貴女は思春期と言うには大人すぎて、おれは思春期と言うには早すぎた
君は「全てを忘れて、違う場所で出会っていたら」と時折呟く。
そしてそれは叶わないことだと知っていて、「それでも恋をするよ」といつも返す。
君はそれを嬉しそうに聞く。もっと言ってとねだってくる。
触れた唇の冷たさは氷を浮かべた水の所為だけれど、息の熱さは君の想いの熱さだと思ってもいいだろうか。
「なに書いてるんですか?」
「んー? 恋する男女のポエムー」
手遊びに書き綴っていた文字から顔を上げると、小さなルッチが紙を覗き込んでいた。見慣れた面白い形のヒゲもまだなく、長くウェーブのかかった髪も今まだ短いままで、感情をあまり浮かべない眼は今はまだ興味深そうにきらきらしていた。
その眼が感情を殺すのを、すでに何度も見ているのにどうぞこのままで居てくださいなんて、時折祈る私は愚か者かもしれない。感情が見えても見えなくても、可愛らしいルッチは感情をなくすことなど無い。
「男から女に向けての言葉、ですか」
「そうね、こんな風に思ってくれてたら素敵だなと思って書いてみたの。暇だったし」
そう言ってルッチの顔を見ると、彼はなにやら私と目が合うと複雑そうに嫌そうに顔をしかめて視線をそらしてしまった。なんだなんだと視線を合わそうと、視線の先に顔を動かすとさらに顔ごと視線をそらされる。
「ルッチ?」
怪訝な声を上げてもこちらを見てはもらえず、駆けていこうとした腕をとっさに掴む。まだ細い、少年の腕だった。
「さん、離してください」
「嫌よ、離したら逃げちゃうでしょ?」
「今日は授業、どうされたんですか」
「休講よ。先生に任務が入っちゃったの」
ルッチは私を怯ませたかったようだが生憎の事情で、逆にルッチが怯むことになった。図星をさしてるなんてことは分かってる。ルッチが私と顔を合わせたくなくなったのもわかってる。だからこそ、逃がしたくないと言うこの本能。大人になってからでは勝てないからと言うのもあれば、この彼自身が構いたくなる少年だということも相まっている。
「ルッチ」
優しく名前を呼んで腕を引くと、案外と抵抗無くルッチの体は私の胸にもたれてくる。私がイスに座っているとはいえ、まだちょっと小さめなルッチはすっぽりと腕の中に収まってしまう。
可愛い弟だと思うが、それを言えばもう拗ねる年齢になってしまったので、なかなか言えない。
「どうしたのよ、ルッチ」
「さんは」
「ん?」
胸に顔を伏せている彼の表情は読み取れない。けれど私の胸に顔を触れさせてはいけないと思ったのか、少しばかり体が腕の中で動く。それを、封じ込めるように強く抱きしめたが、それよりさきにルッチの腕が、私の両の肩を押して動きを止めてしまう。
「さんは、おれを子ども扱いする」
我慢なら無いと言う口調で、まだまだ高い声が静かに告げる。
「おれはもう、貴女より強い」
「そうね、私より飲み込みが早くてうらやましいわ」
「おれの方が、早く任務につきます!」
「尊敬してる」
「だったら……!」
子ども扱いしてほしくないのだろう少年と分かっていながら、私は静かに次の言葉を待った。彼は私の腕から身を離し、私を強く睨みつける。
その口が動き、ほの暗い喉奥が姿を現す。けれどそこから音は伝わらず、何度か開閉されたそれはしっかりと閉じられてしまう。ルッチが、私を燃えるような憤怒の目で睨み上げてくる。そこまで癇に障る対応だったかと、反省せざるを得ない。
「ル」
「貴女は分かっていない、分かろうともしない。おれが子供だと、馬鹿にしている!」
「違う! それは違う!」
思っても見なかった言葉に口から反論が飛び出した。誤解をされたくない、可愛い弟に離れてほしくないと思ったためのとっさの行動だった。イスから腰が浮き、後退るルッチを視線で追う。憤怒の表情は動かない。
