『山の旅人』  −アラスカ垂直と水平の旅−


クレバスを 踏み抜くせつな 母の顔        
 1998年3月8日、午前7時50分。北米大陸の最高峰、アラスカ山脈のマッキンリー(6194m)を目指し雪洞キャンプを出発した。単独で入山して24日日にたどりついた、頂上へのアタックだった。歩き始めてまもなく片足がヒドン・クレバスを踏み抜いた。雪や氷に覆い隠された氷河の深い裂け目だ。落ち込めばまず助からない。幸い事なきを得たが、その一瞬、母の言葉が脳裏をよぎった。

 厳冬期のマッキンリーに出発する前夜のことだった。私は自宅でリュックサックに登山装備を詰めていた。荷造りを手伝ってくれていた母は、ふと、つぶやくようにこう言った。
 「あなたを産んでいないつもりで待っているから ・・・・‥」

 私は言葉につまった。息子を心配する気持ちが痛いほど分かった。無事に帰ることだけを祈っているからね、という母のメッセージを胸に刻み込んだのだった。

 雪洞から1時間40分の登りで、標高5550mの平坦地に到着。ここでしばらく休憩を入れた。温かい紅茶をすすりながら、これまでに登山した周囲の山を懐かしい気持ちで眺める。アラスカでの山旅を回想していた私は、知らず知らずのうちに10年前まで記憶をたどっていた。

        



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 私が登山を始めたのは、15歳のときに観た邦画「ラブストリーを君に」がきっかけだった。大学山岳部の主将と不治の病の少女との、切ない恋物語を描いたものだ。そのラストーシーンでの悲しい結末に北アルプスの美しい夕景色が重なり、私は深く感動した。「あんな山の景色をこの日で見てみたい」との思いが募り、修猷館高校山岳部の門をたたいた。入部当時の部員は16人。夏合宿では北アルプスを縦走し、雪渓滑りや大パノラマを満喫した。また、冬は山陰の大山へ出かけ、登山のほかにもソリ滑りやスキーで雪と戯れるなど、のびのびと楽しみながら活動していた。

 その後、本格的な冬山や岩登りもやってみたいと、進学した九州工業大学の山岳部に籍を置いたが、「部員が一人だけ」という現実が待っていた。それでも、休部状態だった山岳部をたった一人で復活された先輩の志と人柄にひかれていた。幸いに私の入部後も部員が徐々に増え、山岳部の山行が活発になっていった。そんななか、私に大きな転機が訪れた。94年の秋、オートバイ整備中に誤って起こした指先切断の事故をバネに、それまで単なる夢だった海外登山を実現しようと決意した。

 『アラスカ物語』(新田次郎著)に描かれた極北の自然に憧れていたことに加え、期間や費用などの条件からマッキンリー登山を計画した。そして95年の夏、山岳部員と二人でマッキンリーに登頂。そのスケールの大きさ、自然の美しさ、神々しさに大きな衝撃を受けた。このときの感動を忘れられず、私は再びアラスカの地を踏むことになる。96年の春に単身アラスカへ渡り、マッキンリーに連なるハンター(4442m)とフオレイカー(5304m)を訪れた。こうしてアラスカ山脈の夏と春を体験した私は、しだいに冬に興味を抱くようになった。さらに、冬のマツキンリーの登山経験者や気象の研究者との貴重な出会いのおかげで、この冬山について多くの情報を得ることができたのだ。96年秋から冬のネパール・ヒマラヤでのウォーミングアップを済ませた私は、97年2月、憧れの冬季マッキンリーヘと旅立った。

 初めての冬のマッキンリーは、頂上まで標高差1000mの地点で引き返した。猛烈なブリザードに阻まれて露営が長引き、計画した下山日まで残り時間がなかったからだ。氷壁を下りながら「また来年も登らせてもらうばい」と山の女神に誓ったのだった。

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 キャンプを出発して、すでに4時間が経過していた。標高5900mの大雪原から、頂上へ続く最後の登りにさしかかった。南の風が不気味な雲を運び、山頂付近が霧の白いベールに包まれ始めた。刻一刻と天候は悪化している。今後の進退について心の葛藤が始まった。
「急げ!山頂はもう目と鼻の先だ」
 頂上を目前に高揚している私が叫んでいる。
「落ち着け!ここで霧に巻かれれば、もう命はないぞ」
 はやる気持ちを抑えている、もうひとりの醒めた
私がそこにいた。
 高度をかせぐ速さ、天候悪化の度合い、また帰路での視界の確保について考えてみた。頂上での長居は禁物だが、どうにか往復できると判断。「前進」と腹を決める。あとは時間との闘いだ。

 雪洞掘りで壊した右の眼鏡が曇ったまま凍ってしまう。左目だけで急峻な尾根をなんとか進む。冬季アラスカ山脈の厳しくもまた美しい自然に対して、畏敬の念を抱かずにはいられない。この大自然を旅することで、私がいかにちっぽけな存在であるかを痛感。そしてこの世界によって、私自身が深く感動しながら生かされていることを実感する。庇のように大きく張り出した雪稜を越えた途端、山頂が視界に飛び込んできた。
 午後1時6分、マッキンリーに登頂。
 霧、気温マイナス37度、南からの疾風。
 感極まる。寒さで涙が凍りつき心で泣く。
 頂上滞在、わずか1分。あることを感じていた。

 登頂していったい何が変わるというのか。山が変わるわけではない。それではなぜ、私は今こうして立っているのか。山頂は何も答えてはくれない。もし仮に、何かが少しだけ変化するというのなら、それは登山者の心の奥深くにあるものだろう。山頂には登山者の夢がある。その頂に立って夢が実現すると同時に、その夢は消えてしまう。しかし、また新たな夢がひとつ生まれる。嬉しいという気持ちと悲しいという気持ちが交錯する。こういう思考を繰り返すことにより、登山者自身の“心の糧”を少しずつ得ていくのだろう。

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 マッキンリーの山旅を終えて3週間後の4月3日、水平の旅へ出発した。水平の旅とは、太平洋側のアンカレジから北極海側のブルドー・ベイまで、アラスカの大地をリヤカー引いての徒歩縦断である。その距離およそ1400km。冬のマッキンリーのひとり旅(垂直の旅)とは対照的に、平地の雄大な自然と人々の暮らしに触れながら水平方向に旅をしていくものである。徒歩の理由はいたって単純。山旅と同じように、一歩一歩、ゆっくり歩いていくプロセスを楽しみたいと思ったからだ。速さや便利さだけを求めていくと、旅の途中にある多くのものを見落としてしまうことになる。それがもったいないと思えてならなかった。そこで、「けっして走らない」「人々の厚意は素直に受け入れる」「魚釣りを存分に楽しむ」など、自ら決めた六つの心得に従って旅を進めた。

 時速4kmの旅で見えてきた世界は、実にさまざま。道端にひっそりと咲く花。林を吹き抜ける爽やかな風。梢から聞こえる小鳥たちのさえずり。そして、行き交う人々との心温まる出会いの数々…。
 こうして7月6日にゴールした北極海で、私の手と引いてきたリヤカーを海水に浸して水平の旅は幕を閉じた。マッキンリーとアラスカ縦断、それは私にとってかけがえのない経験となった。
(注:本稿は財団法人・九州地域産業活性化センター会報33巻紅葉号2001年9月発行に寄せられたもの)

              

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