想うのはたった一つ


 懺悔をしたくなる。
 はせり上がってきた嘔吐感を無理矢理飲み下し、口の中に広がる酸の匂いを噛み砕いた。
 懺悔と同時に全身全霊でもって感謝をしたくなる。
 何に感謝をささげれば良いのか、皆目見当も付かないままは微笑んだ。対峙する男達は一斉に気色ばむが、の知ったことではない。
「貴様、笑う余裕があるのだな」
 痛いほど冷え込んだ深い闇の中にある夜、対峙する男の声はを嘲笑する響きで空気を震わせた。それはの笑いを深めるだけだったが、悪循環にも男達の神経を逆撫でてしまったらしい。
 つまらない連鎖だと言う弟達の笑い声が、には聞こえた気がした。

「姉さん、こんなやつらに手こずるなんて駄目じゃない」
 カリファはため息をついて笑うだろう。一緒に鍛錬をしに行こうと、スパンダムに簡単な任務を注文してはどうだろうなんて、スケジュールを見ながら提案してくれるかもしれない。
「駄目だよ、さん。相手の実力のなさに同情するのは、任務を完全に完膚なきまでに終わらせてからだよ」
 ブルーノは真面目な顔で諭してくるだろう。さんはのんびりしてるからちょっと心配だ、なんて年長さんぶった大人顔で困ってくれるだろう。
「わしは同情の余地などないと思うがの。金に目がくらんだ大馬鹿者じゃろ? わしなら話す暇も与えたくないわい」
 姉さんは優しいの、なんて含み笑いをしながらカクは欠伸をするかもしれない。あの丸い目が悪戯っぽく細められて、ほれ、危ないのうなんて言って援護してくれるだろう。

 が動かないでいると、男達が微かな音を立てて刃物を振りかぶってくる。危ないと思う間もなくイオリの体はそれを避け、そのまま男達を足技でもって血色に染めた。嵐脚や指銃を使うまでもなく、数人の男達は引き裂かれ砕かれた肉と骨の感覚に潰れるような声を上げ、抵抗も出来ず地に崩れ落ちる。
「茶番だわ」
 感慨もなくが呟くと、唯一口を利いていた男が愉快そうに声を上げて笑い出す。それは夜の静寂を打ち砕くほどではなかったが、殺し合いをしているその場にふさわしいものではなかった。なにより、は男たちが守っている主を殺さねばならないのだ。弟達が抜かりなく男達の主を殺し情報を保護するために、は目の前に立ちふさがる護衛の男達を、完膚なきまでに叩き潰さねばならないのだ。
 声を上げて笑うほどの酔狂ではないは、男の笑い声が止むのも待たずに嵐脚を見舞う。口を開くその男だけは、他の男達と格が違った。油断するつもりは毛頭なかった。
 けれど鈍く光る男の剣が嵐脚を弾き、へと切り込んでくる速度は予想よりも早かった。
「っ!」
「不思議な動きをするな、女」
 鉄塊か、それともこちらも剣を使うか。
 一瞬の判断で鉄塊をしなかったことは正解だった。は男の力の強さを受け流し損ね、真っ向から剣と剣をぶつけ合っていた。耳障りにも鳴る刃物の擦れ合う音は、の神経を逆撫でる。それを表に出してはいけないと骨身に染みている。の表情はないと言って良いほど変化を浮かばせず、ただ男の剣を弾き返すに留まった。
「ほう、表情も変えないか」
 男はほんの少しばかり後方へと飛び、距離を保ちながら楽しそうに笑みを浮かべる。
 長い夜になるなと、は短い息を吐いた。弟達を先に帰して本当に良かったと、心の底から安堵する。
 に致命傷を負わせられた者たちの呻き声の中、と男は静かに対峙し続け、引き絞った糸が弾かれるように二人はまた力をぶつけ始めた。