「なにが違う! 貴女はいつもおれを弟扱いする!」
「家族だと思って何が悪いの!」
「家族!? 血の一滴たりとも貴女と同じものは流れていない! 戸籍も環境も貴女とは家族だったことなどない!」
「それでもルッチは弟だわ!」
「弟じゃない!!」
叩きつけられるような感情の波に、息が上がる。心臓が蒸気を上げてごうごうと炎の抜け殻を空に排出するかのように、息が上がった。心臓が壊れるかと思うほど、耳の奥でその音を響かせる。
「ルッチ、私は」
ルッチの目は変わらず、私の言葉を待たずに一言吐き捨てる。その言葉に、思わず涙がにじむ。止められずに瞼から落ちてしまい、堰を切ったように涙たちは瞼から飛び降りていく。
「っ」
ルッチの息を呑む空気が伝わってきても、その表情は見えなかった。不覚にも、涙で前が見えないという状況に陥った私は、それを拭くことさえ出来なかった。腕を上げることすら、億劫だった。
「それでも」
喉が涙で喘いでいるように引きつる。ルッチが、私の唇の動きを警戒しているのが分かる。彼の息も上がっているのだ。
「私は、貴方を愛してるわ」
息を呑む音が部屋に響き、ルッチは言葉も返さずに乱暴な動きで部屋を出て行ってしまった。ドアが悲鳴を上げて閉まろうとし、そしてまた悲痛な泣き声を上げてふらついた。
正直、ここまではっきりと拒絶されるのは胸が痛い。けれど彼の中の自尊心やらなにやらを踏み潰してしまったのは私で、普段の私への態度から、優しい感情を持たれていることを知っているから、絶望することはない。
彼の言葉に胸の奥から血を流すことなど、ない。
ならばその涙は何だと問われれば、私は涙だとしか答えられない。
涙をぬぐいながらイスに腰掛けなおす。震える喉で空気を深く吸い込んで、また震えながら吐き出すと少し落ち着いた気がする。耳の中ではまだ甲高い少年の声がこだまして、響いて、震わせて、どこかしらにぶつかり続けている。
「貴方を姉と慕ったことなど、一度たりともない!」
彼が吐き捨てて言った言葉は、どうしてこうも辛いのだろうか。
彼女の存在で、姉が居たらこんな感じかと思ったことは、幾度となくあった。
ブルーノに教わりながら生徒役に徹していても、彼女はやはり年上の女性であって、年下のおれたちへの優しい言葉や対応などが、どこかくすぐったいものだった。
「さん」
呼ぶと、なぁにルッチと柔らかい声が柔らかい微笑みを伴ってこちらを向いて、そして自分だけを見てくれるその時間が好きだった。
それが初恋だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「カリファ、なに話してたんだ?」
「ふふ、男の子たちにはまだ先の話よ」
気取って肩をすくめるカリファに嫌な顔をしてやると、また楽しそうに笑われた。さっきまでカリファと話していた女子は、なにやら秘密よと最後に言っていた気がする。
「何が秘密なんだ?」
「あら、聞こえちゃってたの?」
「違う、そこしか聞こえなかったんだ」
面白くなさそうな声を打ち消すと、カリファはそうね、秘密は言えないけれどと前置きして話しだした。
「恋のね、話をしてたの」
「恋?」
「そうよ。ルッチはまだでしょ?」
「まだ?」
それは何だと問うと、やっぱり男子はまだなのねと言う意味ありげな微笑みを浮かべられてしまった。さんの柔らかい微笑みや悪戯っぽい微笑みとはまた違う、カリファの楽しげな微笑み。悪くはないが、やはりさんのものとは違った。年の差だろうか。
「それを知らなくても鍛錬は出来るぞ」
面白くなくて適当に言うと、カリファはしらけるとでも言いたげに天井を見上げる。
「ルッチは感じたことがない? こう、胸があったかくなったり、反対にドキドキしたりする事。その人のことを考えると、夜も昼も関係なくなっちゃうこと!」
