よしぴー自伝(1987年)

1987年。ようやく「ミュージシャン・吉田尚史」としての
認知度が高まってきた。
この年は20曲以上作曲した記憶がある。
曲を作る度にレコードならぬ「歌本」を広告の裏などで作っていた。

とはいえ、この頃の俺は「病んで」もいた。
俺の小学校時代を知らない人が見たら
「小学生で一年で20曲も作れるのは凄いよ。」
と思うかもしれない。
歌なんて大した事はない。
相変わらずコードも知らないし、ガーッとメロディーラインを浮かべて
意味のない詩、ふざけた詩を載せて行く。
カッコ良く言えば「ロックンロールはそれでいいんだよ!」
となるが、詩の内容も所詮小学生レベル。

チャリンコで公園に行き、一人で突然コンサートを開いた。
自分ではスーパースターになったつもりで酔いしれていたが、
どこからともなくやってきて、
すべり台の上に立ち、誰も聞かないのに「俺の歌だ!」
と言って熱唱する。
周りから見たらただの怪しい奴だ。
何でもいい、この頃はとにかく「有名」になりたかった。
俺の事をよく知らない奴は「病気」だと思っていたようだ。

そうやって、歌を作っていって、「自由愛好会の歌」
という歌が出来た。
多分、俺と小中学校一緒の学校でこの歌を知らない人間は
ほとんど居ないはずだ。
あらゆる場所で歌っていた。
「歌」があるなら「自由愛好会」も作らないと。
と「自由愛好会」を結成。
目的も何もないのに、53人も入った。
まぁ、今考えればほとんどが冷やかしだ。
男だけだったような気がする。
特に理由もない。あるとすれば、自分が女の子に話しかけきれんだけだ。
自分としては消したい過去でもあるのだが、
「そんな馬鹿な事もやっていたな」と思い、俺の歴史に残す。

成績は下の上か下の中。
この頃、両親は「行く高校がない…」と嘆いていたらしい。
そんな男が旧帝大に一浪はしたが受かるんだから人生わからんもんだ。
大学では又落ちこぼれてしまったが。

この頃、こんな事があった。
遠足の時、「一人でお弁当を食べる人が居ないようにしましょう。」
そんな事を先生が言った。
「フン、友達のいない俺にそんな事出来るか。」そう思った。
実際、この頃、心底「友達」として付き合っている奴は皆無だった。
理由は上を見ればわかるだろう。
更に言えば、今になって考えてみれば女の子からは
学校で一、二位を争うほど嫌われてたように思う。

まぁ、弁当を食べる時ぐらいは一緒に食べようと思えば食べる人がいた。
しかし、普通なら一人で食べようなんてすると、
「一緒に食おうぜ〜」と誰かしら来るものだろう。
そういう奴はいなかったからずっと一人で食べようと思えばそうする事が出来 た。
で、実行に移した。
弁当の時間、お菓子を食い終わるまでずっと一人で行動した。
まぁ、孤独も好きだったりしたので、別に寂しい思いはしなかった。

で、帰る時。「今日は一人で食べる人が誰もいなくて良かったですね。」
おい。
俺をシカトするのかよ。
先生なんてそんなもんか。
そう思ったのはずっと後のことだったが、
「ははは、俺一人で食いよったにあんな事言いよら。」
そう嘲笑ってやった。

小学校6年と言えば、修学旅行。
当時、大分市の小学校の修学旅行は、阿蘇、熊本、太宰府だった。
熊本の遊園地「ひのくにランド」で一泊。
丁度この日、誕生日で、「ひのくにランド」から
テレホンカードをもらう。
当時、大分県には高速道路がなく、
大分自動車道は福岡県の朝倉I.C.までしかなかったので
結構大変だった筈だ。

この年は俺が住んでる地区の地区長も勤めた。
何てことはない。
地区長を決める日に2時頃から見たい番組があったから
早く終わらせたくて俺が立候補しただけだ。
しかし、俺と副地区長以外は少年野球をやってたから
どっちにしろ俺になっていたのかも。

夏休みは毎朝6時20分頃にラジオを持って来てラジオ体操の準備。
一度寝坊した事があって、その時は一軒一軒に謝って回った。
そういえばこの頃は近所の2〜3歳下の子供達と良く遊んでいた記憶がある。
彼らは小学生の頃の姿しか記憶に無いが、今はもう皆成人しているはずだ。
実家に帰っても会う事はない。

思い出は色々あるが、まぁそんな調子で毎日を過ごしていた。

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