我が青春の“登攀”(大分登高会時代の記録)        

                                                      栗秋和彦

  75年7月 耶馬溪洞鳴ダイレクトルート取付にて
   洞鳴ダイレクトルート(本耶馬渓町)取り付きにて(19757月 左から挟間、佐藤、松田、栗秋、高瀬)

○北ア・剣岳夏合宿(‘74.8月20〜27日 )
@八ツ峰Y峰Aフェース魚津高ルート
 快適なCフェース(剣稜会ルート)を終えて、Aフェース基部着12時。昼食がてら、先に取付いた女性パーティの見物にまわる。このパーティ、口数の多い割りには遅々として進まないが、時間はたっぷりあるし、雲一つない快晴ではおおらかにならざるをえない。

 佐藤は迷(?)カメラマンぶりを発揮して、くだんのパーティのお尻を撮りまくる。写真の出来映えについては期待しない方がいいらしい。カメラアングルを見ながらそう思った。

 彼女たちが1P終了したところで、佐藤トップで取付く。先ず、ガリーを直上。結構、ホールド。スタンスは豊富だが、浮石が多く落石に気をつかう。まもなく頭を押さえられ、右上するチムニーをバックアンドフットで抜け、再び脆いガリーを左上してビレイ。女性パーティーはもう視界にはいない。

 2P目、つるべでカンテを回りこみ、ハーケンに導かれてBフェース寄りのフランケに出る。このころよりルートに対して、若干の疑問を抱いてきたが、明瞭なトレールがあり、強引にトラバースして行き詰った。ルートの間違いはもはや確定的である。ホールドの乏しい垂壁が、カンテラインの合流点まで続いていて難しそう。しかし登れないこともない。とりあえず佐藤を上げる。彼はカンテを回りこんでくると、開口一番「間違っているぞ!引き返す」 とたんにスタンスが不安定に思え、眼下の雪渓がやけに深く感じる。慎重なクライムダウンの末、カンテに引き返し2P目を振り出しに戻す。

 ハーケンを過信しすぎだ。頭の中のルート図が明晰であっても、すぐ目先のハーケンに飛びついてしまう。これは昨日の登攀(Y峰Dフェース、久留米大ルート)でもそうであったし、入山の際ルートミスで貴重な一日を潰したのも、まったく同じ過程であろう。つまり山行全体に通じる事前研究の不足にほかならない。そしてこれは山行に対する出発前の甘い観測『行けば、何とかなるだろう』と同一次元に存在する。事実、メイン合宿の陰にに隠れて、更には少数のパーティということもあり、我々には、少なくとも筆者には緊迫感があまりなかった。この合宿に対する“ひより”はなかったかと問われれば否である。2P目のルートを目で追いながら、反省の感を強くする。

  74年8月 剣岳Y峰Dフェース久留米大ルートにて 無題-スキャンされた画像-63
  左:八ツ峰Y峰Dフェース久留米大ルートにて(8/23 右:長次郎雪渓を下る

 正規のルートはカンテからすぐ右寄りのチムニーに抜け、再びカンテに出てジッヘル。完全な内面登攀ではないが、オポジションの練習には最適で、岩も硬く快適そのもの。頭上のハイマツを目指して、カンテに忠実に20mザイルを伸ばすと3P目終了で頂上であった。帰途、今夏開拓されたという、Dフェースフランケの人工ルートを仰ぎながら、一本立て、しばしのまどろみに身を任せる。
<パートナー>佐藤和
                        
                    (昭和49年8月24日)

Aチンネ左稜線
 地の利を生かして、今日も又くつろいだ朝を迎える。三ノ窓から望まれる東西に広がる空間は雲一つない蒼天で、昼からは池の谷@ルンゼの偵察を欲張り、待ちに待った左稜線へ向かう。ベルクシュルントを越して、ガリーを登ると広いバンドに達し、ここが事実上の取付きである。朝の陽光を受けて乾ききった岩が、今日の登攀を楽しいものにしてくれるだろう。8時40分トップで凹角に入る。岩は脆いが容易なところだ。以降“つるべ”でやることに同意。

 2〜3Pは、チムニー、フェイス、クラック、カンテと多種多様。フリクションを効かせて強引に登る。がしかし、ルートファインディングのまずさは天下一品。パートナーの佐藤は半ば諦めて、ボクの攀じった変則ルートを登ってきては、さかんにボヤく。ルートミスによる時間はバカにならない。いつのまにかガスがかかってきて、4Pのリッジのコンティニュアスを終えたころより、雨が気ままに降り出す。岩登りで雨慣れしていない筆者はいささかの焦りを感じる。小康状態を保っている時にピッチを稼ごうと気ばかり焦り、それがまたルートミスを誘う。この悪循環の中で5.6.7Pを終了。

 壁そのものは快適だが、クレオパトラニードルも満足に眺めていない現実が、精神的な負担を感じさせる。8Pの核心部を眺めながら、テラスで行動食をほうばり始めると、待ち構えていたように本降りとなる。取付きではこのピッチにアブミは出すまいと、気負っていた決心がいとも簡単に崩れ去ってしまった。若干の寒さを気にしながら、トップでハング気味のカンテの乗っ越しにかかる。もたつきながらも、ほぼ40mいっぱい伸ばしてレッジでジッヘル。佐藤を上げながら、寒さでふるえっぱなし。

 このピッチを終えると、雨も小降りになり高度感のありそうなリッジ(ガスで視界がきかない)が11Pまで続き、いささかうんざりしてきた時、「終わったぞぅ」と佐藤の声が聞こえてきた。最後は走るようにしてチンネの頭に立

