1976年4月4日、吉田家は上野町から東稙田地区に引っ越した。
元々引っ越す予定はなかったらしいのだが、
一念発起したのか引っ越す事にしたらしい。
色々と見てまわったらしいが、最終的に決めたのが今の実家だ。
大分市中心部に近い所をまわってみたが、
家に帰ってまで会社の近所に居たくない、との事で、当時ド田舎だった東稙田に引っ越した。
今でこそ東稙田地区内に敷戸、鴛野、寒田、田尻、東稙田の5小学校があるが、
当時は東稙田、敷戸の2小学校しかなかった。
国道10号線に通じる道もなく、バスも途中までしか来ず、
大変不便だったらしい。
また、1990年代後半からは高速のI.C.も出来た事でバイパスが整備され、
レンタルビデオ、コンビニ、本屋、ディスカウントショップetc.ができたが、
当時は店など何もない。
20年前に比べて10倍は住みやすくなったのではないだろうか。
そして南に霊山という山が控える大自然の中俺は育つ事になる。
進歩はしても家の周りはそこまで変わらない。
相変わらず家から50m西へ行けば谷だし、
梅雨時の夜はかえるの鳴き声がうるさい。
この年、俺は42度と言う高熱を出した。
けいれんもしていたらしい。
1977年12月…であろう。
2歳7ヶ月の時、俺のファーストレコーデングが行われる。
親父が司会で、「もしもしかめよ」「汽車ポッポ」等の童謡を歌わせたのであ
る。
俺は発育が遅かった。
立って歩けるようになるまでに時間がかかったし、
歯が生え揃うまでにも時間がかかった。
しかも、今でも俺の歯は半分は乳歯だ。
そんな調子で、言葉を話せるようになるのも遅かった。
「尚史君いくつ?」「ふたーちゅ」
こんくらいは大丈夫なのだが、あとは「●☆※≧‰§⇒…」
何を言っているかわからない。
それなのに歌は歌えた、そんなガキだったらしい。
今でもこのテープは大切に保存している。
もっとも、上野にいた頃の8ヶ月の頃のテープだってあるのだが…
1978年。一番古い記憶だ。広島の親戚の家に行くのだが、
広島は覚えてないのに小倉に行く車の中で(それも叔父さんの車)
ナッツボンを食べていたのを覚えている。
あと、霊山を登った時に親父が俺にちょっかいを出していたのを覚えている。
ピンクレディーを歌いながら登ったそうだが、それは覚えていない。
そう、この頃俺はピンクレディーのファンだった。
何故ファンだったか。
明確な理由は覚えていない。
1979年、カメレオンアーミーの歌詞が乗っていたからか、
「よいこ」(雑誌)を寒田ショッピングセンター(現葬儀屋)で買ってもらっ
た。
この年の記憶はこれくらいしかない。
そして1980年。
この1980年こそが俺の第一のターニングポイントの年になる…