xx:初めての人殺し

 体技を用いて行われた殺し合い。持てる技術を総動員してお互いに組み合った、ほんの数瞬。ほんの数秒。ほんの数分。
 滴り落ちる血液に、崩れ落ちた教官。
 確かにこの指一本で貫いたと確信できる感触が、教官の命を奪ったと実感させてくれる。
 しゃがみ込み首筋で脈を取るが、すでに動きはない。温かい首筋は血の中に横たわり、徐々に冷たく冷えていく。まるで食卓に出し忘れたおかずのようだと、その冷えていく様を感じていた。
 私が殺した人。
 昨日まで泣き笑い叱咤され反抗し、共に時間を重ねてきた男性。彼の笑い顔を知っている、怒り顔を知っている、仕事の顔を知っている。けれどそれ以上に教官は、この仕事の何たるかを知っている人だった。
「ありがとうございました」
 立ち上がると一礼し、その部屋を後にする。私が部屋を出るのと入れ替わりに、教官の死体を片付けるのだろう人間が、複数部屋へと滑り込んで行った。
 鼻にこびり付く血の匂い、指にまとわり付く肉を穿つ感触、生きている人間の温かい血潮、触れ抉り込み引き抜くそのほんの数秒の間に体感し、消えぬ記憶となったあの生きているという鼓動。
 教官は目を閉じなかった。私の穿った指を見て、褒めながら死んでいった。
 強い人だと思った。
「姉さん」
 声に振り向くと、溢れんばかりの笑顔を浮かべたルッチと向き合う格好になる。見られたくなかった、黒い服に飛び散る返り血、指にこびり付いた肉と血、引き返せぬ道へと足を踏み入れた実感に、光のないだろう目を。
「遅かったから心配してたんです」
 無邪気に走り寄ってくる彼に、どう静止の声をかけたら良いのかわらからなかった。混乱した頭は冷静に動きを止め、私の足はブレーカーが落ちたように一切の動きを封じられる。ルッチの後ろから、違う子供の足音が複数聞こえてきた。ああ、きっとあの子達だ。いやだ、あの子達にまでこんな姿を見られるだなんて。
 自分の歯の根が合わなくなっているのに気づく。カチカチと小刻みにぶつかる歯に、慌てて唇を噛み締め押さえ込む。目の前まで来たルッチは、それに気づいてしまったように苦笑した。
「姉さん、大丈夫ですよ」
 なにが。
 もはや声さえも失ったようだった。歯の根が合わず、唇を開けば甲高い音が断続的にこぼれるばかり。唇を噛み締め、ルッチの言葉に応えることすら出来なくなる。
 哀れむような、慈しむようなルッチの視線が痛かった。
 ふっとこぼれる小さな笑い声と、血に塗れた手を掴まれた事に体が震える。優しい優しいルッチのなだめるような声に、目眩が起きる。
「大丈夫、次はもっと早く正確に、殺せるようになりますよ」
 自分の言葉が慰めになると、そう信じきった穏やかな空気に涙が溢れる。ああ、私は怖かったんだとようやく認識した。ブルーノとカリファとカクの顔が覗き、ルッチの背後からこちらへと掛けてくる数歩もない距離。私は涙で視界を滲ませ、ルッチの驚いた顔を最後に瞼を閉じた。
 涙の落ちる音がする。人殺しなど、なんて悲しいことだろうと言っていた自分が、ただの現代社会の中に埋没する一般市民だった自分が、涙と一緒に落ちていく。もう戻れない、もう戻れない。生まれ育った世界にいる見知った顔が頭をよぎる、けれどもう戻れてもその人たちに合わす顔がない。私はたった今、この体でこの指で人の命を屠ってきた。練習だといって人の命を奪ってきた。そうしなければ、私が生き延びられないわけでもなかったのに、私は人の命を奪ったのだ。
「あー! るっちがなかした! をなかした!」
「黙れ、カク! おれのせいじゃねぇ!」
 瞼を開けるのが怖い。いつもどおり流れる空気が怖い。辛うじて声を上げることはなかったが、涙だけはどうしても流れていく。震えも止まらない。寒い、怖い、気を失いたい。
さん、無理、しなくていいよ」
 顔を上げると、ブルーノが肩に触れてこちらを見ていた。どこか気遣うような表情に、ブルーノは私の気持ちが分かるのだろうかと思った。
 ブルーノも、「物心ついたときから」の子供なのに。
 なのにブルーノは困ったように眉を寄せていて、「寝ていいよ」なんて優しく言う。「大丈夫、おれがなんとかするよ」なんて言う。ルッチとカクはいつのも口喧嘩を発展させていて、カリファがそれを仲裁していた。いつもはブルーノがやることなのに。
さん、いいんだよ。お疲れ様」
 その一言に、すとんと荷物を降ろしたように肩が軽くなる。ああ、ブルーノは分かってくれてるんだと思うと、意識も一緒に落ちていった。
 とても気持ちよく意識を失ったのが分かった。ブルーノの手も、ずっと私の手を握っていてくれてるルッチの手も、暖かいのだと分かった。

 ブルーノの腕の中へと崩れていくを感じて、ルッチとカクが一斉に動き出そうとするのを、ブルーノは目線だけで押しとめた。
 いつもの喜怒哀楽を表している表情は、今は涙に濡れ返り血に濡れている。黒い服に飛び散ったそれを気に止める素振りもせず、ブルーノはを抱き上げた。
「カリファ、さんの着替え、やってもらえるか」
 ブルーノの声に、カリファはルッチの手からの手を引っこ抜きながら平然と頷いた。ルッチのしかめられた顔など彼女は見ない。けれどカクはなぜが倒れたのか分からずに、四人の周りを走り回ったかと思えば、ブルーノのズボンを引っ張った。
「ぶるーの、なんではきぜつしたんじゃ? しがん、くりあできたんじゃろ?」
 しっぱいしたら、こうはうまくちがつかん。
 残酷な台詞と認識もせず、カクは垂れ落ちたの手を取る。爪の間に入った肉を指差し、上手く抉ったんじゃなと感心した素振りで呟いていた。
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メモ

書いてから2年目にようやくアップ。