よしぴー自伝(1984〜1986年)

1984年。特にこの年は何が起きたか覚えていない。
が、唯一覚えている事がある。
当時劣等生だった俺は廊下に座らされ、
その時同級生からノストラダムスの大予言の話を聞かされ、泣いた。
核爆弾がどうのこうのという話を聞いたが、
当時「核」という言葉を知らず、よくわからなかったのだが…

1985年。
この時の担任の先生が厳しい人だった。
いわゆる「問題あり」な方で、翌年、別の小学校に転勤し、一年生の担当になり、
「精神統一」と称して、クラス全員、卵の上にひざを乗せ、正座させたという。

その年までトイレに行った後に、小便の時は手を洗わなかったのだが、
その先生に「汚い」と言われて洗うようになった。
と同時に、潔癖症が始まった。トイレのドアノブを触れなくなった。
これは未だに治らない。

いじめられながらも割と自由奔放に生きていたのが、この年を境に、
暗くじめじめしたものに変わっていった気がしないでもない…

多分この年だったと思う。
5月。10歳の誕生日。
6月ぐらいまで、クラスで誕生会をしていた。
5月生まれは3人。
前に3人座る。俺は真ん中。
そこで、それぞれが作った誕生日プレゼントを好きな人に持っていくのだ。

人の波は両端に分かれた。
俺にプレゼントを持ってくる人は誰一人として居ない。
それを見かねて先生が「吉田君の所にも持って行ってください」
と言ってようやく、少しづつ、俺の所にも人が来た。

当時はそれだけ嫌われてたようだ。
と同時に、子供って本当に正直だと今、客観的に思う。

この年、新聞配達を始める。
生まれて初めて自分の手でお金を稼ぐ。
しかし、担任の先生から「小学生が働くもんじゃない」
と、辞めさせられる。

この年の学級新聞が実家に残っていた。
自分の自己紹介を書いている奴だが、「将来の夢」の所に
「歌手になりたいです。理由は有名になりたいからです。」
とあった。

この頃には音楽の道を進もうと考えていたようだ。
ただ、「有名になりたいから」だったので、
コメディアン、漫画家などという道も考えた。
今俺がバラエティ番組を見るのが好きな理由の一つでもあるかもしれない。

パソコンとの出会いも実はこの年。
MSXという、ディスプレイはテレビという形の、
当時テレビショッピングでよく売っていた奴である。
ただ、記憶装置がなく、カセットテープで外につけていたのであるが、
その機械さえも別に買わなければいけない…
そういうチャチなものだった。
しかし、BASICというプログラム言語を用いて
自分で簡単な数行のプログラムを走らせるようになる。

1986年。スイミングスクールに通いはじめる。
当時、運動神経ゼロ(今もまたそうなってるが…(^^;)だったが、
これのおかげで水泳だけは人並みにできるようになった。
ところで、大分といえば温泉。
こういう所のプールは、温水プールが普通であるが、
大分のスイミングスクールのプールは温泉プールである。
プールの水も温泉なら、小さい浴槽もあり、
終わった後、入ったものだった。

そしてこの年から徐々に音楽の世界に入り込む。
「ドジッ太君」という激おもしろくない自作マンガも書いたりしていたが、
結局絵の才能などあるはずもなく、気がつけばやめていた。
そして、少しづつ曲を作っていくうちに欲が出てきた。
「…俺が作った曲を演奏したい…」
それまでは伴奏などなく、いわゆるアカペラ。
その答えは3年後にやって来るのであるが…

この年からだったか、田尻小ではたてわりというやつを実施する。
ようするに学年の枠を超えて仲良くなりましょうというやつだ。
レクレーションでフルーツバスケット等をやるのであるが、
3回鬼になった奴が罰ゲームとして歌を歌う、
というルールであるが、俺はその罰ゲームをやりたくてわざと負けていた。
とにかく人前で歌いたかった。
誰かが負けた時に「俺が代わりに歌う」と言った事がある。
別に親切心でもなんでもない。
俺が歌いたかったから代わっただけだった。
しかし、今考えると罰ゲームが罰ゲームではなくなる訳で…どうなんだろう。

この頃、同級生に言われていた言葉があった。
「吉田に出来ることは誰でも出来る」
要するに俺が世界で一番のダメ人間、というレッテルを貼られていたのだった。
実際、当時、勉強もダメ、スポーツもダメ、人間性もダメ…
俺は何事も人より劣っていて当たり前。
大人になって、人より優れているものができたのかもしれないけれども、
自分ではよくわからない。
この言葉は、未だに俺の胸に突き刺さる。

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