血のように駆け巡る貴女の言葉


 全てに懺悔でもすればいいのか、ここまでの道のり選択全て間違いだったと叫べばいいのか、貴女はなぜ笑っているのか全てが分からない迷いすらないただ分からない。
「生きて」
 かすれた声で貴女が言った。伸ばされた手は血に塗れていて、それは貴女と誰かの血が混ざった血であって、どうしようもないほどの量でもってその手を濡らしていた。
「ルッチ」
 貴女が名前を呼んで、そしてその濡れた手でこちらを押しやる。力の入っていない手は、普段ならおれを動かすことなど出来ないだろうに簡単におれの体を傾けた。たたらを踏むように後ろに下がる体。それを見て笑う貴女。
「いきなさい」
 どこへ。
 貴女はおれにどこへいけというのか、貴女を置いていけというのか、生きろというのか。震える言葉に貴女は答えを返さない。ただおれの名前を呼ぶだけ。地に伏した体は血を垂れ流し、大地がどす黒い色に染まっていく。見慣れた色だ、見慣れなければ気が狂っている色だ。死を呼ぶ色だ。
「まだ、あなたは生きてる。生きられる」
 紫色になってしまったその唇が、言葉をつむぐ。どこかで見たことのある唇の色だった。貴女はおれの顔を見て、昔のように笑った。心細いときに、良く見せてくれた笑い顔だった。
「大丈夫、大丈夫よ、ルッチ」
 何が大丈夫なのか分からない。冷静に考えれば、それはおれへのただの気休めだとすぐに分かるはずなのに、その時のおれにはまったくもって想像することすら出来なかった。
 が、大丈夫だといった。
 それだけで十分だと思った。彼女は命に関して、嘘を言ったことがなかった。今まで一度も言っていない嘘を、こんな場面でつくわけがないと思っていた。こんな場面だからこそ、つくだろう嘘の可能性さえ思い浮かばなかった。
 思い浮かべないだけだったのかもしれない。今となってはわからない。
「そう、先に任務を遂行するの。私は大丈夫だから」
「わかった。後で」
「ええ、後で」
 後ろを振り返り走り出そうとする。けれど何かが引っかかって振り返られずにいると、困ったようにたしなめられた。貴女はいつもそうだ。結局は、貴女は困った顔をする。好きだと言ったときも、愛してるといったときも、そうだった。
「ルッチ」
 呼ばれたことが合図だったかのように、足が動く。後ろを振り返り、走り出す。建築物の頭上を越え、それらの頭を足がかりに前に進む。空気が耳の傍で切れるように鳴り響き、彼女の声を消していく。
 振り向いた瞬間に、言われたような気がした。
 ずっとずっと欲しかった言葉を言われた気がして、なんだか胸が切なかった。


 その日、貴女はその力をふるった。任務遂行のために、人の命を奪った。そして足止めを食らったおれたちを逃がそうとした。簡単な任務だと思っていながらも、最後の最後まで気が抜けないと貴女は表情を引き締め、他の奴らを先に逃がした。おれを含めて、先に報告に行けと逃がした。

 そのときに、おれが残ればよかったのだ。
 少なくとも貴女よりは強いおれが、残ればよかったのだ。

 けれど先に家に戻り貴女の帰りを待っていると、手違いでまだ回収できていないものが見つかったと貴女から連絡が入って、貴女の言葉のままにそれを回収に向かった。何の問題もなく、口をすっぱくして言われたとおりに全員でその場所に向かった。回収は楽だった。人っ子一人おらず、なんの警戒が要ったのかとカリファがぼやいておれがたしなめた。
 連絡をしてきたのだから、貴女は追ってすら撒いたか屠ったのだと思った。貴女自身は安全圏にいると思ったのだ。愚かにも。自分の尻拭いをおれ達にさせようとしない普段の貴女を思えば、簡単に分かることだったのに。
 帰り道だった。貴女の血を見た。
 カリファの息を呑む声に、カクの強張る空気に、ブルーノの吐き出された息に、おれも言葉を失ったことで追従した。
 辛うじて立っていた両足を伝って作られる、グロテスクなまでに美しい血溜まり。その只中に立ち応戦するその姿を、今まで見たことなどなかった。貴女が血塗れで戦っている姿など、どこのだれが見たことがあるというのか。
「大丈夫、今回もお使いだけだから」
 いつもそう言って笑っていたじゃないか。多少の擦り傷は作っていても、いつも無事な姿で帰ってきていたその姿しか知らない。だれだ、この血に塗れたに似た女は。
 自分たちの姉のように振る舞い、家族のように笑っていたに似たこの女は、いったい誰だ。
「ッ行きなさい!」
 叫ばれた瞬間に、呪縛が解けたかのように体が動き出す。血を唇から垂らしながら、叫ばれる言葉に、ブルーノとカリファが動く。
「早く、任務を!」
 そのまま二人は駆け出した、任務遂行のために。
 けれどカクは動かない。任務をする顔ではなくなっていた。ただ、姉を心配する弟の顔に戻っていた。悲痛な声を上げる。
「でも姉さん!」
「カクッ!」
 名前を呼んで叱り飛ばす声を、初めて聞いた。カクは身を震わせ、どこか泣きそうな顔を歪めて走り出した。そしてそれはすぐに見えなくなる。残るはおれだけになった。
 今や疑う余地もなく、我らが姉と言えるだということに、疑いはなかった。
 繰り出した嵐脚で、ようやく対していた男が沈む。荒い息遣いが数度呼吸をして、そのまま地に伏した彼女。膝が崩れる間もなく叩きつけられるように伏したが、どこか満足そうだった。
 視線が、合う。
「生きて」