74年8月 剣岳チンネ全容 「剣岳チンネ左稜線ルート図」の画像検索結果  無題-スキャンされた画像-03
左:チンネの全容。左稜線は左のスカイライン      中:左稜線ルート図           右:三の窓BCより池の谷を

つ。12時35分であった。ここで初めて雨具を着ける。と同時に雨脚がにぶくなり、一段とガスが濃くなる。「雨で濡れると雨具をしまうときに難儀だから、止んでから着けるのだ」と笑えぬ冗談をとばす。とにかく剣を代表する念願の左稜線は終わった。満足感は隠しきれず、寒さはさほど感じなくなる。ベースキャンプの三ノ窓へ駆け下ろう。
<パートナー>佐藤和
                                       
(昭和49年8月25日)
※大分登高会々報 ’74.10月(第96号)掲載。他に、八ツ峰Y峰Dフェース久留米大ルート(8/23)と同じくCフェース剣稜会ルート(8/24)の登攀を行った。いずれもパートナーは佐藤和彦氏。お盆を中心としたメイン合宿(韓国、仁寿峰定着岩登り)には休暇の関係で参加出来ず、当時能動的失業を選びヒマラヤの山々を彷徨し、帰国したばかりの佐藤とコンビを組んだ。                                       (平成6年11月)

○北ア・北穂高岳集中春合宿(‘75.5月1〜5日 )
@滝谷クラック尾根
 待望の滝谷に胸を踊らせながらB沢を下る。普通クラック尾根は、赤いバンドより取付くが今回は尾根の末端からトレースすることに決め、取付きでP2フランケジェードルルートへ向かう内田、吉賀と別れ登攀準備を整える。笠ケ岳をバックにリッジから脆いフェイスへと登攀を開始。久し振りの岩登りで感がつかめず、2Pも佐藤にトップを委ねる。ルート図ではクラック尾根は人工部分がないので、高瀬にアブミを貸してしまったが、このピッチはフリーで登れそうもないと判断。佐藤は凹角の途中までアブミで抜け、上部はシュリンゲで突破する。ラストのボクは佐藤のアブミを借用して楽をしたが、部分的に微妙なフリーでオポジションの感じをつかめないままで、ふんぎりのつかないピッチでもあった。

 赤いバンドからはやさしい稜線で、5P目のフェイスで途中から取付いた他のパーティの時間待ちで、1時間程つぶさなければならず佐藤と二人でブツブツ文句を並べる。実際、途中から割り込んできて、先行されるのはあまり気持ちのいいものではない。そしてやっと出番がまわった時は、P2フランケの挾間、小田の姿は見えず若干のあせりを感じる。フェイス、リッジで5.6Pを終え、旧メガネのコルを経てやさしい岩稜が続き、快適なジャンケンクラックを一気に登り9Pを終了。

 小テラスで順番待ちを兼ねて昼食をとる。下部の暗い岩場から解放されて、日だまりでトカゲを決め込みたい衝動にかられることしばし.....30分程で後続パーティのトップが見えはじめ、ようやく重い腰を上げる。緩いルンゼを2Pで抜け、フェイス、凹角ともルートはどこでも取れ、13Pの上昇バンドを登りつめた所が終了点であった。

 苦労した2P目を除いては快適な登攀であったが、今回は条件が良すぎたのであって、アイゼンも手袋もつけない春の滝谷を、固定観念として受け入れてはいけないと思った。

 75年5月 北穂滝谷クラック尾根10Pにて 
 滝谷クラック尾根9P目終了のテラスにて

<コースタイム>取付き9:00→終了14:20   
<パートナー>佐藤清 
         (昭和50年5月2日)

※大分登高会々報 ’75.5月(第103号)掲載。冬のバリエーションルートや本場アルプスやヒマラヤを、それなりに目指す山岳会で春の北穂高岳集中合宿とくれば当然、西穂なり北鎌尾根、硫黄尾根あたりからバリエーションルートの縦走をこなし、合流。仕上げは滝谷登攀と相場は決まっている。がしかし、他の仲間と同じようには長期休暇は取りづらかった。何せ、G.W、お盆、正月と会社のかきいれ時に合宿が重なり、上司の反発を買ってまでの強引さは持合わせていなかったから。

 それでも自分なりに目一杯の休暇を取り、最短コースの上高地から、涸沢を経由して北穂高岳を目指した。当時、国鉄職員の筆者でさえ往復の交通費その他もろもろで3万円程はかかったあげく、登ったルートはクラック尾根一本だけという慌ただしさ。一方、高瀬、挾間等、他の仲間たちは長大で険峻なアプローチを経て、ここ滝谷でも少なくとも2〜3本は有名なルートを稼いでおり、対照的な己を揶揄して、『一本3万円の男』と自嘲気味に宣ったのも懐かしい。                                             (平成6年11月)

○宮崎・比叡山(‘75.5月24日〜25日)
@T峰南壁B岩稜
 75年4月 比叡山T峰南壁B岩稜4Pを攀じる IMG_0001
T峰南壁B岩稜4P目を攀じる(挟間 撮影)          終了点でエネルギー補充するの図

 今年度からスタートした『個人山行』という名称の山行が挾間らによって計画され、これに便乗するかたちで加わった。比叡山の岩場は写真で見るかぎり、大崩山群独特のスラブ状の壁をなし、ピッチ数も7〜9Pと九州の岩場では長いルートの一つに数えられる。この南壁に期待よりも不安が先行し、これを解消するためにも早く南壁を仰ぎたいと思った。

 24日夕刻の挾間との偵察では取り付きが分かりにくく、B岩稜については崩壊跡上部のフェースにハーケン1本を見つけ、これが取付だろうという淡い期待をもって後発の小田らを待った。

