王子が変なのと出会った日


「どうしたんですか?」
 勇気を奮い起こして声をかけた結果、それが悪い人だったのは運が悪いと思う。
 は目の前でにんまりと歯を見せて笑う、ちょっと綺麗なティアラをつけた男性の様子に腰が引けた。
「なに? オレ困ってる風に見えちゃった?」
 うしししと笑うその声は、初対面でも分かる無邪気と一体の残虐性を帯びていた。は本能的に悟る。とんでもないことをしてしまった自分と、獲物を見つけた目の前の捕食者という構図が瞬時に浮かび上がった。
 道端で足を抱え込んで座り込んだ人、というのは人目を引く。と、は思う。
 人通りの少ない住宅街の片隅で、金髪でコートをまとった青年なら更に倍率ドン。綺麗な髪がの目を引いた。光を反射するティアラも、好奇心をくすぐった。でもその上げられた顔を見て血の気が引いたのも事実だ。
 頭の中に浮かび上がるのは、危ない人という単語と野外コスプレイヤーという単語のふたつ。どうみても某漫画のベルフェゴールコスプレです、ありがとうございましたそっくりですねと言いつつこの場から全速力で逃げ出したいが、は悲しいほどに一般人で常識的だった。つまり、恐怖を前にして腰が引けて保身に走ろうとした。つまりつまり、不興を買って殴られるより穏便に会話を終了させてこの場を去るという考えしか思い浮かばなかった。
 コスプレイヤーなら漫画のベルのようにを攻撃しないかもしれないが、こんな屋外で一人でコスプレのままで口調までそのものにした、どこからどう見ても男性なうししと笑う目の前の人間が、到底まともな人間には見えなかった。失礼だと思いつつも、はそう分析した。しかも、が分かるほどその雰囲気が怖い。剣呑、という言葉はこういうときに使うのかと実感した。
 目の前の男は、立ち上がり笑う。見えない目はを見ているのか、いないのかすら分からない。
「そっか、王子だもんな。一人じゃ目立つかぁ」
 のんきな喋り方が余計にの恐怖を煽る。本人? と思わず確かめたくなるほど怖い、その容貌と口調。声はアニメを見ていないので聞いたことはないが、なんとなくがイメージしていた声に近いかもしれない。剣呑な雰囲気を発したまま、目の前の男性は笑う。うしし、と特徴的な笑い声が響く。どうせ聞くならクフフ笑いの傍に居る犬くんに会いたかった、一応好きなキャラだしとは心の中で自分の安らかな死を祈った。
 死にたくないのだが、蛇に睨まれた蛙状態で動けない。恐怖は足腰動かなくさせるものだとは聞いていたが、これほどとは思わなかったとは笑い出したいくらいだった。
「んー、どうしよっかなぁ」
 なにやらにたにたと笑って思案し始める自称王子に、は馬鹿になったかのように口を開いた。自分の口が何かを喋ろうとしているのは分かるが、何を言ったのか自分でも分からなかった。
 案外平凡で、動揺の欠片もない声が出る。
「具合、大丈夫なんですか?」
「ん?」
「さっきまで座り込まれてたので、体調でも悪いのかと思ったんですけど、大丈夫ですか?」
「あ、それは平気。なに、そんな風に見えちゃってたの?」
「少し見えました。それとも、待ち合わせでしたか?」
 何を言ってるんだろうと、ぼんやり自身が自分の声に内心問い掛ける。
 目の前の男性は当たり前のように返事をするし、自分の声は当たり前のように会話を続けている。なにこれ、おかしすぎると突っ込む間もなく、剣呑ではなく普通の男の子のような雰囲気で目の前の男性は笑った。
「変なやつ、しし」
「変なのは貴方の笑い声ですよ。ししって、貴方が言うと可愛らしいですけど」
「なにそれ、ナンパ? あ、これ逆ナン?」
「違います。困っていないんでしたら、もう行きますね。失礼します」
 ぎゃー! 私の口はなにいってやがんですか!