 日が昇ると男の仕事は終わりを告げるのか、と同じように満身創痍の男は笑みを浮かべて姿を消した。傷つき倒れ、中には絶命した部下達を一瞥もせずに見捨てたその男に、結局は任務を妨害された格好になる。
 は口の中から鉄錆味のする唾を吐き出し、死体と半死人を前にして地面へと力いっぱい愛剣を突き立てる。その剣に縋りながら、ずるずると地面へ腰を下ろした。
 まだ終わらない、まだ任務は続いている。
 分かっているが恐怖は胃の腑から湧いてくる。なぜあの男はあんなに余裕を持っていたんだろうかと、嫌な想像が走ってならない。
 弟達は標的を何の障害もなく殺せただろうかと思うと同時に、は目に留まった光景にこのまま仮のアジトに帰る事を瞬時に放棄した。
「……馬鹿にしてるわね」
 男が立っていた位置、滴り水溜りの様に溜まった血の池から、一筋の乱反射。風が攫うように掬い上げると、どう見てもが下調べ中からずっと見つけられなかった鍵だった。
「馬鹿にしてるわ」
 先ほどから対峙していた男は、言葉こそ満足に交わしていないが馬鹿ではない。それは数時間戦っていたが良く理解していた。けれど目の前に、今この手の平に転がっている鍵。
 は奥歯を噛み締め、剣についた血を無造作に振り払って駆け出す。これは明らかな誘い、挑発。再戦の招待状。分かっていながら先ほどの恐怖と怒りが摩り替わる。馬鹿にしている、この私を。
 それなりのプライドを持って仕事をし、今回は大切な者たちと共に完遂しなければならない任務。
 けれど、この挑発は馬鹿にしている。
「ちくしょう!」
 思わず口汚く吐き捨て、けれど足音も気配も消して建物の間をひた走る。壁を踏み台に空へと飛び、屋根の上から小刻みに跳躍を繰り返した。
 血溜りに落ちた鍵の音すらさせず、明らかな笑みを持ってこちらに余裕を見せつけた、あの男。
 危険だと頭の芯から警告が鳴り響く。これはいけない、これは絶対にいけない。あの子達の身すら危ういかもしれない。
 自分より確実に実力をつけている弟たちを思い浮かべながら、はひとつ口笛を吹くと同時に手を掲げた。掲げた手の先を鳥が掠めたのを感知すると、は後ろも振り返らずに加速した。


 男はかすかな血の香りを残し、吹けば飛ぶような道しるべをに示していた。ますます馬鹿にしていると憤るを止める者はその場におらず、は頭に血を上らせたまま自分の対峙していた男の雇い主の館、つい数時間前まで弟たちと潜入していた屋敷へと身を滑り込ませ、血の跡を追いかけた。
 途中いくつも寄り道をするように血の匂いは重なり合い、消えかける血の匂いを嗅ぎ取る。はそこでようやく足を一時止め、頭を冷やすべく今回の任務内容を復唱する。

 権力を持つ馬鹿な男が本当に馬鹿なのかの確認と、馬鹿ならば始末すること。
 そしてその馬鹿な男がしでかしたものの確実な証拠奪還と、その前後影響下にあるものの把握。
 優先されるは、証拠の奪還。馬鹿な男の始末は二の次でよい。
 余裕があれば事後処理もと言われたが、現在自分にその余裕がないことは自身にも痛いほど理解できた。

 血の匂いが、その馬鹿な男の部屋へと伸びていた。けれどその血の状態から、が追いかける男は別の場所へと移動したとすぐに分かった。
「余裕、ってわけね」
 は一瞬のためらいもなく真新しい血の跡を追いかけ始めた。