 25日、小雨にふんぎりがつかないまま小田と取付へ向かう。林道から崩壊跡をつめ例のハーケンを目指して登攀を開始する。

 1P目はトップをかって出る。以降つるべでやることで合意。のっけのフェースはスタンス、ホールドとも比較的豊富だが、雨のせいか全般的に濡れており気持ちのいいものではない。バランスクライムに終始し、上部でボルトの頭に立ち身動きできなくなりしばし考えこむ。意を決して右に回り込み、強引にトラバースをしてやっと抜けホッとする。小田にちょっと上がってもらい、松の木でビレー。雨が止み谷向こうの矢筈岳に水墨画のような雲が立ちこめ、幻想的な小世界を垣間見る。45m。

 2P目、ハング直下から派生するルンゼをつめる。ブッシュと浮石のピッチである。35m。

 3P目、B岩稜の取付より上部に出ているのに気付き10m程下り、チェックストンの下を10m左へトラバースして顕著なB岩稜へ取り付く。最初はカンテ状を5m登りレッジで区切る。25m。

 4P目、傾斜も強くピンが等間隔に見える。最初のピンまでスタンスがなく、フリクションのみで攀じる。10m程登ったところで細かいホールド、スタンスを頼りにトラバースを強いられるが、またもやふんぎりがつかず、小田の苦労が伺える。ボルトの頭に立ち、微妙なバランスで抜け、フリクションの効くスラブを直登。35m。

 5P目、確保点の真上に伸びる、草付きルンゼとスラブのミックスした壁を40m登り、右岩稜ルートに出る。挾間らと合流。筆者のルートミスで少し左に寄り過ぎたようである。

 6P目、草付きバンドを10mトラバースし、ルンゼに入り更に10m程トラバースしてB岩稜へ戻る。これから細かいフットホールドにフリクションを効かせて強引に登る。確保点まで小田を上げるため、慎重にバンドをトラバースしザイルを伸ばしたが、こんどは確保点が得られず、かなりモタついた。しかし後半の25mのスラブ登攀は豪快で高度感もあり、岩登りの楽しさを満喫することができた。45m。

 7P目、ブッシュ混じりのルンゼを直登して、右のスラブに移る。適当なホールドがあり非常に快適。30m程左よりの右岩稜ルートを、角南が見え隠れしながら攀じっている。小田を上げる頃より再び雨が降りはじめたが、終了点も近いようだし気にはならない。35m。

 8P目、階段状スラブを30m登り、傾斜の強いカンテを10m伸ばしてビレー。頂上が近いせいか、上部は傾斜が緩くなりブッシュが多くなる。ここで再び右岩稜パーティと合流。雨が上がり、時折薄日が差し込む。心が和むひとときである。30m。

 9P目、ブッシュ混じりの緩いスラブをコンティニュアスで50m伸ばすとBピークの頭に出て、ザイルを解く。取り付きの林道がうねうねと下方はるかに弧を描き、なかなかの高度感を得た彼方に槙峰の集落が小さく望まれる。登攀から解放され弛緩した気分と、てっぺんを踏んだ充実感が織り成す至福の時を刻みながらも、この登攀を振り返ってみた。南壁の概要はほぼつかめたと思うが、全体的に残置ピンの数が少なくそれだけ易しいルートと言えよう。しかし部分的にはY級の上に位置する箇所があり、フリーのゲレンデとしては格好の場を提供してくれる。大分の苔むした薄暗いゲレンデ(高崎山のイメージがあまりにも強い!)に比べると、日向の陽光多き、明るい岩場は、アプローチの長さを割り引いても余りある魅力に富んでいる。次回は垂直の正面壁にルートを取ろう。
<コースタイム> BC(比叡山千畳敷)7:15→取付7:30→終了地点(Bピークの頭)11:20 12:30→BC13:20 

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登攀終了後、BCとした千畳敷にて勢揃い 守谷、安部、栗秋、佐藤、小田、角南(左から、撮影者:挟間)
<パートナー>小田隆                                             (昭和50年4月25日)

※大分登高会々報’75.5月(第103号)掲載

○耶馬溪・洞鳴スカイラインルート(‘75.7月5日)
 1P目 10m スラブは前日の雨で濡れており、いやらしい。8時半、トップ角南でブッシュを掴み強引に越し、10m登ったところでハーケンによりビレー。セカンドを上げて、トップはそのまま登るが、ハング下の濡れたトラバースを渡れず諦めて降りてくる。フリクションが効かないよぅ、との表情か。

 よって2P目はこのトラバースを回避し右側のブッシュ帯へ回り込みエスケープ。ビレーポイントはブッシュを使い、セカンド、ラストを上げる。 

 3P目 40m 本ルート下部の核心部である。途中、微妙なところにハーケンが2本残置しているのが見える。トップはフリーで登ろうとするも登りきれず、シュリンゲ2本を使用して乗越し、10m登ったところで左へトラバースして、トップを高瀬に譲る。高瀬は垂壁で凹角気味のところをシュリンゲをセットして越し、右に10mぐらいトラバースし、そのまま直上してブッシュでビレーする。この部分が一番悪く感じられたが、セカンド、ラストはシュリンゲを使い、ザイルに掴まるようにトラバースしてやっとのことで登りきったことからの感想か。終了は12時半。

 3P登ったところで、近くのダイレクトルートの面々(松田、挟間、佐藤清)の声を認め、ブッシュ帯をトラバース、ダイレクトルートのテラスで合流した。

 洞鳴の中でもっとも易しいとされるスカイラインルートだが、濡れて陰湿な雰囲気は拭えず、難しさばかりが先だったような。この綴りのトップを飾る写真は、難しさを顕にした表情は見せていないが、シラを切っているのか、或いは登攀前のものなのか、不明である。
<パートナー>高瀬、角南

