大分の山を行く(2) 
      宇佐山郷と耶馬周辺の山(その1)   挾間 渉

英彦山行動記録

 4歳になったばかりの長男と2歳の誕生まであとわずかの次男、それに最近体力が落ちたとぼやく妻を乗せ、8時前宇佐の自宅を出発。山国町守実から桜の花が満開の新谷経由で福岡県境の野峠に出る。この付近では一昨日の季節はずれの名残雪がここかしこに見られる。宇佐から80km、約2時間で標高650mの英彦山登山口駐車場に着く。日陰の残雪と遅咲きながら満開の桜の花が対照的である。耶馬渓側から野峠を越えて、福岡県に入ると、英彦山が県境の山とはいえ、どうみても「福岡県の山」という感じは否定できない。

 両側に出店が並ぶ数百段の石段を登り奉幣殿(標高733m)で小休止。さすが修験道で全国に名を馳せる英彦山だけのことはあり奉幣殿ばかりでなく、杉木立にも幾星霜の歴史を感じることができる。

 奉幣殿を過ぎると、石段は急を増し、一気に標高差200mを突き上げる。石段一つ一つの段差が大きいので、2歳にも満たず未だオムツが取れない次男坊は「イーショ!イーショ!」とたどたどしい言葉で気合いをかけながら、這い上がっていく。長男坊はどこまでも続く石段に物珍しさも手伝って上り下りを繰り返して体力を消耗させている。

 約30分程で第1休憩地点。急な階段を一気に登りくたびれたのか次男坊はしきりにダダをこねだした。以後はアメを餌にするが、まるで馬の鼻先にニンジンをぶらさげているようなもので、用心のため持参した背負子は下山時まで必要なさそうである。

 奉幣殿より1km程の行程を過ぎると、周囲は素晴らしい千本杉で、その間から木漏れ陽が射し、眺望の良い尾根伝いのダラダラ登りが続く。13時20分、歩き始めて3時間が過ぎる頃英彦山神社上宮のある山頂に着く。広い山頂では別の大人数のグループが焼肉パーティを賑やかにやっている。言葉つきからして大分県人ではなさそうだ。そういえば頂上までの道中の行き交う人に大分県人は居そうに見えなかった。また、ここまでの道中の大分県側と福岡県側のあまりの違いをみて、英彦山はやっぱり福岡の山なんだと実感した次第。

 家族団らんの昼食を終え、下りは次男坊を背負子に背負って長男坊主の手をつないで、何とも段差の大きい石段に辟易しながらどうにか奉幣殿に辿り着いた。足はもうガクガクで、スタミナには自信のあったはずの自分の身体が、知らず知らずのうちに衰えていることを初めて知らされた山行となった。

 なお、この英彦山の部落には豆腐屋がありNHK九州スペシャルで紹介されたこともあり、おやじゆずりの豆腐好きの私は、帰りに何とか買って帰りたいと訪ねてみたが、既に売り切れ。清涼な水と自家産の大豆で作ったという英彦山豆腐に対する食指からか、これを口実に再訪を誓って帰路についた。(コースタイム 駐車場10:10−奉幣殿10:45〜55−山頂13:20〜14:30−奉幣殿15:30−駐車場16:00 昭和57年4月11日の山日記)
  この山行はしばらく山登りから遠ざかっていた僕が、次男の成長とともに再び山登りを始めだし、山日記への記録を再開したという意味では記念すべき山行である。

桧原山(ひばるさん)と鴫良温泉
 中津市での危険物丙種の資格試験を終え、早速今日の本当の目的の山桧原山に向かう。桧原山(734.9)・・・どんな山だろう。国道212号線を南下し、青の洞門を過ぎ、しばらくして津民耶馬の谷に入る。中畑の部落より右に入り、上の川内部落につく。耶馬渓四国八十八ヶ所第七十八番札所正平寺入口とある。ここより右手の林道を車で行けば約4.5kmで中腹のキャンプ場に何の苦労もなく登ることができる。しかしそれでは登山の醍醐味は消えようというもの。低山とはいえ1月の山、大した準備はしていないが天気は昨日までの雪とはうって変わって快晴無風と来ている。車道の分かれ道より左に少し歩いたところに桧原山登山口の標識がある。中津北高山岳部が建ててくれたものだ。