 たどり着いたのは、数多くある屋敷客室のひとつ。丹念にが弟たちと調べた部屋のひとつで、は自分たちの調べ不足に歯噛みする。警戒しつつも鍵のかかっていない室内へと足を踏み入れるが、攻撃のひとつもなく追いかけてきた男は部屋の隅にうずくまっていた。
 ベッド脇の壁に背をつけたその体の横に、壁をくりぬいた様な小人サイズの扉が出現していた。血まみれな男は動かずに、が足音もなく近づき始めたことでようやく頭を上げた。
「来たか」
「安い挑発だったわ」
 先ほどの戦いの後がお互いに窺える、冷めた声音での応酬はすぐに途切れる。男の隣にしゃがみこみ、はためらいもなく先ほど拾わされた鍵を取り出す。
「でも、私たちの役に立つ」
「誇りはないのか」
「任務が遂行できるのならば、些細な苛立ちは二の次にする」
 喋りすぎた、とは口の中で吐き捨てながら鍵穴に差し込み回す。呆気なく開いたその中から、達が捜し求めていた証拠の品が続々と顔を出してきた。
「……」
 その一つ一つを素早く確認していると、男が血反吐を吐きながら笑い出す。
 じくりと傷口の疼く音も聞こえたが、はそ知らぬふりで扉から証拠を取り出していった。
「雇い主が」
「雇い主が、解雇だと言いやがった」
「夜逃げにお前のような小物は必要ないとよ」
「叩きつけられた札束に、お前とあのままやってりゃぁ良かったと後悔したぜ」
「でも、あの瞬間まであの男は俺の雇い主だった」
「ああ、でも、もう」
 男の笑い声が狂気染みたものに変わったと同時に、はその場を飛び上がる。反動で閉めた小さな扉に男の足がめり込み、痛ましい鉄の砕ける音と同時に男が歓声を上げた。
「もう、お前を殺しても良いんだなぁ」
 の舌打ちの音と、男が追って空中に飛び上がるのは同時だった。触れ合う足と腕に、は次の攻撃を鉄塊で防ぐか紙絵で流すか、一瞬だけ迷った。
 けれど次の瞬間はすでに訪れ、固めるはずの筋肉は綺麗に男の攻撃を避け、紙絵を行っていた。文字通り粉砕されたベッドのサイドテーブルを見て、は自分の反射神経に感謝した。そう言えば、外でもこんなやり取りをした覚えがある。男は相手が判断に一瞬戸惑うような、そんな柔らかさと硬さを持った動きを見せる。
 厄介な相手だ。
「ぞっとしないわ。私の任務はこれで終わりですから」
「つれねぇこと言うなよ。楽しもうぜぇ」
 外で戦っていたときの仕事の顔一切をかなぐり捨てた、純粋に命をつぶすことに意味を見出している男の顔に、根本的には一般人であるは戦慄する。馬鹿正直にぶつかり合いを長引かせては負けると、瞬時に証拠の品を部屋に投げ捨てて窓から外へと身を躍らせた。
 派手に砕け散る窓ガラスと、狂喜の声を上げて追いかけてくる男。
 口笛で呼び寄せた鳥には逃げながらも簡単な指示を言いつけると、その身を素早く人気のない路地へと潜り込ませていった。


 どのくらい時間がたったのか。
 仕事の顔をした男と戦い終えたのが、夜明け。仕事の顔をかなぐり捨て、趣味に走った男と追いかけっこをはじめたが、朝。
 は自分の髪を乱暴に掻き乱すと、ため息も満足に吐けぬまま隠れていた暗がりから飛び出していく。
「あら、はっずれー」
 つい数瞬前までがいた場所に、深々と突き立てられているのは男の牙である剣。石畳もまるでチーズのように剣を突き立てられ、がらりと哀れな音を出して転がった。
「鬼ごっこからかくれんぼに変更か?」
 男の言葉に返事もせず、は嵐脚を叩き込む。けれど路地裏は建物が密集し、住民に被害を出さないように気を配る余裕も出せず、男ごと建物の一部が切り刻まれる。
 誰の悲鳴も上がらず、男以外の手ごたえはない。は安堵の息を吐く間もなく、剣を男の肩に突き立てる。
 男は笑って体をずらし、が得られたのは男の腕の肉だけ。削ったその肉を振り払い、はさらに人目につかない場所へと男を誘い込んだ。