○伯耆大山北壁(‘75.10月31日〜11月3日)
@屏風岩鏡ルート
 屏風岩、大山北壁の中にあって黒々と雄々しく聳え立ち、脆く錐状の風采は屏風と呼ぶには似つかわしくないぞと思いつつ今、筆者は対峙している。冬のこの壁を目指す我々には、どうしても無雪期に一度はクリアしていなければならない。

 11/1 早朝、米子に到着。連休とあって登山者の姿が多いが、大半は夏道経由の大山山頂(弥山 1713m)か、頂稜の縦走を目指す人たちだ。大山寺で登山届けを出し、今回のベースの元谷小屋へ向かう。大神神社までは石段と落ち葉を踏みしめる、静かな晩秋の風情を味わいながら黙々と歩を進める。屏風がどんな“顔”で迎えてくれるか、期待と不安の交錯するひとときであるが、稜線にはガスがかかり、遠望する屏風岩の上部もその下限にあたり、視界には捕らえられなかった。

 まずは小屋に荷物を置き、昼食だけをザックに詰めて偵察に出かけよう。 風は冷たく、どんよりと曇った空は、ただそれだけで重苦しいが、ガレた元谷を詰めて取付きに立つと、緊張とも戦慄ともつかぬ、一種形容しがたい内面の葛藤がこれに加わった。とりあえず、港ルートと鏡ルートを交互に見据え、首が痛くなるほど仰ぎ見て、本能的に弱点を探しだそうと気をもむのは自分だけか。小田と佐藤は時折、ビューンという落石の挨拶も聞き流しながら、成算ありの面持ちをしている。まずは頼もしき岳友たちであるが、この空模様にはなじみにくく、早々と寒さに追われるように小屋まで駆け下る。

 75年11月 伯耆大山屏風岩港ルート10Pを彷徨う Image0478-2
 屏風岩鏡ルート3P目を彷徨う              隣の港ルート図  

 11/2 5時起床。朝食と登攀用具の準備を終え、明るくなるのを待って6時過ぎに小屋を出る。冷気が身を包み、晩秋の大山の山懐に居ることを改めて実感させる。そしてこの寒さに抗して、ウォーミングアップにはいささか性急過ぎるスピードで取付きまでとばした。目指すは港ルートである。7時、小田トップで1P目のフェースに取付いたが、水に濡れて滑りやすい外傾したスタンスにふんぎりがつかず、あっさりと降りてくる。続いて佐藤が試みたが、これもダメ。もちろん筆者が取付いたとしても、同じ結果になることは容易に想像できるので、しばらくは皆黙ってしまう。落石が「ザマーミロ」といわんばかりに落ちてくる。

 重苦しい雰囲気の中、小田の「この状態じゃ、誰も登れんぞ。鏡ルートにしようや!」の一言に救われた気になる。多少悔しいが、もちろん異論を唱える者がいる筈はなく、あっさりと鏡ルートに転進することになった。1時間ほど無為な時を刻んだことになったが、今度は佐藤トップで遭難プレート横のフェースを登り、西ルンゼに入る。以降、セカンド栗秋、ラスト小田のオーダーで尺取り虫を繰り返すことになったが、比較的スムーズに攀じたのは1Pだけで、2Pからは脆く、いつ壊れるやも知れぬ、スタンス、ホールド、そしてあまいビレーポイントの連続で、ひとときも気を抜くことはできない。数々の遭難を出した、名にし負う大山北壁屏風岩の“真顔”がそこにはあった。中でも4P目の小ハングの突破は、外傾した手掛かりに加えてボルトの効きはあまく、高度感に溢れ、ハング出口のホールドが乏しく、更にその上部の泥壁を騙し騙し、神経を擦り減らす登攀を強いられ、トップの苦労が偲ばれた。そして最終ピッチの5Pも、まったく気は抜けない。凹角の入口は手掛かりが信用ならず、出口のかぶり気味の乗っ越しに、トップの佐藤は吊り上げで何とか突破した模様であった。

 そしてかなりの時間を要して三人終了点に立つ。ガッチリと握手してお互いの健闘を称え安堵感に浸ったが、この頃よりまわりはガスに包まれ、これに追われるように長い屏風尾根をふぅふぅ言いながら登り、主稜線には午後4時着。更にサポート役の角南の待つユートピア小屋経由で下山の途についた。10時間近く、昼食らしきものは殆ど口にしなかったツケがまわってきて、ほうほうの体であったが、今宵のねぐらである元谷小屋まで、もうひと頑張りである。天気は快方へ向かい、夕闇迫る宝珠尾根から遠く大山寺の明かりが、まるで砂漠のオアシスに見え印象的であった。
<コースタイム>元谷小屋6:05→屏風岩港ルート取付7:00(断念) 鏡ルート取付8:00→終了15:15→主稜線16:00→ユートピア小屋17:00→元谷小屋18:20  <パートナー>小田隆、佐藤清一
(昭和50年11月2日)

○傾山 二つの記録(‘75.11月23〜24日 )
@双ツ坊主南壁 登高会Tルート敗退
 双ツ坊主の登高会Tルートと本峰西壁の継続登攀を目的として、佐藤清、角南、栗秋で南坊主沢の中間でツェルトを被る。翌23日、若干の緊張を伴いながら取付きへと急いだ。結果的には雪の為、2Pで敗退というみじめなものになったが、気象条件のみでなく、精神力の弱さからくる敗退と言えるかもしれない。実際、このメンバーでは佐藤しかルートを経験していなく、当時の登攀では必ずしも主導権を取った登攀とは言えないので、悪天候下の壁から感じる威圧感は三人ともかなりあったことは否めない。と同時に我々の登攀スピードを考えた場合、三人では時間がかかり過ぎ、今後に検討を残した。