 11時30分出発。見上げると左に桧原山山頂、右に台地がみえる。通りすがりのおじさんに(自分もおじさんだが)たずねてみると桧原山下台(しもだい)という名だ。付近の田にはイノシシよけの防護柵が張りめぐらされている。そういえば昨秋この付近で農家の主婦がイノシシと間違われて射殺されるという出来事があった。今年の干支はイノシシだが、何とかイノシシも猟師も登場願いたくないと心に念じながら、沢筋の杉林の雪道を登っていく。30分ほど登っていくと台地の上部に出た。先程の正平寺入り口からの車道と合流し桧原池に着く。

 桧原池は標高560mで、池は先日来の寒波で完全に氷結している。そういえば15万分の1地形図の桧原山の部分にスケートの印があった。冬期はスケートも可能なのだ。付近にはキャンプ場も整備されており、我々(大分市付近の人間が)が知らないだけで、ここは地元民の憩いの場なのである。池から程なく桧原山正平寺に着く。水を飲みたいが、寺の御神水が氷結して汲むも能わず。無人の境内に300円を納め、新年でもあるし祈願絵馬に「息子たちが大きくたくましく育ちますように、妻ともども家内安全でありますよう」としたためておく。

 ここからは桧原山の山頂に向けての登りとなるが、この付近の山は英彦山や求菩提山の影響を受け、ほとんどが修験道と関わりがあるらしく、押別岩(おしわけいわ・・・登山道に大きな岩が2つ)、針の耳・左京の橋(よこしまな心で通れぬ針の耳、左に抜けると左京の橋・・・とある)などなんだかいわく因縁のありそうな箇所が続く。ここら辺りからの眺望は良くないが、木々の間から津民耶馬渓越しに中摩殿畑山、樋桶山をはじめ県境の山々も迫ってくる。針の耳から約10分の急登で山頂に着く。

 頂上には三等三角点がひっそりとある。付近には第29回下毛郡民体育大会登山部門なる記念標識があり、地元でのこの山との親密度が伺い知れる。「山高きが故に貴からず」だ。山頂にはまた、「白山権現」が祀られている。陽当たりの良い南面側で中摩殿畑山や樋桶山などを眺めながら、中津市内で買ったレタス巻をほおばる。

 桧原山登山口の中畑の部落にあった案内板には次のように記されている。
 「桧原山正平寺は、天平勝宝四年、釈正覚上人の開創による天台宗の古刹で、毎年4月15日に神仏混合の御田植祭が行われ、民族資料として貴重なものとされている。山頂には白山権現を祀り、針の耳、左京の橋などの修験場も数多い。また、山腹には天然記念物の千本かつらがある。」・・・鳥居やら、権現様やら祠やら神仏混合というのはややこしいものだ。

 下りは大平山や瓦岳などの眺望のよいルートをとる。ここは修験場で上りと下りとがそれぞれ別々になっている。途中には役の行者の護摩焚き岩(金剛窟と書いて「ぎょうじゃいわ」と読む)や弁天岩(「こうもりいわ」と読む)など点々と修験場跡があり、興味深い。登りと下りを可能なかぎり重複を避けることを登山の大原則にしている手前、正平寺からの復路は4.5kmの林道をとる。途中パノラマ板があり地図に山名の記載の無い二つの山の名を発見し、ひとりにんまりする。大牟田山と津民富士の2山。とくに後者は富士100名山考(未定稿)の中で「大分の富士」について記した松田唯一氏の小論文にさえも記載の無い、その方面の人にとっては大変貴重な発見である。