 私だって、貴方達を守りたいのよ。
 貴女が言った言葉を、眠った後で思い出した。目を覚まして辺りを見回しても、貴女が部屋に来た気配もない。まだ戻ってきていないのかと、他の部屋を探してみた。三人ともいつものように生活をしていて、そこにがいないだけという空間が出来ていた。
「姉さんは」
「まだだよ」
 ブルーノの無感動な台詞に、そうかと同じように返した。ブルーノの作った朝食を、いつものようにテーブルの自分の席で口にした。目の前の定位置に座っているカクは、無表情に新聞を読んでいた。
「資産家暗殺じゃと」
 ばさりと新聞の束を広げて見せ、そこの文字に視線を滑らす。昨日自分たちが奪った命の、今までの所業が書き連ねられていた。天罰だと、新聞は記している。
「天罰か」
「自業自得じゃないの」
 カリファが無感動に返す。ソファーの上で雑誌を眺めているその目は、先ほどから動いていない。その指もページひとつめくらずに、動いていない。
「仕事はどうした」
「仕事? ルッチ、お前がそれを言うのか」
 カクの唸るような言葉に、瞼を伏せることで答えとした。カクは玄関へと視線を向け、立ち上がるとそのまま玄関から外へといってしまう。閉められた扉の音が、どこか物悲しいものに聞こえたのは、きっと幻聴だろう。
 ブルーノが皿を下げに来て、そして持っていく。平らげた後だから特に文句はないが、いつもなら一声あるはずだ。ブルーノも参っているのか。
「ルッチはどう思う」
 ブルーノの声に、なにがだと返す。ブルーノは疲れたように笑った。
「カク、起きてからずっと同じことをしてるのよ。新聞を読んで、外へ出て、新聞を読んで」
「何が言いたい」
 カリファの言葉に苛立つ。けれどカリファも苛立っていたのだろう、声を上げて立ち上がった。
「何が言いたいですって? ええ、言いたいことなんて山ほどあるわ。なぜ姉さんを担いででも帰ってこなかったの? 姉さんが戦っていたあいつはどうなったの? 姉さんはどこにいるの? 姉さんは無事なの? 姉さんから伝言はないの? 姉さんは、姉さんは……ッ!」
 髪を振り乱し、息を荒げて叫ぶカリファを初めて見た。思わずその姿を見つめてしまう。
 カリファは、はぁはぁと部屋に響くほどの呼吸をしたかと思うと、音を立ててソファーへと体を沈めて俯いた。
「なんで、姉さんはここにいないのよ……」
 聞き逃してしまいそうなほどの音量で、囁かれた言葉は多分四人共通の想いだ。
「後でと、言ったんだ。大丈夫だと」
 言い訳のようで好きではないが、事実を告げた。カリファは弾かれたように憎悪で溢れた視線を投げてきたかと思うと、ゆるく頭を振った。ちがう、とその唇が動く。
「嘘だって、分かるじゃない」
 言われて気づいた。そうか、嘘。
 今まで重い嘘などつかれたことがなく、言っても冗談で済むようなものばかりだった。だからだろうか、思い当たりもしなかった。
 ブルーノが、ため息を吐く。
「どっちにしろ、あの場所にはもういなかった。全員で探すか?」
 いなかった。あの傷で動けたと言うことか? ブルーノはあの場所に戻ったと言うことか? 姉さんは、生きていると言うことなのか?
 それより先に、残党があの人を連れて行ったと推測すべきだ。冷静に考えれば、あの人があそこからすぐに動けるわけがない。おれはなんて馬鹿なんだ。カリファの言葉を受けて余りある愚行だ。カクもブルーノもおれを責めない。その事実に気づいて、愕然とする。
 いつの間にか震えだす手に、眠っていたはずのハットリが飛んでくる。次の任務で、おれの重要な位置を占める相棒。ぽっぽーと陽気に飛び出す声が、か細く震えていた。つぶらな目が心配げに向けられる。
 ああ、貴女はハットリのこんな表情を見るたび、可愛いと言っていましたね。
 些細なことからでも貴女に繋がる。けれど、その貴女は傍にいない。
「どうする、ルッチ」
 ブルーノの声が、決断を促す。
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