迫力で十分にその状況を伝えることができた。中村氏には感謝するのみである。 

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