おゆぴにすと、肥前の奇峰と湯巡りに嵌まる!の 【後編】           栗秋 和彦

          
                岩屋集落付近から仰ぎ見る虚空蔵山

 翌日曜日、心配していた雨も上がり西方の空には光明も見い出だしつつ、先ずは国道34号を南下。県境を越え川棚町から目的の虚空蔵山へ迫った。なるほど川棚町から見る虚空蔵山は矢尻の穂先のように尖り、屹立して「肥前のマッターホルン」と言うにふさわしい山容で迎えてくれたが、それよりも我々を感嘆させたのは、麓の岩屋集落から上木場地区にかけて急峻な斜面に延々と構築された棚田の景の圧巻さだ。その規模と言い、きめ細かな山間の土地の活用方に先人の英知と労苦、そして苛酷な環境下で営々と続けてきた稲作への執念といったものが窺えるのだ。

 この手のネイチャーリングに詳しい高瀬によれば、既にこの地区は「日本棚田100選」に指定されており、折り紙付きの風景だった訳だが、そのほとんどは田植えを終えたばかりで、青々しい苗が疎らに水面をそよいでいるのみで、まだ「田」としての体をなしていない。まるでこれらは小さなダムの集合体に見えるのだ。ふ〜ん、我がニッポン国、田舎は過疎化がすすみ、特に林業などは人手が足りずに荒れ果てた山里のイメージが先行してしまうが、人の手がきめ細かに入ることにより、趣の残る景はまだまだ多い。改めて伝承していくことの重みが分かったような次第。そしてこんなときの高瀬は瞳を輝かせ、鼻を膨らませながら訥々と解説に廻る。もちろんこのひととき、聞き役に徹しなければいけないところだが、デジカメ命の挾間には車窓からの風景が気になるらしく、同時進行を受け止める器用さは持ち合わせぬか、まぁいたし方あるまい。

 おっとおっと、本題はコクゾー山であった。上木場集落は急坂のさなかにポツンポツンと点在し、それが途切れて上り詰めたところで水平林道に合する。ここが登山口で立派な案内板が出迎えてくれる。先ずはこの山塊の概要を掴み、おもむろに沢沿いの杉やヒノキの植林地登りから久々の登山開始だ。ここに来て降ったり止んだりの空模様も気になるところだが、博多へ転勤してこのかた滅私奉公を強いられっぱなしでは、エクササイズもままならず、低山歩きでさえ一抹の不安がよぎった。が、杞憂はここまで。すぐにリズムを取り戻してペースを作った。

 そしてほどなく新道と旧道との分岐点である。が、迷わず新道へと取る。このルートはガイド本によると鎖や鉄ハシゴの難路とあって、背後に控える小舅
(こじゅうと)たちの意向は聞くまでもなし。意図的にファミリー向けの旧道へ取ろうものなら彼等から非難轟々の言を浴びせられる事は予測の範疇であって、このあたりはまがりなりにも青春の一時期、「岩と雪」に人生を捧げた彼等のDNAを意識せざるをえないし、これらを引きずった上での「あうん」の呼吸と言えなくもない。とまぁ、小難しい推論はさておき、短時間ではあったが全身を使って(傘を開いて四つん這いのシーンだよ)の登山もまた愉しかりである。

    
      途中の分岐では、小雨の中にもかかわらずもちろん‘冒険コース’をルートに採る

 さて樹林帯を突っ切って躍り出た山頂は東西に細長く、南側は奈落の断崖となって、その果てに湖水のような大村湾が広がる様は雄大かつ繊細だ。一方、振り返って見る多良山系やその奥の雲仙、北方の天山、黒髪、国見山系は大ようで淡い彩りの中に浮かび上がっていて対照的だ。それでも異邦人の我々には細かい山名が分からず、まごまごした表情を悟られてしまったのか、先着の単独行おじさんが案内役を買って出てくれる。旅は情けだ、おもんばかりの精神が大事だ!と云う訳でここは聞き役に廻り、好意を態度で返したつもりだったが、案内そのものよりも見事な佐世保弁が、我々をして異国の山のてっぺんにいることを実感させてしまうのである。うん、これもまた旅のなせる業(わざ)であろうぞ。

           
              大村湾をバックに念願の虚空蔵山山頂にて

 で下山路は遠回りになるが岩屋へ取り、水平林道に出くわしたところで、この山塊を回り込むように上木場登山口を目指した。そして林道はいくつかの尾根を回り込むと、突然視界いっぱいに虚空蔵山を仰ぎ見るポイントを提供してくれたが、まるで緑々の大海原から盛り上がるように現れた、ゴジラ君の背骨隆々たる釣鐘モドキの勇姿を連想させてしまうんですね。そしてそれは天が創りたもうた不思議な空間に、もっこりと隆起したオブジェではないかと思ってみたりもするのです。この感覚、分かるかなぁ!ハサマさん。

