地球紀行 アラスカ編 〜極地からの警鐘〜
                          栗秋正寿

(2002年11月5日(火)、西日本新聞(朝刊)11面に掲載)

             
        残照のマッキンリーをフォレイカーのキャンプから望む。下方にはクレバスが大きな口を開いている

1 氷河の後退

「ドーン」「ゴーッ、ゴーッ…」

ジェット機の爆音のようなとどろきが、山々にこだました。今年1月、アラスカ第三の高峰、フォレイカー(米国アラスカ州、5,304b)に入山した私が直面した、落差2,500bにもおよぶ大雪崩。カヒルトナ氷河まで落下した雪崩は、少しも勢いに衰えを見せず、雪原を3`も突進した。

山頂直下の氷河が絶壁の縁に押し出され、亀裂の入った氷塊の一部が突然くずれ落ちたのだ。幸運にも雪崩のルートから1`離れたフォレイカーの尾根にいた私は、身のすくむ思いをしながらも、雪まじりの突風を浴びただけで済んだ。

氷河は、極地や高山の万年雪が上層の積雪の重さで氷塊となり、低地に向かってゆっくりと移動する、まさに“流れる氷の河”。アラスカには大小約10万もの氷河があり、総面積はアラスカ全土の5%、日本の国土の20%に相当し、今も活発な動きを見せている。

アラスカ山脈の北側を流れるピーターズ氷河では、最近、大きな流動現象が起きていた。1986年から’87年の冬にかけて、氷河の一部が5.6`も急速に流れ出し、大地を陥没させたり隆起させたりしたのだ。このような現象を含めて氷河の活動は、気候変動と密接な関係があるといわれている。

アラスカの氷河流出を早めている一因に、気候の温暖化がある。例えば、プリンスウィリアム湾に流れ出ているコロンビア大氷河では、12年前には1日1〜2bだった流出速度が、平均気温の上昇に伴い、今では同7〜10bまでスピードアップ。1日の最高流出量は以前の5倍、2,000万dにも達している。

これは氷河が短くなることを意味し、「氷河の後退」と呼ばれる現象だ。現在、アラスカ山脈も含め、アラスカの大部分の氷河は少しずつ後退している。

     *     *     *

氷河の流動によって生じる深い裂け目‘クレバス’は、口を開いて常に登山者を待ち受けている。なかでも雪や氷で覆い隠されたヒドンクレバスは、登山者から見分けにくいため、もっとも危険な存在だ。

ゃ99年4月、フォレイカーからの下山途中、私は不注意でヒドンクレバスに落ちてしまった。下山時に備え立てた目印の旗ざおで、クレバスの位置はほぼ見当がついていた。が、50日前にわずか10aだったクレバスの幅が、120aにまで広がり、予想以上に氷河は流動していたのだ。

旗ざおが残っていたことで私は安心し、そして油断した。雪面に突き刺していたヒドンクレバス探知用のストックが、旗ざおの手前でズブッと入った。「えっ?」。思った瞬間、そのまま、一気に落ちた。深さ約15b、クレバスが狭くなった所で止まった。

心の動揺を抑え、負傷している太ももにリュックのフレームを副木として当て、テーピングで固定。はい上がるため、持っていた装備や食糧など約40`の荷物のうち、半分を処分した。残りの荷物は後で回収できるようロープをつけ、何も背負わずに氷の壁をよじ登った。手をいっぱいに伸ばしてアイススクリューをねじ込み、それにロープを結んで身体を確保しながら、ピッケルを打ち込んでずり上がった。

奮闘、およそ2時間。氷の闇から脱出したとき、自分が授かった‘強運’に、涙せずにはいられなかった。

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氷河の後退で、そこに足を踏み入れる人間にとっては、ますます危険度が高まっている観のある冬のアラスカ山脈。生の営みを寄せ付けない極限の環境−そんな私の意識を覆すのは、どこからともなく飛来するワタリガラスだ。


        フォレイカーの尾根には、私の足跡を追うように、ワタリガラスの歩いた後が点々と

「コロン、コロン」とのどを鳴らすワタリガラスは、ヨーロッパ、アジア、北アメリカなどに分布する大型のカラスの一種。インディアンをはじめアラスカ先住民たちの創世神話では、この世を作った創造主として語り伝えられている鳥である。ちなみに神話のなかの私たち人間は、ワタリガラスがこの世界に作り上げた不完全な創造物の一つだという。

アラスカ登山では、きまってワタリガラスを見かける。特に今年は、私の足跡に沿って、ワタリガラスのつめ跡が雪面に続いているのが分かった。フォレイカーの尾根で荷上げをしていた私は、一羽のワタリガラスに追跡されていたのだ。

私が休憩した場所では、腰をおろした跡や足跡が多いためか、ワタリガラスが丹念にくちばしでつついた跡も残っていた。きっとワタリガラスは、そこに私が食糧を埋めたと思い、えさを探していたに違いない。’96年のフォレイカー登山では、私のミスから5日分の食糧をワタリガラスに食べられてしまうという苦い経験がある。

厳冬のアラスカ山脈は、酸素が地上の約3分の1から3分の2、気温は氷点下50〜60度まで下がる世界。いったい、あのワタリガラスはどのように寒さをしのぎ、生き延びているのか…。彼らの生命力のしたたかさ、どん欲さに脱帽する。無機質な高山の氷河地帯で「生命あるもの」は、このワタリガラスと私だけだった。(つづく

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