 小雪の舞う中を7時ちょうどに1P目に取り付く。チムニー下部は氷が張っていて、慎重に攀じり、イヤなチムニーに達する。継続のつもりだったので、普段より少し重たいザックはチムニーが受け入れてくれず、一旦上部の岩棚にザックを上げ、空身でずり上がる。この頃から一段と雪が強くなり、視界は30mぐらいになる。上部を考えるといささか憂鬱に感じながら、角南、佐藤の順で上げる。2P目に移る頃には、ますます風雪は強くなり、双ツ坊主上部の降雪がスノーシャワーとなつて流れ落ち、2P終了のテラス直前で、ホールドの細かいフェースを攀じるフンギリがつかず、しばらく考え込んだあと、佐藤と交代すべく下降に移る。

 概してホールド、スタンスが細かく、丸っこいので濡れた岩は、己の技術と精神力では克服できる代物ではなかった。そしてちょっと間にテラスは3?4pの積雪となり、佐藤も同じ箇所でザイルが止まった。結局、雪まみれになっただけで徒労に終わり、退却を余儀なくされたのが一部始終である。

 9時半、懸垂で基部に降り立ち、雪化粧の南壁を仰ぎながら、改めて我々の非力さを痛感し、悔いが残った。

<コースタイム> 取付き7:00→2P目断念9:00→終了9:30
<パートナー>佐藤清、角南 
                                 
(昭和50年11月23日)

※大分登高会々報 ’76.2月(第108号)掲載。

A本峰西壁
 前日の双ツ坊主南壁の敗退で出足が若干遅れたが、元気に小屋を出る。雪で本峰一帯は樹氷ができ美しい。先ずは山手本谷を遡行し、本峰西壁への取付きまで詰める。ところどころにつららが出現し見応えあり。更に15m程度の滝を捲きルンゼへと入る。このルンゼは急でやばい。慎重に詰めるとほどなく岩稜の取付きに出る。のっけは20m程度の岩場で上部はブッシュ。ノーザイルでとんどん高度を稼ぐ。更にブッシュ帯はつづくが、ところどころ垂直に近い箇所があり、緊張を強いられる。そして約1時間で本峰西壁直下のテラスに出てアンザイレン。

 1P目 40m 角南トップで20mほどの脆い垂直の壁を攀じる。上部は急なブッシュ帯で40mいっぱいに延ばす。天気は快晴だが、風が強く冷たい。いたるところに樹氷が付いており、ブッシュを掴むとパラパラと落ちてきて降りかかる。

 2P目 40m 下部はすっきりしたフェースを攀じる。左には脆そうな北壁側が、上部はハング帯が見える。直上するもルートを誤る。佐藤が替わって、軽く垂壁を乗越すと上部はブッシュ混じりとなってくる。

 3P目 40m 上部のハング帯を避け、垂壁を南面へ回り込むと、高度感溢れる南壁眼下はスッパリと切れ落ちており、順層と相俟って岩登りの愉しさを満喫できるピッチなのだ。そして上部は階段状の岩場となり、縦走者の声が聞こえてくると、やがて終了点である。ここからの眺望は抜群で祖母山からの累々とした山の連なり、左手、指呼の距離に双ツ坊主の垂壁が立ちはだかり、見事と言うしかない。本峰の頂へは50mで達し、小憩昼食の後、九折越経由で小屋着17時であった。

 本峰西壁は下部のブッシュ帯が長く、取付きまで時間がかかるのが難点だが、ダイレクトに本峰直下に突き上げる岩場は高度感もあって、この山系の入門ルートとしてお薦めだ。

<コースタイム> 小屋7:30→岩稜取付き10:30→西壁取付き11:30→終了14:45→小屋17:00               
<パートナー>佐藤清、角南 
                                 
(昭和50年11月24日)
※大分登高会々報 ’76.2月(第108号)掲載。

○北ア・穂高・涸沢集中春合宿(‘76.5月1〜5日 )
@滝谷ドーム北壁左ルート
 西穂パーティ(桂、秦で4/29上高地〜西穂山荘から入山。西穂〜ジャンダルム〜奥穂〜涸沢の予定)との連絡がつかず、今日がリミットであるため午後2時までには戻ってくるという条件で、角南と朝4時にBC( 涸沢)を出発する。今にも泣きそうな空模様に追い立てられるように北穂沢をつめる。かなり上部になってから小雨と濃いガスに覆われ、東稜へと続くトレールに足を踏み入れ、途中で気がつくが、今更引き返すのも面倒だと、角南を促し東稜に出る。そこはものすごい突風の世界でナイフエッジを北穂までモタモタしながら進む。

 北穂小屋で届けを出し、登攀準備をしてドームへ向かう。雪も降ってくるし、ガスで視界もきかず内心億劫になってくるが、角南は「ドーム、ドーム!」と口走る。いかんともしがたく、ドームの手前のコルからルンゼを見下す。今年は雪の状態が悪いと、ある程度は予想していたものの蒼氷でおおわれたルンゼには少なからずの動揺を覚えた。とにかくコルからちょっと降り、雪壁にピッケルでセルフビレーを取り角南を降ろす。彼は出歯(アイゼン)とザイルを頼りに、スルスルと40mいっぱい伸ばし、「OK」のサインを送ってきた。さぁ筆者の番であるが、いざルンゼに足を踏み入れてアイゼンが全く効かないの気付く。ランニングビレーを取っていないから、確実に80mは落ちると頭の中で計算すると、途端に背筋が冷たくなる。