   
    帰路は別ルートを               雨上がりの虚空蔵山

 一方、世俗的な価値観で申せば、九州百名山(山と渓谷社刊 92.4.1初版第一刷発行)の一つを新たに稼いで、意気揚々と下山した訳で、先ずは再び嬉野温泉街へ舞い戻った。次なる武雄温泉のど真ん中、これまた奇峰と呼ぶにふさわしい御船山(みふねやま・207m)を攻るにあたってのひとときの休息であって、決して小舅おじさんたちのように物見遊山に土産店を冷やかしたり、またぞろ八頭身美人系との遭遇を期待して(真っ昼間だよ?)街中を探索しようと立ち寄った訳ではない。ここんところは一線を画しておきたいが、その証左に温泉街のど真ん中、小公園内にしつらえた「シーボルトの足湯(※2)」で一人瞑想の時を費やしたのだ。

 とは言っても先客の(ややオバサン化した?)婦女子5名との会話は忘れない。お互いの氏素姓はもとより、この湯に浸るまでの経緯、これからの行動計画などなど(まさか携帯番号なんぞのやり取りはなかったが
...)、これは旅の礼儀であって、同じ湯溜まりを囲んで寡黙を押し通すのは非礼だからだ。そこんところを知ってか知らずか後刻、土産の嬉野茶を携えた両人(挾間&高瀬)は、子供のようにはしゃぎつつ、「旅の趣」としての我々の会話に、にじり寄ってくるのだ(折角、いいところだったのに!)。これにはまいった。「大人としての会話ができないではないか!」などといさめても、まぁおじさんたちの心はたわいもなく、少年のDNAを引きずっているのだから看過してお茶を濁すしかあるまい。

 で、御船山である。前述のように武雄市街のど真ん中に屹立する岩山だが、登山対象というよりもこの山の西面一帯は御船山楽園と称し、武雄28代領主・鍋島茂義が江戸後期弘化2年(1845年)に京都の画家を招いて造らせた別邸跡の庭園なのだ。咲き誇る四季折々の花園の見事さで有名であって、ウメの花に始まり、サクラ、ツツジ、フジ、シャクナゲなどが全山を覆い尽くす様はそれはそれは見事、一服の絵を見るようである、とはガイド本の定形句である。しかしちょうどこの時期はいずれも遅しで、花に酔うことはなかったが、荒々しい流紋岩と緑々の雑木とのせめぎ合いは、初夏のこの山を雄々しく見せてくれる。ところが行き当たりばったりの身では、どこから登るのかも分からず右往左往したあげく、東側の御船ケ丘梅林がそれとやっと突き止める体たらくであった。やれやれ。
    
          御船ヶ丘梅林から御船山目指して

                 

さて登路はその梅林を通り、朽ち果ててかろうじて原形をとどめている稲荷社の鳥居を抜けてから始まった。いざ取付くと、低山と侮っていた分、たかだか200m程度の標高に、こんなに苦労しなければならぬのかと思うほど、ただひたすら愚直に上を目指すのでえらく堪えた。しかし雑木帯からいきなり天が抜けると、一変して涼風爽やかな頂だ。これまた肥前の山々をぐるっと見渡せる格好の展望と、市井の生活が垣間見れる市街地を見下ろして、苦労した分、また格別の気分であった。

                    
                       御船山山頂にて

 しばし眺望を楽しみ、遅い昼食、そして他愛もないおゆぴにすと£k義と、時の移ろいを忘れさせてくれたが、個人的にはまさにこの忙殺と激動の2ケ月余りの疲弊心をリセットするに、充分なひとときではなかったかと反芻してしまう。そしてボクはやっと肥前国の山といで湯で癒されているのを実感するのだ。もちろん仕上げは竜宮城を模した武雄温泉館・蓬莱の湯で、葉隠れの里の初夏を満喫できたことは言うまでもないが、先ずはこの旅のお膳立てと、珍道中を画策して下さった小舅おじさんたちに感謝するのみである。


              
                  武雄温泉

(※2)平成12年10月、嬉野温泉商店街のど真ん中に誕生した新名所で、24時間無料で楽しめる。シーボルトとこの湯の出会いは文政9年(1826年)、オランダ商館長の江戸参府に随行した際、藩主のみが使う「御前湯」に入ったとされている。

(コースタイム)

5/25 嬉野・立岩展望台9:10⇒(車・川棚町経由)⇒上木場登山口10:12 26→(木場新道経由)→虚空蔵山11:10 28→岩屋登山口11:47 50→(林道を歩く)→上木場登山口12:13 18⇒車⇒嬉野温泉・シーボルトの足湯入湯12:45 13:15⇒武雄13:30〜50(御船山周辺彷徨)〜御船ヶ丘梅林登山口13:57→御船山14:17 15:09→登山口15:25 32⇒車⇒武雄温泉・蓬莱の湯入湯15:37 16:30⇒(車)⇒JR武雄温泉駅にて解散16:35
                               (平成15年5月24〜25日)
Photo by Hasama & Takase

                        home