貴女の存在の影が伸び、そして本体が現れただけの話
なんだそれ、ばかみてぇじゃんとフランキーが言ったので殴った。けれど力が抜けていたのか、反射的にいてぇ! と言ったフランキーが、言った後で怪訝そうにおれを見ていた。
さんは微笑んで、ばかみたいじゃないよ、尊いものなんだよと消えそうな声でうたった。風が吹けばかき消されるような声だった。
「アイスバーグさん、約束してくださいね」
今にも泣きそうな顔で微笑んで、彼女は小指を差し出した。綺麗な手だった。
「アイスバーグさん?」
カリファの怪訝そうな声で意識が戻る。お疲れですかと問われて、その顔を見ながら首を横にする。持っていた設計図に目を通しなおして担当者に返すと、ゆっくりと現実に返ってきた感覚を味わう。じわりじわりと汗が染み出すような実感の仕方に、笑うしかない。
「ンマー、今日の予定はどうだった?」
「はい、この後は」
カリファの言葉を聞きながら、どこか一方ではまだフランキーが喚いてさんがそれに面食らっていた。
フランキーは彼女の扱い方を図りかねていて、おれと同じように接することも年下にするような態度をとることもできていなかった。けれど彼女はそれに面食らうばかりで怒るような事はせず、最終的にはバトルフランキーの話であいつと盛り上がるまでになっていた。
懐かしい過去の数日間を、最近いやに思い出す。もう何年も前の話だ。フランキーが生きていると分かったのも、年単位で前の話だ。いまさら彼女がどうとか、思い出すきっかけすらなかったのに。
「以上です」
「後半は全てキャンセルだ」
「ではそのように」
カリファのペンの音に耳をくすぐられながら、ドックを回る。トムさんはいない、フランキーもいない、ココロさんもヨコヅナもいないドック。
そしてほんの数日だけ現れた彼女の影も無い、活気あるおれのカンパニー。
今彼女が目の前に来たのなら、あの時のように言ってくれるだろうか。
「偉大な船大工さんたちに会いに来ました」
迷いなく言われた言葉を、今も言ってはくれないだろうか。
おれ一人になってしまって、政府の船を大量に作って、それでもトムさんの命すら持っていってしまったプルトンの設計図をフランキーに預けた、変わってしまったおれに、言ってくれるだろうか。
胸がざわめく。夢で繰り返した光景が、目をあけても見えるような気さえする。数年前の数日間が、なぜか浮かんで消えてくれない。
交わした言葉も少なく、過ごした時間も短いものだった。
海列車と、船と、トムズ・ワーカーズと、自分たち個人と、そんな話しかしなかった。船大工の苦労と楽しさと、彼女が船大工見習いだと言う話くらいしかしなかった。名前すら、さっきまで忘れていたのだ。なぜ、いまさら。
「ん、なにやら騒がしいな」
耳に入ってくる音に声を上げると、すかさずカリファが補足してくれる。もう長年連れあった相棒のようにツーと言えばカーな関係が、カリファの優秀さを物語っている。正直、居心地いいと思う。
「カクとルッチのお知り合いがファンの中にまぎれていたようですね、女性のようです」
「ほう」
ドックの入り口へと視線を向ければ、なにやら大慌てな様子の二人が誰かに話しかけている。小さいのだろうその人物は、カクやルッチの体に隠れてよく見えない。が、パウリーが近づいて取り乱さないところを見ると、パウリー基準のハレンチな格好ではないらしい。逆にカクやルッチに、パウリー自身が追い払われているが。
「いかがなさいますか?」
職長二人共通の知り合いで他のメンバーは知らない人物と言う、そこそこ珍しい事態に職人たちの目も集まる。ファンたちは返したようだがどうにも収まりが付かないようだ。パウリーとルッチの言い合う声が大きくなる。
カリファがメガネフレームを押し上げるのを見てから、また騒ぎの原因へと視線を移す。渦中の女性は、カクの腕に手を置いてなにやら言っている。カクが自分の後ろ頭を撫でるところしか見えない。ルッチは先ほどからパウリーと派手にケンカを始めてしまった。
「ンマー、うるせぇし面白いから見に行くか」
「そうですね、業務の妨げにもなりますしね」
自分の言葉のどちらも本音だと分かっている美人秘書は、くと口の端を上げて微笑んだ。
貴女がそこに居るなんて知らなかった。
変わらない不思議なその目は、まっすぐにおれを見て少しはにかんだ。
唇が何かつむぐ前に頭の中で声がした。
「アイスバーグさん」
差し入れられた林檎のように、甘くて爽やかなあの声が。
それは過去だと思っていたのに。
それは想い出だと思っていたのに。
貴女は目の前に現れて、見慣れた人間たちの間から頭を下げた。
「お元気そうで何よりです。調子はいかがですか?」
変わらぬ声で貴女はこちらを見た。変わらないまっすぐな目だった。けれど泣きそうな目だった。どうしてくれようか、想い出だとついさっき割り切ろうとしたばかりなのに、貴女はたやすく目の前に現れる。
「アイスバーグさん?」
不思議そうに名前を呼ばないで、貴女を攫ってしまいたくなる。あの過去が戻ってくるような気さえする。欠けてしまったあの人が、笑って港から現れそうな気さえする。六人で夕飯を囲んで、また明日へと続くような錯覚が襲ってくる。
あなたの存在を認識したとたんに溢れる感情。どこに隠れていたんだ、この感情どもは。