よしぴー自伝(1982年)

4月、俺は大分市立田尻小学校に無事入学する。
1980年にできたばっかりの新設校だ。
当時1000人を超えるマンモス校だったこの小学校も
今となってはその3分の1しか児童がいない。

入学前に知能検査みたいなものを受けたが、
「こんなん、わかるカァッ!」
と、鉛筆を投げた記憶がある。
それからの事は覚えてないのだが…

「ドラえもん」の愛読者だった俺は
「のび太みたいにはならんで小学校に行ったら100点ばっか取るけん!」
そう言っていた。

小学校に入学した時点で俺は小学校で習う漢字程度なら全て読めたし 、
小2程度の漢字なら書き取りも出来た。
それで国語は放っておいたのだが…
そのせいで気がつけば国語が苦手になっていたのかもしれない。

小学校に入ると牛乳が嫌いになった。
幼稚園時代は飲めたのである。
婆ちゃんと牛乳早飲み競争なんてものをしていたのだ。
給食の牛乳を飲んで嫌いになった。
今でも牛乳嫌いは治らず、身長も166cmから成長しない。

また、これは記憶にないのだが、この頃、
何かの拍子に靴が脱げて、50mぐらいのとこにあったのに
自分で取れずに泣き出して、親が呼び出されたらしい。

で、小学校入学まで一人称は「尚史」を使っていた。
小学校に入ってクラスで手を挙げる時があった。
「僕、僕…」「私、私…」
さすがに小学生ともなるとそういう一人称を使う。
「尚史、尚史…」なんて言ってたのは俺だけ。
「吉田君。」
担任の先生が注意した。
「自分の事は『僕』って言いなさい。」
「僕」なんて言うのは嫌だった。気持ち悪かった。
だから、次の日から「俺」を使うようにした。
小学1年生が「俺」だぞ。全く…

もう一つ思い出した。
算数の時間。
「モノを数える時には何個づつに分けた方が分かりやすいですか?」
そんな質問があった。俺は5個づつに手を挙げた。
10個づつだと8個や9個の時一見してわからないからだ。
しかし、正解は10個づつだった。
当時、その意見にも納得はしたのだが、何かやりきれないものがあった。

そんな小学校に入学間もない4月26日。月曜日。
午前6時半。朝起きると両脇で寝ていたはずの両親がいない。
不思議に思いながら起きて、階段から降りようとすると婆ちゃんが言った。
「赤ちゃんが生まれたで。」
偶然な事に、その赤ん坊が生まれたのは丁度俺が起きた6時半だったらしい。

この頃のミュージシャンとしての活動はというと、
学校の音楽の授業で五線譜の読み方を習い、
自宅にあったオルガンを弾いていた。
「おれたちひょうきん族」が放送されていた頃で、
大分では「8時だヨ!全員集合」の裏番組ではなく、
裏では土曜サスペンス劇場をやっていたので
土曜の昼間に放送されていて、どちらも見ていた。
(全員集合の方が真剣だったけど…)
そこで、たけちゃんマンならぬたかちゃんマン等と言う歌を作った。
…が、おそらく俺も他にも全国には似た真似をした事のある奴がいるはずだ。(^^;

また、この時唯一の友達(とはいえ、やはりちょっと俺を小馬鹿にしていた(^^;)
だった二宮君が東大阪市へ引っ越した。
小4まではお互い連絡を取っていたのだが、
その後プッツリ連絡が途絶えた。
彼が手紙を出してきて俺が返事を書かなかったのが原因のような…(^^;

確か12月だったと思う。
それまで二人で登校していたのにそれからしばらくは
登下校は基本的に一人ぼっちだ。

まさか俺が今、ミュージシャンやってるなんて思わないだろう。
もしこのページを見た人で彼の連絡先を知ってる方、メール下さい。

戻る 次へ ホームページへ