カリファはどこか興奮したように言葉を発し、おれの聞いている態度が気に入らないのか、あーもーないのね? と一転して呆れた表情を浮かべた。
「鍛錬の後の状態と酷似していると思うが」
「色気のない話はやめてよ!」
「色気って、お前」
将来任務上役立てる手段の中に、己の体を使ったものもあると習ったが、今そんな話はしていないはずだ。今度はおれが呆れた声を出した。カリファは心外だとばかりに眉を寄せる。
「色気のある話じゃない。恋をして、その人の特別になりたいと思って、自分だけを特別な目で見てほしくなって、任務関係なしにベッ…………えー、ごほんごほん」
「……」
話の流れからなんとはなしに濁された部分が分かり、おれはそ知らぬふりをした。カリファはおれの様子を伺い、追求されないと分かると顔を真剣なものにする。一歩、距離が縮まりお互いの顔が近づく。
「恋は人間の子孫繁栄本能としてお互いの体をつなぎ、子を作りたいということ以前に感情から発するものなのよ。恋の延長線上に、色気が発生してくるの」
「任務でも色気を使うと聞いたぞ」
「それは任務だから!」
おれの言葉に、カリファはだまらっしゃい! と声を荒げる。おれは迫力に押されて口を閉じる。カリファの講釈は続く。
「自分だけを見てほしい、自分だけのものになってほしい、任務など関係ない、ああ、あの人のことを考えようとしなくても、瞼の裏にあの人の姿が映る……。そういうのが、恋しているという状態なの。分かった?」
ここで分かったと言わなければ、どうされるんだろうか。
カリファの真摯で有無を言わせぬ瞳に、そう言えば前の時間カリファがうっかり標準を間違えて他の奴に足技を喰らわしてしまい、そいつは一週間は目覚めないといわれていたのを思い出す。
……逆らわないほうがいいだろうと、頭の中の「恋」の項目にカリファの言った言葉たちを知識として詰め込んでいく。こんなおれを見たら、さんは笑うだろうか。ふと思う。そういう事もあるわと言って、慰めてくれるだろうか。
「わかった」
「そう、なら良かったわ」
一言告げると、カリファは満足したのか笑顔でおれから離れていく。そのまま割り振られている授業にでも行くのか、教室のあるほうへと歩みに迷いが無い。これならばもう因縁はつけられないだろうと息を吐くと、同時にカリファが振り向く。吹くかと思った。
「そうそう、ルッチ」
「なんだ」
「恋が分かったんなら、もう自覚してるわよね」
「なにがだ」
隠さないでよ、カリファは綺麗に笑った。
「さんが好きで、恋してるんでしょう? 初恋おめでとう」
「はぁ!?」
カリファはおれの反応にコメントすることなく歩いていってしまう。名前を呼ぼうとすると、さっさと駆けてまで行ってしまう。
「なんだよ、それは」
おれは言葉を不満げに吐きながら、さんの笑みを思い浮かべていた事実を想い返す。
貴女は「全てを忘れて、違う場所で出会っていたら」などと呟かない。
「貴方たちに出会えてよかったわ」と時折呟く。
そしてその言葉をおれだけに言うのではなく、みんなと含んで時折呟く。
おれは叶わないことだと知っていて、「全て忘れても、それでも貴女に恋をするだろう」と胸の中でいつも返す。
貴女はそれを聞くことなどない。いつか、もっと言ってとねだられるようになりたい。
貴女は大人で余裕があって、おれはこの初恋に振り回されてばかりいる。
貴女を姉と慕ったことなどない。良く考えれば、初めからそうなのだから。初めて触れ合ったそのときから、おれは貴女を女性としてみていたのだから。
だからこの胸の痛みは弟にはありえない、恋に殉ずる男のものだ。
ああ、なんと苦しい痛みだろうか。
いつか貴女の唇に触れ、その温度に悩む日が来るのだろうか。