どうしているの
ブルーノの言うように、が倒れていた場所には彼女の姿はなく、男の死体もなかった。ルッチはその事実を目で確かめ、淡々とした表情でその場を検分し始める。カリファが調べ尽くしたと言っても止めず、その作業は一時間ほど続けられた。
「……戻る」
「だから言ったでしょ。私たちでもう調べたって」
「まぁ、ルッチの気持ちもわかるからな。そう責めるな」
ブルーノの宥めに、カリファは眉を吊り上げて不快を露にする。けれどそれ以上の文句は言わず、静かに踵を返すルッチの後に続いた。
はいない。死体さえもない。傷ついた体は綺麗にその痕跡を消してしまった。
サイファーポールの暗殺さえも許可された自分たちが、殺す側に立つ自分たちが痕跡を見逃すなどありえないとそれぞれが思うが、姿を隠したのか連れ去られたのか、の姿は見つからなかった。
家に戻ると、何事もなかったかのように洗濯物を干しているカクの姿が、苛立ちと不安な思いを抱えた三人の目に飛び込んできた。鼻歌まで歌って丁寧に干している洗濯物は、いつものように五人分。下着を干されるのは断固反対するカリファと違い、弟と言うかいっそのこと息子と思っている節のあるの下着も、綺麗に陰干しをされていた。
その当たり前すぎる作業に、三人の動きが止まる。
「カク?」
ルッチがひとつ呼吸を置いて呼びかけると、ベランダのカクは楽しそうに笑顔で振り向いてきた。手にはタオルを持ち、洗濯バサミにはさみながら。
「なんじゃルッチ、遅い行動じゃの」
まるで寝坊したのをからかうような口調に、思わずカリファがカクの正気を疑う。ブルーノと目線を合わせたカリファにも、カクは笑いかける。
「わしは正気じゃよ。その様子じゃと、姉さんの痕跡は見つからなかったんじゃろ」
残念じゃのと、さも軽い事柄のようにカクは笑う。ルッチは乱暴に自分の頭を掻き乱すと、大またでカクに歩みより、振り返ったその胸倉を掴み揚げた。
「ルッチ!」
カリファが高い声で静止をするが、ルッチもカクも聞こえた風もなく目線をあわしあっていた。ルッチは眉間の皺を増やして睨むでなくカクを見つめ、軽くつま先の浮かんだカクは目を細めてルッチを見つめ返すにとどまった。
ぶらりとタオルを持った手から力を抜き、片手でカクはおどけたように肩をすくめて見せる。
「なんじゃ、ルッチ。わしに八つ当たりかの? 最後まで傍にいたのはお前さんじゃというのに、わしに八つ当たりをするんじゃな」
淡々と告げられた言葉に、ルッチは頭に血が上るのを自覚した。
嘘をつかれなかっただけ、カク達の方がマシじゃないのかと叫び声が喉下までせり上がり、結局それは無理やり飲み下される。長年の付き合いでその様子を見ていたカクは、見下したように鼻でルッチを笑った。長い鼻が軽く上下し、ルッチの治めたはずの神経を煽る。
「手を離せ、ルッチ」
「なぜだ」
「お前さんには愛想が尽きた。わしは行ってくる」
淡々と言葉を交わしあいながらも、体勢が変わらないことに焦れたカクは無理やりルッチの腕を討ち払う。そのまま横を通り過ぎ、ブルーノの腕に乾かす前のタオルを預けると、当たり前のように玄関で靴を履き出した。
「どこに行くの」
「姉さんは迷子になっておるかもしれんからの。迷子センターにでも顔を出してくるわい」
冗談めかした口調で笑い顔を見せてくるカクに、カリファは背筋を震わせた。無邪気で本心から思っているようなその言葉は、正気を疑うには十分だった。
けれどカリファが何か言うより早く、ブルーノが見送りの言葉をかけてしまう。カクはどこか嬉しそうに頷くと、そのまま「いってきますじゃ」と笑って部屋を出て行った。残された三人の間には言葉もなく、とりあえずブルーノがタオルを干そうとベランダへと移動するのみ。
「……とりあえず、順番に探していきましょう」
カリファは街の地図を広げながら、動かず手を払われた格好のままのルッチへと声をかける。カリファだとてルッチの苦悩やら責任感やら、もろもろの気持ちが推測できないわけではない。けれど、どうしてもくすぶる感情というものはあるわけで、それをぶつけてしまう自分の若さに恥じ入る部分もあった。
だから、少しでも現状を進展させようとルッチに声をかけたのだが、ブルーノが残りの洗濯物を干し始めたというのに、ルッチは一向に動こうとしない。