 話にはよく聞くが、お目にかかったことがなかったブルーアイスはピックを2a程度しか受け付けず、それ以上はいくら打ち込んでも、まわり全体の氷が剥離し意味がないのだ。角南はひんぱんに声をかけてくるし、気はあせるがステップを根気よく切って、慎重に下降する。かなりの時間を費やして下りきったが、冷や汗ものであったと思う。この状態ではむしろアップザイレンの方が賢明であったのでないかと思いつつ、もう1P慎重にトラバースして北壁取付きへ出る。アプローチから判断すると、この連休には誰も取付いてはいないことがうかがえる。下りきった頃、上で様子見をしていた複数のパーティが下降してくる。賢いというか現金なものだと、角南と顔を見合わせて苦笑する。

 さて本命の北壁であるが、アイゼンを着けたままハーケンのベタ打ちされている垂壁を15mでテラスへ。2P目もアブミの掛け替え、40mでテラス。3P目、40mのフリーでドームの頭へ。クラックは氷が詰まっているが、壁自体は雪が少し付着している程度で別に問題はなかった。しかし登攀スピードのノロさに加えて、途中のテラスでアイゼンを外したり着けたり、またカラビナの回収に手間取ったりと、3Pの登攀に2時間以上もかかってしまうていたらく。より確実でスピーディな行動が、今後の課題として残るだろう。

 悪戦苦闘したルンゼを横目に、相変わらずの小雪混じりのガスの中、早々に北穂へ向かう。一方、身を安じた西穂パーティは、悪天候による停滞と途中ジャンダルムで行き詰まり、岳沢へエスケープしたことで、大巾な時間超過となり横尾経由で合流。最終日に全員がやっと揃った春合宿となった。
<コースタイム> 涸沢BC4:10→北穂6:30→ドーム取付き8:30→終了10:50→BC12:40
   <パートナー>角南一成 
              
                         
  (昭和51年5月3日)
※大分登高会々報 ’76.5月(第110号)掲載。

○阿蘇・鷲ケ峰(‘76.5月29日〜30日)
@北壁Dフェース

濃いガスに包まれた北壁を見上げる西稜の肩で一本立て、内田、秦の北稜組を追って取付へ急ぐ。昨夜来の雨で壁は濡れており、ザイルパーティは結構多いがすべて北稜ルートへ向かい、順番待ちである。一方北壁は我々の貸切りであり、取付は洞窟状のテラス直下の横断バンドである。トップの佐藤は「やばい」を連発して、カンテラインを回り込みガスの中へ消えて行った。かなりの時間を要して“OK”の合図が来る。まずテラスからカンテ状フェースを回り込む。ボロボロのフェースを右上し、チムニーを攀じ垂直のフェースに出る。豆粒ぐらいのスタンスは濡れており、いきおい腕力に頼りがちになるが、ベタ打ちのハーケンに導かれてカラビナの架け替えで6m程直上して、又しても腕力で右方へトラバースして狭いテラスに出る。

 図らずも腕力登攀主体のピッチとなり、もうフウフウである。つるべで更に右へ回り込み、5m程直上し、トラバース気味に右上すると草付きが多くなりノーマルルートに合流して終了である。1P目のカンテ状フェースの回り込みと、この後のフェーストラバースが特に悪く感じられ印象に残った。2Pとスケールこそ短いものの、ハーケンを信用できない阿蘇特有の岩質、赤ガレ沢を真下に臨む高度感、荒々しい岩峰の連なり、鷲ケ峰の威風堂々とした姿は九州の岳人を引き付ける魅力に溢れている。
<コースタイム>取付11:20→終了(鷲ケ峰頂上)12:50 <パートナー>佐藤清一
 (昭和51年5月30日)
※大分登高会々報’76.6月(第111号)掲載

 http://alpinesaikou.web.fc2.com/kiroku/2010/12washi/PC050020.jpg中央のカンテが北稜、右が北壁

○南ア・北岳定着春合宿(‘77.5月1〜5日 )
@北岳バットレス第4尾根
 昨日とはうってかわって雲一つない快晴、絶好の登攀日和である。残されたチャンスは今日一日しかないが、桂とボクは第4尾根一本と決めているので気が楽である。そしてこの気のゆるみが、取付きまでの登高をひどく怠惰なものにさせる。北岳は穂高とは比較にならないくらい入山者が少ないのだが、それでも連休でしかも登攀ルートは一ケ所に集中する傾向にあるため、順番待ちは免れないようだ。Cガリー大滝は上部から雪塊が絶え間なく落ち、そのたびに鈍い響きに包まれる。我々は躊躇なくDガリーの方へ取付くが、ここも上部パーティからの落石の巣になっていて、気持ちのいいものではない。ここでアンザイレンし、大滝の左岸を1P、そして上部雪壁を2Pで横断バンドに辿り着く。Dガリー奥壁には2.3パーティが取付いていて、これを狙う高瀬、佐藤はさすがに気をもんでいるようだ。ここで彼らと別れ、横断バンドをトラバース。

 Dガリー大滝を攀じる数人のパーティが真下に見え、堆積した岩片のトラバースは全く気がぬけない。このT〜U級のトラバースが、この登攀で最も緊張した時間に思えたのは筆者一人ではなかろう。ハイ松混じりのリッジを回りこみ、雪壁2Pで第4尾根主稜のテラスへ。先行パーティの時間待ちを兼ねて小休止。アイゼンを外し、のんびりトカゲを決める。今まで見上げていた八本歯のコルもちょうど目の高さになり、大樺沢ははるか下方に遠のいてしまった。Dガリーを攀じる高瀬、佐藤の一挙手一投足が手に取るように分かる。彼らは雪壁とのコンタクトラインに沿って攀じっているが、どうもルートを左に取り過ぎているようだ。時々落ちてくる、先行パーティの落石が原因であろう。

