70年代は終わりを告げ、1980年がやって来た。
この年の夏である。色々な事が起こったのは…
7月、けいれん。けいれんなんて今まで何回もなっていたが、
救急車で病院まで運ばれた。俺はそこで気を失ったらしい。
母はそれを見て俺が死んだと思ったらしい。
8月14日。階段を降りていて、転げ落ち、左鎖骨を骨折、入院。
まだ5歳だったので一人で入院できず、母が付き添った。
病院の飯がまずくて食えず、どん兵衛を食べてた記憶がある。
そんな夏、作曲を始めた。
作曲とはいえ、楽器は何もできない。
5線譜も読めない。
音楽理論も知らない。
それどころか、コードというものがある事も知らない。
鼻歌にデタラメの歌詞をつけたものだ。
でもそれも立派な作曲だ。
今考えるとロックだ。
曲調が、でなく、やり方が、だ。
初めて作った曲。
何故か「ポテ○ング」。
何故お菓子の曲名だったのか。
所詮は5歳児の作る曲だ。
理由なんてない。
翌1981年。
俺は大分市立東稙田幼稚園に入園する。
家から1.5kmほど離れた所にある幼稚園だ。
家から400mの所に幼稚園があったので、俺はそこへ行くものと思っていた。
しかし、そこは私立だった為、離れた公立の幼稚園に入っていったのであった
。
初めての集団生活。
入園式の日、いきなりどこに行けばよいのかわからなくなり、
俺は泣いた。
…それからどうしたのか覚えていないが、無事にクラスへ行けた気がする。
先生が誘導してくれたんだっけ…
そして、この年からいじめが始まった。
それまで過保護に育てられて来たのが原因だろうか…
どういういじめを受けたかは覚えていない。
ただよく泣いていた。
唯一覚えているのは幼稚園でままごとみたいなのをする時に
必ず女役をやらされた事だろうか。
あれから20年以上、いじめこそなくなったがいじめられキャラであることに
変わりはない。正直、たまに辛くなる。
だからこそ、たまに耐え切れなくなって、逃げることもある。
くだらないことを思い出した。
先生がしばらくいない時があって、連絡帳みたいな奴、
要するに個人用出席簿だ。
「休んだ時には『欠』と書いたこのはんこを自分で押して下さいね〜」
そう言われた。
そこで俺は半ケツを出して「ケツ!」と言った。
クラスは爆笑の渦。
「先生〜、休んだらケツ出す〜ん?」
誰かが言った。
「吉田君!」
その後、先生からはたっぷりと怒られた。
今考えると当時からギャグを言わないと気が済まないタチだったのかもしれな
い。
ちなみにこの連絡帳、数年前に読んだら
「色々な事を知っており、皆を驚かせる事があります…」
という先生からの伝言があった。
この頃から「コア男」だったらしい。
幼稚園では8時か8時半に寝るようにと教えられていたが、
木曜日は10時に寝ていた。
「ザ・ベストテン」を見ていたからだ。
月曜日の「夜のヒットスタジオ」も少しだけ見たことがある。
当時、横浜銀蝿が「ツッパリHigh-School Rock'n'roll〜登校編〜」
でブレイクしていた。
多分これが俺の初めてのロックとの出会いになるのだろう。