 日が昇り人々は動き出し、すでに正午を回っていた。
 自分達が動くには、危ない時間でしかない。

 追いかけ、追いかけられ、逃げられ逃げ込み、狂乱とも言える追いかけっこは夜まで続いていった。



「もう逃げねぇのかぁ」
「そうね、そろそろ幕引きにしてあげる」
 この時間ならば、すでに弟達は証拠の品を十分に回収し、目の前の男の元雇い主を抹消しただろうか。
 息も絶え絶えに満身創痍なは、それでも弟達と任務の心配をしていた。自分の命はもちろん持って帰るつもりだが、せっかく弟達とともに命じられた任務を成功させたいと思うのも事実で、にとっての絶対だった。
 弟達に、任務失敗という屈辱は背負わせられない。しかも自分と共同の任務なのだ。
 ぶつかり合う男との剣。はじけ飛ぶ血と肉と笑い声と罵声と、正気。
 すでにお互い事切れてもおかしくないほどの消耗戦は、男とが同じ方向へ視線を向けたことで一時休戦となった。
 剣と剣がガチガチと歯軋りをしていたが、それは二人にとって雑音にさえもならなかった。
 近づいてくる気配が四つ。は剣と同じように歯軋りをしたかったが、少しでも動けば男の剣も動き出す。
 近づいてきた気配は、すぐ目の前に姿を現した。
 どこか愕然としたような、弟達四人。の姿を見て、そんな事は予想もしていなかった事態だと言っているようなものだった。
 カリファの飲み込まれた息には妹の可愛らしさを見て、カクの張り詰められた筋肉の音には苦笑が浮かびそうになり、ブルーノが吐き出した息には涙を流しそうになった。
 ルッチはどんな反応もしなかった。ただ、彼が言葉すら失ったのをはその目で確認した。四人の見開かれた目に、彼らの傷ひとつ返り血ひとつついていないその姿に、は心の底から安堵した。
「ッ行きなさい!」
 だからこそ、ここまで巻き込むわけにはいかなかった。あと少し、あと少しでどちらかが死ぬのだ。は自分の勝利を確信し、男の息の根を止めるためにあと数回動けば良いだけなのだ。
 無事な家族の姿を見て、最後の一仕事にやる気を出さないわけにはいかない。
 口元に溢れてきた血を拭うことすら出来ず、剣は拮抗したまま。弟達は夢から覚めたように無垢なまなざしで瞬きを繰り返し、を見つめる。
「早く、任務を!」
 彼らの手にしているものを見て、は声を荒げる。駆け出したのはカリファとブルーノ。この二人はもう大丈夫だとは男の視線を感じながら安堵する。けれど、カクとルッチは動かない。
 動揺して泣き出しそうなカクの表情に、今すぐ駆け寄って抱きしめてしまいたくなる衝動を、は身を引き裂かれる思いで押さえ込んだ。
「でも姉さん!」
「カクッ!」
 初めて、荒げた声でその名前を叫んだ。今まで十年以上、そんな事はしようと思ったことすらなかったというのに、は叱り飛ばすように声を荒げていた。
 泣くかと思ったカクの表情は、ぐしゃりと歪んだままその場から消える。けれど、やはりルッチは動かない。きっとルッチは何を言っても無駄だろうと、は躊躇わずに目の前の男に嵐脚を見舞った。
 男がすでに息絶える寸前だったことを、その崩れた体を見ては知った。お互いにいつ事切れてもおかしくはなかったが、ここまで男も瀕死だったとは気づいていなかった。
 これで、この場のルッチに手を出す可能性はなくなった。
 弟達はもう安全なのだ。
「……っ、…………ッ」
 まともな呼吸が出来ず、は体全部を使って呼吸しているような気になる。肺の細胞一つ一つが酸素を切望し、ゆっくりと血の巡りは出血の勢いを増していき、膝は脳の指令を無視して動かずに、の体はそのまま地に叩きつけられた。
 ああ、情けない。ルッチの前でこんな無様な姿をさらしてしまった。
 でも、もう彼を傷つけるものはいない。
 自分が倒れても大丈夫だと確信できたは、弟達の仕事振りを疑うことすらなかった。自分の仕事が完璧でなかったことには悔いが残るが、任務は成功だろうと安堵の息を吐いた。
 あとは、ルッチが無事に家へと帰るのを見届けるだけ。
 が動かぬ体を無理に動かすと、視界の端にルッチの脚が見えた。そのまま首と視線を巡らし、自分を凝視しているルッチと目が合うと、思わずと言って良いほど自然には微笑んでいた。
「生きて」
「ルッチ」
 血塗れの手を伸ばし、せめて後押しをとルッチの足を押す。びくともしないと思っていたその体は、簡単にたたらを踏んでを驚かせた。けれど、それほど驚いているのだと思うと、の笑みは濃くなる。
 可愛い可愛い弟の一人。
「行きなさい」
「どこへ」
 当の昔に成人しているはずなのに、ルッチの声は子供のように反発的だった。しかめられた眉が、歪んだ目のふちが、引き締められた唇が歪む。
 傷つけてしまったと理解しながら、はルッチの言葉の雨に打たれていた。
「貴女はおれにどこへいけというのか」
「貴女を置いていけというのか」
「生きろというのか」
 愛しくも震える声音に、はまるで求婚されているようだと思う。ここまで必死に求められると、どうにかなってしまいそうな喜びに包まれてしまう。
「ルッチ」
 どの問いにも答えを返せない私を、許してね。
 心の中でひとつつぶやき、はルッチの目をまっすぐに見つめた。
 それは、任務の責任者として。彼の姉として、家族として、彼と絆を持つ人間として。
 笑えと、心の中で必死に自分に言い聞かせた。
「まだ、あなたは生きてる。生きられる」
「大丈夫、大丈夫よ、ルッチ」
 死を覚悟していたのかと聞かれれば、は否と答えた。けれど、予測できない事態など山ほどあって、目の前のルッチが安全だと確信しているけれど、このままルッチを早く逃がさなければという焦燥感も募っていて。
 猫が死ぬときは、人間からその姿を隠すという話を、どこかぼんやりと思い出していた。
 ルッチの顔が、どこか気が抜けたようにを見て、力のない笑みを浮かべた。
 ルッチの丸め込みに成功したと、は何度目かの安堵を覚えた。
「そう、先に任務を遂行するの。私は大丈夫だから」
「わかった。後で」
「ええ、後で」
 冷静な声を出せているか、は確認すら出来ない。けれど、ルッチが平素の冷静な表情を取り戻していたことから、自分は演技できていたのだと認識した。
 けれど彼の足は動き出さない。本能で、の何かを嗅ぎ取ったのかもしれない。
 勘の良いルッチに、さすがにも苦笑する。表面上も内面でも丸め込まれているくせに、体は正直だということだろうか。
「行きなさい」
「ルッチ」
 今度こそ駆け出した背中は、あっという間に見えなくなる。
 私は大丈夫、まだ大丈夫、あなたが見えなくなるまで堪えられる。死んでしまいはしない、絶対に生き延びるのだと決めている。
 ここで死んで気配が消えれば、ルッチは一目散に戻ってくるだろう。それはいけない、絶対にだめなのだ。
「ああ、でも」
 けれど緩んだ涙腺は涙を浮かび上がらせ、ゆっくりと心の箍を外してしまう。