 さて第4尾根から中央稜をもくろむ角南、秦を先に行かせ、快適なリッジを越すとそこは順番待ちの世界であった。中でも兄妹らしい男女のパーティが常に頭上に位置し、遅々として進まず業を煮やしていたのだが、マッチ箱を経てクラック、リッジのピッチになると、今までのいらだちが逆に心配になってきたのだ。というのは、ラストを攀じる娘さんが既に腕力尽きたのか、クラックで微動たりとも出来なくなり、なりふり構わぬ悲鳴と、上からの罵声が我々の耳に容赦なく入ってくるからである。この垂直の世界では手助けもままならず、無事に切り抜けてくれるよう祈るのみである。

 77年04月 北岳バットレス第四尾根2P目を攀じる栗秋(パートナーは桂) 9KB 77年5月南ア北岳バットレス第4尾根を攀じる 77年04月 北岳バットレス第四尾根3P目のテラスで一休みの角南、秦 25KB
 4尾根 2P目(左)と5P目を(中)を攀じる筆者        右は3P目終了で秦&角南Pと合流        

 そしてかなりの時間を要して引っ張り上げられた娘さんを見てホットすることしきり。やれやれである。そしてこの連休に1パーティも取付いていない中央稜を、あっさりと諦めた角南、秦も加わり4人で登攀を再開する。マッチ箱のCガリー側は崩壊しそうな雪壁が切れ落ちており、中央稜へ取付く士気がこれでそがれるのだ.....とは角南の弁。一方、第4尾根の方はクラック、フェース、リッジと快適な2Pを終え、明瞭なトレースのついた雪壁を20分で、いきなり頂上近くの縦走路に出る。日本第2の高峰、北岳の頂で、渋滞しつつも、快適であった登攀を振り返り、春の日差しにまどろんだ。
<コースタイム>BC6:10→取付き8:30→マッチ箱のコル12:00→終了(縦走路) 15:00→北岳15:10→BC17:00  <パートナー>桂 敏幸
                                       
(昭和52年5月3日)
※大分登高会々報 ’77.6月(第118号)掲載。

○宮崎・行縢山(‘77.7月2日〜3日)
@雌岳ダイレクトカンテ
 雌岳の圧倒的な障壁に対峙して、フリーの登攀を見いだせる唯一のルートがこのダイレクトカンテである。3月にも当会の佐藤らによって攀じられてはいるものの、悪天候とルートミスによりかなりの時間を要している。又、以前にも当会々員により上部岩壁へのつなぎのルートとしてトレースされているが、全体的にブッシュが多く、すっきりした登攀は望めないため会報に記録として残っておらず、その意味からも記す必要がある。

 3日、6:30取付着。西壁を攀じる佐藤、角南の登攀ぶりをゆっくり眺めて、8:30、秦トップで登攀開始。以降はつるべとして1P目、外傾したスタンスの階段状スラブから始まり、ゆきづまったところでかぶり気味のクラックをチェックストンにシュリンゲを通して越し、ブッシュ混じりのカンテラインを40mでテラス。西壁も南壁もブッシュで眺められない。

 2P目、凹角状から左の岩稜へ移り、そのまま細かいホールドを拾いながら直上。この岩稜の切れたところにボサテラスがあり、左は垂直のブッシュ帯、右手頭上には1m近いハングがありここで区切る。

 3P目、このハングを右から取付き、庇の出っ張りにアブミをセットし直上するが、秦は庇上部のハーケンを打ち直して突破する。上部のスタンスに達するまでピンが少なく、腕力を使うのと庇からの乗っ越しの際、アブミの回収に苦労するピッチである。

 4P目、南壁側へトラバース気味に右上する。ブッシュと岩稜のピッチでヤブこぎの技術を要求される。ブッシュはトゲが多く、既に腕にはカキ傷が多く悪戦苦闘を物語っている。このピッチ終了のテラスは広く、真正面に圧倒的高度で雄岳東壁が立ちはだかり、南方はなだらかな日向の山々の眺望が楽しめる。大休止。

 5P目はこの広いテラスから始まるスラブ状の一見快適そうなピッチだが、いざ取付いてみるとホールド、スタンスが細かく、日ごろ日和気味の筆者にはしんどい。それでも30mでバンドに達し、上部のルートを探すがよく分からず戸惑う。とにかく上を目指さなければならない。東へ伸びるバンドをトラバースして上部にハーケンを一本見つけてザイルを伸ばすが、上はかぶり気味のブッシュになっており(以前、佐藤らはここを越えた模様)いやらしそう。すぐ右の壁にボルト3本を見つけ、一旦下り区切る。

 6P目、秦が攀じり始めて間もなく、このバンドを南壁下部樹林帯から伝って登ってきた宮崎登攀クラブの人に声をかけられビックリする。

 77年07月 行縢山雌岳ダイレクトカンテ 2P目を攀じる栗秋(パートナーは秦) 924KB 雌岳ダイレクトカンテ4P目終了のテラスで。背景は雄岳 無題-スキャンされた画像-63
  2P目のカンテを攀じる        4P目終了点のテラスにて雄岳東壁を仰ぐ    6P目の垂壁を攀じる秦

 このバンドは途中で切れているものとばかり思っていたからだ。氏の説明によると、上部が2m近く張り出したハングをもつこのピッチは南壁Gルートの一部であり、ダイレクトカンテはもっと西壁寄りとのことである。ハングに達し右にトラバースしている秦を見て氏は、「トラバースはルートではなく、以前はハングを抜けていたが最近は登られていない」と言う。がそんなことは今まさに果敢に攻めようとしている秦の耳には入ろう筈がなく、彼はすごいスピードでトラバースを終え、ブッシュ帯を直上して視界から消える。