 内心叫びだしたいのを押さえ込んで会話を続けたの口は、男性の本当に面白そうな笑い声に押されたように、別れを告げる。あまりにも自然な流れに、本人もびっくりするほど違和感がなかった。男性はえー、と子供の駄々をこねたような声を上げて不満を露にする。
 えーって、お前、えーって。
 は内心絶句しつつも、笑い声を上げてしまう。自分が二重人格になってしまったような錯覚を覚えつつ、やはり口は勝手に動く。顔は楽しそうな笑顔になる。
「えーって。でも、お困りではないんですよね?」
「いんや、一応困ってるから手を貸してもらってやっても良いかも」
「どこの我が侭王子ですか」
「だって俺、王子だもん」
 思わずは吹き出す。やはりコスプレイヤーなのだろうか、それとも本人だと思い込んだ人なのだろうか。
 本人か確認できる唯一の顔が漫画でもはっきりしないので、どうにも判断がつかない。金髪は現在地毛にしか見えないが、にははっきりと言えない。なぜならこれほどまでに精巧なかつらを見たことがない。
 目の前の男性は、吹き出したをどこか楽しそうに見ていた。
 両腕を上げて後頭部で組み、ししし、とまた白い歯を見せて笑う。
「変な女。なに、俺が怖くないの?」
 は笑い止めて、男性を見る。何かを期待したような態度に、失敗すれば殺されるかもという考えがよぎる。けれどやはり二重人格にでもなったかのように、は笑顔で首を横に振る。十代後半、いっても二十代前半に見える目の前の男性へと、楽しそうな声で返事をする。
「さっきは少し怖かったですけど。今はもう」
「もう?」
「可愛い人だなって」
 うしししし。
 どこか照れくさいのか、目の前の男性は笑う。少し顔がそらされる。男性の耳が赤い気がした。
「変なやつ」
 男性はもう一度楽しそうに呟いて、を見た。
「名前は?」
です。お兄さんは?」
「ベルフェゴール。王子自ら名乗ってやったんだから、感謝しろよ」
 ベル、ベルフェゴール。
 男性の手元がわざとかなにか、ちらっと光る。見えたのは研ぎ澄まされた小振りのナイフで、ああ、漫画で見たことがあると思わずまじまじとは見てしまう。ベルフェゴールと名乗った男性は、の視線に気付いて笑う。
「なに、珍しい?」
「ええ、ナイフってそんなに綺麗なんですね」
 初めてそんな宝石みたいなナイフを見ました。
 は嘘偽りなく、本心から感嘆の声を上げた。漫画では細部まで分からなかった色合いが、の目を釘付けにしていた。言ってしまえば男性のティアラと同じくらいに輝くナイフ。の目にはそう映っていた。研ぎ澄まされて、相手の血管から血を引きずり出す美しいナイフ。目の前の男性がコスプレイヤーだろうがなんだろうが、このナイフは素人目にも本物に見えた。本当に血を吸って、研ぎ澄まされて、今なお武器として存在している刃物。
 時折包丁すら怖くなるにとって、畏怖の対象にしかなりえないはずなのに、美しい傷つけるための存在。
 ベルフェゴールが、また笑う。宝物を賞賛された子供のように、嬉しそうに楽しそうに笑う。
「お前、やっぱり変なやつだ」
「誉め言葉として受け取りましょう」
「明日もここ、通る?」
「仕事が終わった後なら。多少前後はするでしょうけど」
「じゃあさ、明日も遊んでよ」
「お話くらいだったら喜んで」
「うしし、決定」
 とんとん拍子で話は進み、これ、俺の番号ねとベルフェゴールは何か数字を口にする。首をかしげたに、けーたいばんごう、と唇を尖らせたベルフェゴールが笑う。覚えておいて、と無邪気に彼は言った。はゆったりとした動作で携帯電話を取り出し、操作して登録した。私の番号はとが口にすると、ベルフェゴールは首を横に振って言葉を止めさせた。
「いい。明日もまた会えるじゃん」
「なら」
 なんで教えたのと、が問い掛けるのが分かっていたようにベルフェゴールは嬉しそうに笑う。
「だって、それの方が良い」
 ベルフェゴールは笑う。
 また明日。そう言ってに背中を向けて、またねと手を振って歩いていく。霧が出てきた。は夜の霧に戸惑うが、その間にベルフェゴールは歩いていってしまう。日本の住宅街の端っこで、流暢な日本語を話す金髪のナイフを持った男性は、青年はするりとに存在の証のように番号を教えて、姿を消した。