「…? ルッチ?」
怪訝そうな感情そのままに呼ぶと、ルッチが突然その体を膨れ上がらせていく。悪魔の実の力だと瞬時理解したカリファとブルーノは、ルッチを押さえ込むためにその腕を捕らえ体を拘束するが、変化していその獣の口は咆哮をあげて低く唸りだしてしまう。
「ルッチ! やめなさいルッチ!」
「ルッチ! ここで失敗したらさんは帰ってこれなくなるぞ!」
獰猛な獣が血を求めるような咆哮、けれどその目は帰り道を無くした子供のように潤み、八つ当たりしたいのはこちらだと唇をかんだカリファの拳を大人しく受けていた。
「静まりなさい、この馬鹿!」
膨れ上がった体は完全に豹へと変化したが、カリファの拳を幾度か受けたためか咆哮は止み、一言も話さずに寝室へと身を引っ込めていった。
「ルッチ。ルッチ、こっちで先にめぼしい箇所を上げておくから。あとで分担して探しに行こう」
ブルーノが優しくドア越しに告げ、そしてまた静かな室内へと戻っていった。
葉巻の匂いが充満した部屋の真ん中、包帯と薬漬けとも言えるような治療を終えたが、静かにベッドで睡眠をむさぼっている間、傍の椅子に腰をおろしたスモーカーはどうしたもんかと首をひねっていた。部下のたしぎに治療をさせたはいいが、の惨状に驚き原因を追求したそうに先ほどまでスモーカーの周りをうろついていた。それはそれで面倒だが、たしぎは怒声ひとつで飛んでいくので問題がないとして。
「……おまえ、何してやがった……?」
出血多量のための失神、致命傷は避けていたようだが、あと少しでも発見が遅ければ死んでいたほど満身創痍。けれど、もう死ぬ危険はない。
医者にそう診断されたとは言え、素人が受けるはずもないほどの、死闘と呼んでよいほどの傷。馬鹿みたいに笑っている姿しか見たことのなかったスモーカーは、以前聞いたの言葉を信じかけていた。
「政府関係者、なぁ」
どう見ても一般人ではできない動きをするときもあったが、それはそれでそう言う人間も海には大勢居ることを知っているスモーカーは流していた。ましてや、政府関係者になれるような女にも見えずに聞き流していた言葉。
けれどその姿はどこか統一された黒装束、死んでいた男は調べたところ本日新聞にも上がった、犯罪者男の雇っていた男。恨みによる死闘かと想像してみるが、いつも会う度に喜怒哀楽を見せて笑うしか知らないスモーカーにとって、が人を殺すほど恨む姿など想像も出来なかった。
呻きもせずにこんこんと眠りつづけるの頬を、スモーカーは乱暴に擦る。けれど柔らかい感触の頬に触れても、は一向に目を覚ます気配さえ見せなかった。ただただ失血し、傷つけられた皮の感触ががスモーカーの感情を波立たせる。
「……」
いい年こいて、なんて怪我してんだ。
言ってやりたい言葉を舌の上で転がすが、本人が起きていなければ意味がない。傷ついた顔をして怒るか、悲しそうに笑うか、笑い飛ばすか。どの反応も一度はスモーカーが見たもので、気分によっては自分の年齢を気にしたり気にしなかったりする。見た目は十分若いままなのだから、もういっそ年齢を名乗らず気にするなと言ったこともある。けれど馬鹿正直なは自分で名乗って勝手に傷つく。
厄介で馬鹿で憎みきれない阿呆女。
「」
「」
何度呼んでも目を覚まさない。薄い呼吸音が聞こえるのみ。このままでは、ゆっくりと呼吸が止まるのではと錯覚するほど、見たことがないほど弱った。
スモーカーの背がざわつく。それが悪寒だと理解するより早く、スモーカーはの額に拳を振り落としていた。
「あ」
間抜けな声を上げて、自分のしたことにスモーカーが気づくと同時に、悶えるような声にならない悲鳴がの喉からもれ出た。
「っ!? あ、っ! ……ッ??」
何がなんだか分からないと身悶えるに、スモーカーはしばし呆然と見守っていたが、ゆるゆると安堵の息を吐いてベッド脇の椅子に腰掛けた。混乱しているは、身悶えたせいで痛む体を今度は抱きしめていて、スモーカーに気づくそぶりもない。
けれど、それでもが生きている確信が得られて、スモーカーは笑う。
「おい、。こっちむけ」
「ちょ、むり、いたっ、むりっす!」
「無理じゃねぇ、こっち向け」
死に掛けていたというのに、死に掛けているという気配すら見せずに悶絶するに、スモーカーはらしくもないほど笑いたくなった。