 15時過ぎ、登山口の中畑部落着。
 登山のあとのいで湯は、今回は鴫良温泉の町営温泉センターに立ち寄る。ここは温泉センターとは名ばかりのトタン板のほったて小屋。いで湯の原点ともいえる混浴である。それがまた風情があって良いのだが・・・。県道から少しそれた雑木林の中から湯煙があがり入湯意欲をそそられてくる。小屋の中から2〜3名のオバちゃんの甲高い声が聞こえてくる。とても入る勇気がないので、しばらく時間をつぶすが出てくる気配なし。かねてよりのこのひなびたいで湯に躊躇などしているときではないと、オユピニスト諸氏の囁きが聞こえてくるようで、意を決して小屋に飛び込む。小屋に入るや中年のオバちゃんたちのはちきれるようなオッパイとお尻に圧倒されるが、ひとしきりの喧騒ののち慌ただしく皆出ていった。

 泉温は39℃くらいでかなりぬるめ。浴槽は4m×4m位で中央より透明な湯がこんこんと湧き出てきている。飲むと胃腸に効くとのこと。陽が傾き室内はかなり暗いが、トタン壁にはろうそくの用意もあり、静かな山のいで湯を一人満喫。今ごろは大分のオユピニストどもは、温泉のハシゴなどにうつつを抜かしていることであろうが、いたずらに数を稼ぐだけが能ではあるまい。これぞまさしく山のいで湯愛好会の原点と見付けたり、と一人時間の経つのも忘れ悦にいった。(コースタイム 中畑11:30−桧原池12:15−針の耳12:36−山頂12:45〜13:10−正平寺13:27−中畑15:00 昭和58年1月23日の山日記)

和尚山〜鬼落山 
 宇佐市法鏡寺よりの県道院内玖珠線を宇佐市上拝田で左に折れ、和尚山裏側の養蚕協業施設付近よりスタート。和尚山の駅館川側(西面)は傾斜がきつく登路はないようだ。東面はほどんどが伐採され新たに植林が行われようとしている。8合目付近までは養蚕関係の構造改善事業で桑園が整備されつつあり農道が通っている。車で上まで行けなくもないが、ただでさえ低山のこと、律儀に下から登ることにする。

 頂上付近まで養蚕施設より直登。約30分で稜線に出る。和尚山はメーサ状の山で頂上が分かりにくいが、最高点とおぼしき所まで南に少し行くと、程なく標高327mの山頂である。石祠がありその傍らに三等三角点がある。この日は季節風が強く石祠にあたる風が奇妙な笛のような音をたてている。北方の豊前海はかすんではっきりしないが、東方の御許山、雲ケ岳、大蔵山、西方に駅館川を挟んで妙見山が対峙している。

 この妙見山や和尚山の謂れについては、麓の院内町香下にある香下神社に記録がある。それによると養老3年に法蓮和尚が当時化生山と呼ばれていたこの山に登山したとき、西の正面の山の頂上に主祭神の輝いた尊い姿を感じたので妙見山と名付け祀ったという言い伝えがあり、以来化生山を和尚山と書いて「かしょうざん」と読むようにになったようである。

 この山は付近の部落から見たかぎりでは妙見山をはじめ他の山々の陰に隠れてさして品格のある山とも思えないが、宇佐市糸口辺りの田園地帯から遠望すると低山ながらもその端正な山容が、低い薮山さえも登山の対象として興味を持つクラシックな山ヤの目にとまることだろう。(コースタイム 養蚕協業施設9:50−山頂10:20−養蚕協業施設10:56)

 さて、次なる目的の山は鬼落山。「おにおとし」と読む。地元の人は決して「やま」とか「さん」とかまで言わない。和尚山の山麓の上拝田から車を飛ばして前出の香下部落で尾竹方面の谷に入る。尾竹部落は部落といっても今では一軒だけであり老夫婦が椎茸、ユズ等で生活を営んでいる。というのもこの谷は数年後に完成予定の香下ダムの底に水没する運命にあり、既に部落の大半は香下部落へ移転してしまい、この家が最後の一軒となっているのだ。