 イタリアの街角だったら、路地裏だったらもそこまで違和感は覚えなかっただろう。自分の携帯電話を見下ろして、は登録したばかりの番号を見つめる。イタリアの、マフィアのいるだろうあの国だったら。
 は何事もなかったかのように踵を返した。家へと帰るその道筋をいつものように歩き出す。霧はいつのまにか晴れていた。


 ベルフェゴールは笑う。
「どこ、ここ」
 見知らぬ街並みは、ベルフェゴールの方向感覚をもみくちゃにする。適当に歩いてみたら更に分からなくなっていた。
 けれど命を狙うものもないかな、あっても殺しちゃえばいいんだしと座って休憩を取っていると、いつのまにか眠ってしまったらしい。王子は野宿をしないのに、とあくびでもしようと思ったら人間の気配。よく言う、善良そうな。ベルフェゴールの言う、殺しやすそうな人間。
 顔を上げれば本能で悟ったのか、怯えた表情。けれど口から出るのは、ベルフェゴールを王子を普通の民衆のように扱う言葉。
 口を利けば利くほどに、普通の人間扱いしてくる。むかつくというより、ならなんで怯えたのと聞きたくなるほど普通の人間同士の会話。
 気がそがれたのは確か。でも、殺してもいいかなと思った。王子じきじきに殺してやる名誉のひとつくらい、やっても良いかなと思った。さっきまで怯えてたくせに、もう普通に話しているこの女は分からない。
 変なやつ、変な人間、変な女。
 話せば話すほど分からなくなる。だから、可愛いなんて言われても殺さなかった。賛辞は受け取る方だけど、初対面の女から受けてなにもしない自分も珍しい。ベルフェゴールはなんだか自分が分からなくなっていた。だって、いつのまにか名前なんて聞いて自分も名乗ってる。

 名乗られた存在の名称を唇に乗せる。きっとナイフを突き立てたら、赤い血を吹き出させたら楽しいだろう。
 絶対君主の自分自身に跪かせて許しを請わせて、ひいひい言わせるのも楽しいかもしれない。ナイフを取り出して、見せつけるようにちらつかせた。自分の目論見が少しでも伝わるようにしたはずなのに、は普通に賞賛の眼差しでナイフを見た。
 変なやつ。やっぱり変なやつ。
 それと同時に、なんだか自分が馬鹿に見えた。王子なのに。
 ベルフェゴールは嬉しさも感じていたので、笑う。自分の持ち物を誉められて、基本的に嫌な気分にはならない。

 の手元に、女に教えたことのない携帯番号を残した。
 歩き出したベルフェゴールが、の顔をもう一度見ようと振り返れば霧が立ち込めていて、何も見えなくなっていた。も、と話していたあの場所も何もかも霧が隠した。こめかみが疼いて思わずナイフを投げる。けれど堅い何かに当たって落ちる音がするだけで、霧の中ナイフを拾いに行けば見覚えのある門があった。
「なにしてるの、ベル」
 背後から聞き覚えのある声がする。振り返ったベルフェゴールが見たのは、足元にいるマーモン。そのままベルフェゴールの横を通り過ぎて、ヴァリアー所有の建物へと入っていく。
「なんでもねーよ」
 うししし。
 ベルフェゴールは笑う。自分は何を見た。何をした。何を話した?
 不思議なひと時と片付けるには、いささか異文化交流すぎた時間がベルフェゴールの中に残る。マーモンはいつもとトーンの違うベルフェゴールの笑い方に、首をひねって振り返る。
「変なものでも拾い食いしたの?」
「スクアーロじゃあるまいし」
「それもそうだ」
 軽い会話はそのまま終わり、二人は玄関へと向かう。
 そう言えばあんなに迷っていたのに、すんなりここに戻ってこれたなとベルフェゴールが気付いたのは、存分に身綺麗にしてベッドにダイブしたときだった。名乗ったのに名前を呼ばれていないことにも気付き、ベルフェゴールは自分が初対面のに興味を覚えていることが分かった。
「ふうん?」
 明日も会うと約束をした。約束は破るためにあるのだが、今回は別に破ってやらなくてもいいかな。
 ベルフェゴールはうとうとと眠りにつきながら、それでも考えていた。初対面の女のことを考えていた。年上だろう女のことを考えていた。
です。お兄さんは?』
 笑えるほど鮮明に思い出せる笑顔と声に、ベルフェゴールはなぜだか泣きたくなった。  
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