 可愛い弟、優しい家族、かけがえのないルッチ。

「あいしてるわ、ルッチ」
 一生言う筈のなかった言葉がこぼれ、涙は頬を伝って落ちた。
 さあ、あと一仕事。男の脈動を確かめ、息絶えたことを完全に確認して身を隠さねばならない。男の遺体も、もし動かなくなるなら自分の体も、せめて下水道辺りにでも沈めなければ支障が出る。
 体を動かそうとするが、指の一本も動かない。ああ、だめだと思っても目は霞みだして視界を遮り、意識はすぐさま闇へと落ちていった。


「……んだ、こりゃあ」
 通報があり、駆けつけてみた室内には町の権力者の死体。犯人を捜せと部下を放って自分も辺りを巡ってみれば、人目につかない外れに男女の死体。どちらも身軽な格好で、転がる獲物は両方とも血塗れ剣で、肉も骨もあちらこちらに見えていて。
「派手にやったな」
 ひとつこぼして、男の死体を足でひっくり返すと、白目をむいた狂喜に歪んだ顔が見えた。これは事切れていると、確信できる。だが顔に見覚えがなく、足を動かしていた男の興味はすぐに女の死体へと移った。
 全身黒ずくめで、体の線が一目で分かる服装は、その死体が女だと告げていた。
 乱れた髪で見えない顔を拝もうと、今度はしゃがみこんでその髪を片手で払ってやる。なんの気負いもなく、男は女の顔を覗き込んでいた。
「……おいおい。お前、なんでここにいやがる」
 うなり声を上げた男は、すぐさま女の首筋に手を差し込んだ。かすかだが、まだ脈動を感じられるその体温に安堵の息を吐くとともに、呼気の薄さに目をしかめた。
「たしぎ、たしぎ!」
 そのまま部下の名前を声高に呼ぶと、焦ってひっくり返ったような声がすぐに返ってくる。
 男はその声が聞こえた方角に目をやると、女をすぐさま担ぎ上げた。うなり声ひとつも上げずに担がれるその体に、眉間の皺が濃くなる。
「……馬鹿が」
 吐き捨てるようにつぶやくと、男は歩み寄ってきたときとは正反対の速さを持って、その場から姿を消した。
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