忘れ去られた80年の時を求めて

 私たち‘遭難碑修復調査隊’一行は7月10日、約80年前・昭和5年8月11日、遭難した九大医学部生廣崎、渡邊両名が登路に選んだとされる沢水展望台から本山登山道を経由して、途中、鳴子山付近のオオヤマレンゲを鑑賞したのち、午前11時過ぎに池の小屋に到着した。
 遭難碑は御池を見下ろす台地
(標高約1740m)にある(地図中央よりやや左側のマーカー)。
すでに前回雨中の登山で確認済みだ。

 この日は時折陽が差す高曇りの天候で、小屋から西方の台地を仰ぎ見てすぐにそれと分かった。「すぐに」分かったのはもちろん、事前の心づもりがあってのことゆえだが、ここを登路に選ぶ登山者は少なく、また、仮に居たとしても、かなりの大きさの、この‘岩の堆積物’が一体全体何のためにここに鎮座しているのか、不思議に思うこともなく通り過ぎる、と言った具合だろう。

碑文を刻んだ石板は何らかの理由により約1.5mの台座から脱落している。刻まれた文字は、当初風化により判読不能と思われたが、実はずり落ちたのではなく碑文の刻まれたオモテ面を下にしてうつ伏せに倒れ込んだ状態であることが判った。倒れた石板の上面は、その後いたずら書きと思われる文字が刻まれたりしており、これが表面の風化で判読不能となったものだ。

 しかし、幸いなことに下側となった碑文などは、長年の風雪にさらされることもなく風化を免れていた。高瀬会員が石板下側のわずかな隙間に潜り込み、明瞭な碑文や、径約60cm円形の絵模様など確認したが、何分にも狭い空間で全容を把握するには至らなかった。刻まれた文字は彫りが深く明瞭であり、石板を起こしさえすれば、全容把握は容易と考えられた。
 それにしても、一体どうしてこれほどの大きさの石板が剥がれ脱落したかだ。考えるに先ず、接着面に水がしみこんで凍結により膨張したこと・・・接着面は完全な垂直ではないので、それならばずり落ちる程度でよいのではないか、それよりももう一つ考えられるのは昭和50年の大分県中部地震だ。レークサイドホテルや横断道路の大規模な倒壊など当時この御池付近も激震であったに違いない。
左の写真は‘調査隊’一行左より、下川氏、土木技術者・高瀬、加藤会長(狭間会員撮影)・・・下は碑文の一部。

下の2枚の写真:「昭」の字が写されていないが、昭和6年つまりこの遭難碑が建立されたとされる時期(九重山法華院物語−山と人−松本征夫・梅木秀徳著)とも一致した。

 ところでこの石板、縦横130cm×195cm、厚さは1319cm(平均で15cm厚くらいか)、建立時は写真左の石塔に長径を横にして貼り付けられていたであろうことは容易に想像される。また素人判断であるが、組成は火山岩の一種と推定される。重量はその場の暗算で当初推定150kg程度としたが、一般的に文献などに記載されている大きい値を採った場合、火山岩の比重は約2.5、そうすると総重量は約950kg、つまり約1トン近い重量と推定されることになる。本気モードではないにしても、4人がかりで端を持ち上げようとしてもビクともしなかったはずだ。単純な計算間違いとはいえ、当初の推定重量150kgは、まったくの見当違いであった。
 さてこの修復作業であるが、当初思った以上に難工事が予想される。余程心してかからねば・・・というより少人数の個人レベルで済ませる話ではなさそうな気がする。(以上、文責:加藤英彦)

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