 自分の番が来たがいやな予感は的中。案の定、細かいホールドを拾ってハング下までは何とか攀じたが、どうしてもトラバースができない。スタンスが殆どなく、ピンはもちろん皆無である。ザイルが横に伸びているのでゴボウを抜くことも出来ず、ボルトを一本打ってやっとの思いでトラバースを終える。秦のバランスには感服するのみである。ここから垂直のブッシュ登り10mで区切る

 7P目又も垂直の木登り30mで中央樹林帯へ到達し終了する。ここから西壁側へトラバースを行い、西壁上部岩壁取付で佐藤、角南を待って1時間近く午睡を楽しむが、この時彼等は下部岩壁半ばで垂直のドラマの真最中であった。

<コースタイム>取付8:30→終了(中央樹林帯)15:00  
<パートナー>秦
 
      (昭和52年7月3日)
※大分登高会々報’77.7月(第119号)掲載

○大崩山・小積ダキ定着夏合宿(‘77.8月12日〜16日)
@北壁宮崎山岳会ルート
 小積ダキにあって最大の標高差を誇るのが北壁であり、その中でも一番の高比を持つルートがこの宮崎山岳会ルート(11P 330m 初登1971年)である。西日本の岩場にあっては他に類をみないスケールであって、途中のハング帯を越すと降りる術を失う。花崗岩の一枚岩は裏を返せば圧倒的高度感が味わえるが、手掛かりが少なく殆どが人工登攀の範疇となろう。よって岩の弱点を掴み攻略すると言った、岩登りの醍醐味からはやや外れる。しかし取付きから切り立って首が痛くなるほど見上げた一枚岩も、ハング帯から先は視界の外。このスケール感には圧倒されつつも、快晴の早朝、乾いた岩に触れると、俄然やる気が出た。とにかく登るしかないのだ。

  Image0477-2 77年08月 大崩山・小積ダキ定着合宿 若松第二ルート4P目のハング帯を攀じる秦 39KB
小積ダキルート図(右から北壁?中央壁、カンテラインが中央稜)北壁若松山岳会第Uルート4P目のハング帯を攀じる秦

 1P?3Pはのっけからアブミの掛け替えでスラブを直上する。小さな岩棚はあるにはあるが、靴底全体で立てるようなテラスらしいところはなく、いやがうえにも高度感に晒される。但し、人工ゆえ技術的に難しいしころもなく、順調に高度を稼いだ。つるべで確保している時は、壁のど真ん中にポツンと、自分の存在が現実のものと思われず、ふわふわと妙な浮遊感を伴うのだ(一瞬の睡魔にたびたび襲われる)。 4.5Pはちょっしたフリーの部分(埋め込みボルトの間隔が遠い)があり、気を引き締めて登る。この緊張感がたまらない。

6P目で小ハングを強引に越すと、ルートは左斜上へと誘われ、ほぼ垂直の壁を今度は直上。ザイルが岩棚の小石に触れ、それが落下すると、ハング下からは一直線へ奈落の底へ。

 さて9P目がたぶんこのルートの核心部になろうか、垂直のスラブから凹角へ入り、手掛かりはグラついたハーケンのみ。初登?以降苦労したのか、右手にロープが下がっていたが、頼りにするには心もとない。え〜い、二つに一つならハーケンだぃ、とこれを支点に直上、浅いチムニーからフェースへと移り、更にやや左へトラバースすると大きなテラスに出て一安心。まっさかさまに切れ落ちた緑の谷を挟んで対峙する中湧塚南壁も、この位置からだと、おとなしく視界に納まってしまうから不思議だ。

 10.11Pはブッシュ混じりのスラブ。短い人工とブッシュを手掛かりとしたフリーで攀じると、次第に傾斜も緩んできて終了。一日かけてようやく小積ダキの頭に立ち、感無量。しかし喉はカラカラにして腹ペコの極みとあって、転がるようにしてベースキャンプへと下った。
<コースタイム>取付7:00→終了(中央樹林帯)16:30  
<パートナー>桂
 
      (昭和52年8月13日)

 20101214_1570184[1] 無題-スキャンされた画像-23
 小積ダキの全容 右側日陰の部分が北壁、中央が中央壁    合宿の面々(左から佐藤清、秦、萱島、後ろが久々宮)

A中央稜ルート (下部4P)
 小積ダキの諸ルートのうち最初に開かれた(初登1960年)のがこの中央稜ルートだと言う。中央壁左手のカンテライン寄りを攀じるものだが、北壁や中央壁に比べて、フリーの要素が多いということだろう。中間部にある広いブッシュ帯によって上部と下部とに分かれており、下部は一枚スラブの人工主体、上部はクラック、チムニー、フェイスと変化に富んだフリー主体のルートで構成される。と言うことは(岩登りの興味から言えば)上部が面白いということになるが、筆者の下山時刻の関係から下部の4Pのみとした。

 両側を高い壁に囲まれた井戸の底のような広い凹角の左壁から取付く。

 1P?2Pは等間隔に打たれたボルトに導かれた単調なルートだが、ほぼ垂直のスラブはいきなりの高度感を味わうことになった。但し2P目の出だしはボルトの間隔が遠く一部フリーが悪かった。そして終了地点は幅の広いカンテに上がり込んでビレー。

 3P目は短いフリーを織り込みつつ、アブミの掛け替えで高度を稼ぐ。

 4P目もフリーの部分は際どいが、乾いた岩肌はフリクションがよく効き、精神安定上好ましい。最後まで傾斜は落ちずに密生したブッシュ帯の出迎えを受け終了となったが、上部を残したままでは尻切れトンボの如くか、中途半端な感は否めなかった。
<コースタイム>取付8:00→終了11:30  
<パートナー>桂、萱島 
          (昭和52年8月14日)

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