 鬼落山への登路を訊ねるため立ち寄ると、おじいさんが焼酎のにおいをぷんぷんさせながら、それでも親切にわざわざ地図まで書いて教えてくれた。山奥の寒村で人に飢えているのだろうか?いや、根っから素朴で親切なのだろう。話によるとこの山へは結構登る人があり、ほとんどが自分の家に立ち寄るとのこと。

 おじいさんに書いてもらった地図を頼りに谷をつめ、こけむした岩がごろごろしたところから、かすかな踏み跡を頼りに谷筋の暗い杉林の中に入り、かなりの急勾配を直登。約50分程で谷から左の尾根に出て、誰が付けたものかときおり見え隠れするみちしるべの赤いテープに導かれて、イバラの薮こぎをすること10数分で頂上に到着。

 山頂の眺望は良くないが、木々の間から鹿嵐山が仙岩山越しに指呼の距離に見ることができるほかは、さしたる感慨もない。メモを取るべき石祠や史蹟など見当らないこと、人の匂いの少なさと、1月の寒さと、季節風と、鬼でも出てきそうな風の音と、たった一人の不安感とで、往路を足早に且つトレースを見失わないよう注意深く下山。途中廃園の取り残しの柚子と椎茸を少々失敬し、冷えた身体を熱燗で癒すべく家路を急いだ。(コースタイム 尾竹10:56〜11:40−山頂12:40−尾竹13:10 昭和58年1月30日の山日記)
 (付記)今年(昭和63年)の1月にJACの定例山行があるというので、下見に行ったところ、香下付近はダム取り付け道路などができ様子が大分変わっていた。ダムが完成すれば尾竹からの登山は無理で、尾竹より尾根を一つまたいだ北側の谷か、あるいは宇佐市山袋などからのアプローチを考えたほうが良いかもしれない。 

木の子岳と西谷温泉
 病み上がりではあったが、3月陽春の3連休、しかも好天とあっては家のなかにじっとしては居れない。耳の手術で3週間ほど入院し、退院後10日も経っていなかったので、正直なところ登山などしてまた中耳炎がぶり返しはしまいかと不安ではあったが、むずむずする身体の中の何かは抑えようもない。

 マイカーを法鏡寺−院内町原口−本耶馬渓町梅の木瀬と走らせる。メンバーは我が家の総勢名。梅の木瀬から木の子岳山頂までは九州自然歩道のサブコースとなっている。林道を約1kmほど入ったところに車を乗り捨て登山となる。かなり上の方まで車でいけなくもないが、せっかくの九州自然歩道なので(この九州自然歩道に関しては歩道という言葉にかなりの抵抗を禁じ得ないが)、天気も良いしなるべくたくさん歩くことにする。

 息子たちは歩く早々「腹へったー」を連発する。傾斜の急な林道を、左手に小さな沢の水音を聞きながら登高する。いつもながら子供達はせっかく登ったのに私の所まで全力で駆け下ってはまた登っていく。まるで子犬のじゃれあいのようであるが、すぐに空腹を訴え、あてつけがましく四つんばいで這ったりしている。子供達の抵抗にあい備え付けのベンチで小休止。りんごをかじる。

 辺りはやっと春らしくなりふきのとう、つくしが顔をだしポカポカ陽気。ここからは鹿嵐山〜八面山にいたる展望が良い。とくに鹿嵐山のここからの山容は風格を感じる。25分ほどで林道は終わり、登山道となる。NHKの中継塔のある木の子岳山頂を目指して尾根づたいにしばらく登り、途中右手に大きくトラバースすること20分のところに「大岳山頂まであと急登400mとある。この山は別名大岳ともいう。

 斜面が登るほどに急勾配となり、子供達は何度も何度もあとずさりしてはべそをかく。3才に満たぬ次男にはちょっと酷かもしれないが、何とか完登してもらいたいと願うは親心か。頂上直下200mのところに思いがけずお地蔵様をみて、里人とのふれあいの深さを感じる。