「」
体温があり、呼吸があり、痛みがあるというのは生きている証拠のひとつだ。
涙目でスモーカーを見上げてきたは、そのまま目を丸く見開いて硬直する。なぜここにこの人物がと、元気があれば叫んでいるだろう口も間抜けに開かれていた。
特に狙ったわけではないが、スモーカーの機嫌は上昇する。が、本当にそのまましばらく動く気配のないに、拳に息を吹きかけて第二弾の用意に入る。
「ごめん! ごめんごめん、スモーカーくんごめん! だいじょぶ、目ぇ覚めましたから!」
途端にあたふたと声を上げ始めるに、スモーカーは拳を平手にしてぺちりと暴れるの額を押さえた。
あまりにも軽い衝撃に、反射で力いっぱい目を瞑ったは、恐る恐るまぶたを開き、スモーカーの表情を不可解だと言わんばかりに見上げてくる。
そんなに、スモーカーはつぶやいた。手のひらから伝わるの体温は、怪我による発熱のせいで熱いほど。
「生きるのか」
ぽつりと、それは確認の響きでの耳に届いた。
はベッドの上で背筋を伸ばし、先ほどの慌てっぷりなど影も残さず穏やかに微笑む。
「その為に、頑張ったよ」
の脳裏によぎる、ほどんど丸一日がかりの戦闘劇。あれは、生きることを諦めた人間ならば、到底越えることの出来ない夜だった。
狂喜の目が、のまぶたの裏でいまだに笑っている。彼は、満足のいく人生をおくれたのだろうか。
「生きるよ」
「そうか」
の言葉に、スモーカーはひとつ頷く。
それ以上何も言わず、スモーカーは外へと一声かけ、それはも知る人物であったために目を丸くしてしまう。
「一緒に来てるの?」
「当たり前だろうが」
「そうだけど」
打てば響くように返ってきたスモーカーの返事に、は体中の痛みを抑えながら呻く。
「何も聞かないの」
確認ではなく、疑問の声をスモーカーはするりと聞き流し、ばたばたと駆けてくる足音に顔をしかめた。
「遅くなりました!」
「遅ぇ」
転がり込むように入室してきたその姿に、スモーカーは労わりの言葉もかけずに外へと足を踏み出す。たしぎは目を回すほど急いだのか、ひーだかふーだと荒い息をつきつつ、のいるベッドへと歩み寄ってくる。
「しばらく世話してやれ」
スモーカーはいまだに自分を見つめるを一瞥し、たしぎへと簡単な指示を残して部屋を後にした。
残されたたしぎはかすれた声で返答をしていたが、スモーカーの態度に困ったように笑うの気配に気づき、大丈夫ですかと不安そうに顔を覗き込んだ。
「たしぎちゃんの方こそ、なんだか具合悪そう」
いまだに肩で息をしているたしぎを見て、はゆっくりと微笑みとともに息を吐き出した。たしぎは慌てて否定しようとするが、の笑顔に先ほどまでスモーカーが腰掛けていた椅子に座り込む。
改めて、とお互い言葉を口にして。
「お久しぶりです、さん。その、お話して大丈夫ですか?」
「お久しぶり、たしぎちゃん。さっき思いっきり動いたから少し痛いけど、会話くらいなら大丈夫」
二人そろって、柔らかく相手の雰囲気がほぐれていくことに気づき、肩から力を抜くようなゆるやかな笑みを浮かべあった。
「何か食べられます? 血が足りなくて、その、肉体的損傷も多いらしくてですね」
言い難そうにしながらも、確かにを気遣ってくるたしぎの様子に、言われたほうは嬉しくてそれが可愛らしくて笑みが消えない。
痛み痺れ感覚すら簡単に飛ぶような状態の片腕を少しだけ持ち上げ、目の前のたしぎの頭を愛しむように撫でた。
「っさん」
「たしぎちゃん、ありがとう。大丈夫、寝ていればすぐ治るから」
でも、と言い募ろうとしたたしぎの頭を、はもう一度自分の子供にするように撫でた。
「ありがとう、たしぎちゃん」
たしぎの眉は目に見えて垂れ下がり、小さな声がはいとうなだれた顔の下で言葉を返した。
それを少しは悪いと思ったは、もう体力の限界で力なく放り出した自分の片腕を見ながら、飛びそうな意識を必死に繋ぎとめる。
「じゃあ、たしぎちゃん。ひとつお願いをしていいかな」
「はい! 何でしょうか!」
途端に嬉しそうな顔を勢い良くたしぎは上げ、の微笑みに瞳をキラキラと輝かせる。まるで指示を待つ幼子のような表情に、は懐かしいものを見る目でお願いを口にした。
「出来るだけ近い時間の新聞紙にね、広告を出してほしいの」