 車を乗り捨てた場所より1時間30分ほどで山頂に着く。三角点があるが角が大きく欠けて何等か定かでない。山頂からの展望は中腹ほどはきかない。NHKの中継所の下で昼食をとりそそくさと下山することにする。

 下りは、登山道整備のためカマで払った無数の尖った切り口が気になり、子供を背負っての下山となる。

 帰路は梅の木瀬から4.5kmのところにある西谷温泉を訪ねる。ここは正式には本耶馬渓町西谷温泉といい、単純泉38℃を沸かしている。ひ素を含んでいるので飲用には適さない。週3回役場前よりマイクロバスの定期便が出ているが、あまり利用者はなく閑散とした感じである。長男と私が男湯、家内と次男が女湯といったいつもの取りあわせで、疲れを癒した。(コースタイム この日は時計を忘れ正確なタイムを記録できずじまいであった。 昭和58年3月20日の山日記)

中摩殿畑山
 最近いで湯愛好会の面々はトライアスロンなるものにうつつをぬかし、小生を含め本来の目的を外れた行動が目立つようである。そこでトライアスロンのトレーニングといえども、少しでも山やいで湯を取り入れたいと、最近の山行は麓までは自転車で行くことにしている。今回も自宅から四日市−桜峠−本耶馬渓−守実と、愛用のロードレーサーでアプローチを稼ぐことになる。

 中摩殿畑山の登山口となる奥畑の谷は護岸工事の最中で発破を仕掛ける直前に運良く通過し、国道より約6kmで最奥の民家。途中の鷲岩や美し岩の奇岩は一見に値する。民家の傍らに「中摩殿畑山登山口」の標識があり、登路をたずねると約1時間30分で登れるという。

 谷筋の林道を登っていくと、杉の間伐作業のおじさんに出会う。「中摩殿にお参りなさるかね?」・・・この辺の人にとって、この山は登山の対象ではなく、お参り(信仰)なのだ。踏み跡づたいに約50分で林道に出る。登山道はこの林道で寸断されており、あとで分かったことであるが、この林道を左に4〜5分位歩いたところにあり、注意深く見ると指導標がありそこを登ることになるのだが、とにかく頂上とおぼしきところの最短距離を直登することにする。石楠花の群生する尾根(この尾根の石楠花の群生状況は鹿嵐山の比ではない。開花シーズンには是非再訪したいものだと思うくらいのもの)の薮漕ぎを15分程で標高991.2mの山頂に着く。

 三等三角点の山頂は弁財天の石祠があり、お堂の前の鳥居には「八大龍王宮」と書かれている。雨乞の祈願と関係が深かろうことが伺い知れる。小雨がぱらつきはじめ足早の下山となる。帰路はノーマルな登山道を取る。民家近くで往路に出会った里人から「中摩殿畑(なかまとのはた)にお参りして来なしたかえ?」と声をかけられ、一瞬考える。「はて、この山は(なかまどんのはたやま)と読むと聞いていたが」と聞きなおすが、「殿」を「どん」などと読むことは知らないという。五条殿山にしても「殿」はこの付近では「どん」と発音すると梅木氏の「大分の山の名覚え書き」にもある。昔は「どん」であったものが伝承が途絶えてしまったものであろう。悪貨は良貨を駆逐するのたとえに似ている。

 14時前登山口に戻り、再びロードレーサーにまたがり、そこよりは柿坂まではサイクリングロードを通り、耶馬渓ダム経由で深耶馬渓早梅温泉で疲れを癒して岳切渓谷の山道に悪戦苦闘の末、何とか宇佐の我が家に帰り着く。ワールドトライアスロンインひろしま出場のトレーニングとして、本日は自転車120km、登山8kmとまずまずのトレーニング成果であった。(コースタイム 自宅9:10−登山口12:42−林道13:30−山頂13:49〜14:00−林道14:08−登山口14::53 昭和61年8月30日の山日記)

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