ああ、どうしてこの恋は

 胸を掻き毟るような衝動だった。私は知っている事柄を嘔吐した。けれどその場所が誰も通らない狭くて小さな路地で、そこには私しか居なくて、上下左右水路のどこにも人影のない夕方間近な時間帯と言うこともあり、だれにも届くことはなかった。けれど私はもう止めようもない衝動で本当に胸を掻き毟りながら喚いた。知っていること全てを嘔吐した。それでも私の短い爪では服の上から皮膚は破れず、胸の中の衝動を掻き出すことも出来なくて水路に飛び込んだ。水の中で喚いて胸を掻き毟って水面に上がったらそこら辺にある荷物を抱いてまた水路に飛び込んだ。ポケットに石を詰めれば浮かび上がらないことを思い出して、今日に限って近くにそんなものはないと見渡してすぐに分かった。また知らない衝動が駆け巡る。皮膚は破れない、私の嘔吐した事柄は誰の耳にも届かない。痛い痛い痛い痛い痛い痛い。けれどまったく痛くない。これは夢なのだからと一瞬でも思えば、痛みなどは夢幻だとさっさと消えていく。服を捲り上げて水路の上の路地に放り上げて見ると、確かにくっきりと私の爪あとが胸を掻き毟っている。けれど痛くない。水がしみたら痛いだろうなと思うと途端に痛くなる。どんな体だ。私はめくった服の下、下着の上からまた胸を掻き毟った。

!」

 誰かの声がした。私はそちらを見ずにまた水にもぐった。樽はいけない、あれは水に浮くように作られている。私は沈んでいる建物の柱にでも濡れた服で足を繋げばよかったと思って、放り上げた服を取りに浮かび上がる。そうするとこんな場所に居るのは珍しいあの人がそこにいた。浮かんできた私の顔を見て、安堵したように肩から息を吐いている。
 いつもなら心配をかけないようにする自分なのに、どうしてかそんな気分になれなかった。私は沈みたかった。この夢現の境を知りたかった。息が止まれば私は死ぬのか、心臓が止まれば死ぬのか、脳が死ねば死ぬのか、それとも死と言う概念すら気のせいだと思えばこないものになっているのか。これは夢か幻か胡蝶の見る夢なのか。
 あの人の姿はまだ遠くにあった。私は躊躇いもせずに路地に上がり、こちらに駆けて来ようとする姿を尻目に濡れて服として機能していない布切れを手に、また水中へと身を放った。息を止めて体を重くしようと意識して、潜っていく。苦しい。けれどこんなもの夢だから、どうとでもなると思えば息は楽になった。あれだ、青いネコ型ロボットの持つ、水中でも息が出来る飴でも舐めているようだ。
 思い通りになると言うならば、私の体はタイルストンさんよりもブルーノさんよりも重く、適当な柱が見つかるまでどんどん放り投げられた岩のように沈んでいくだろうと念じた。念だなんて、違う世界だと笑った。けれど体は熱を帯びたように熱くなり、どんどんと沈んでいった。けれどすぐに目当ての柱が見つかり、ちょっとばかり柱に腕を回さねば結べない程度の太さだった。服の端を結ぶ。ワンピースだったそれは、今やもとの色さえ思い出せないほど水の色に染まっている。空の色を移した海の色だ。美しいと思った。私はもう片方の端を足に巻きつける。そして力いっぱい結ぼうとして、水が大きくたわんだ事に気づいた。

 水が、彼の名前を呼んだように思えた。
 見上げた水の空は、彼の姿を捉えていた。

 金色の髪が水に舞う。ああ、綺麗だなとしばし見とれた。









 パウリーさんは多少手こずりながらもこちらへと、見る見るうちに潜ってきた。私が平然と足に巻きつけた結び目を強くすると、トレードマークのゴーグル越しにこちらを睨みつけていた。
「なによ」
 水の中で声が通らないことなど百も承知だった。でも私なら通ると思ってみた。
 パウリーさんは、目を見開いていた。
 私は強く強く結び目を片結びにする。パウリーさんから目をそらして、渾身の力で強く結んだ。
「どうせ私は選べないんだから。パウリーさんしか選べないんだから!」
 これは夢だ。だから漫画のキャラクターにここまで固執できるのだ。そしてパウリーさんが追いかけてきてくれるのだ。なぜならパウリーさんから見たら、私も立派にその世界の住人に見えるからだ。なんて詐欺のような。私はこの世界生まれではない。なのに危険なことを彼にやらせてしまっている、こんな詐欺なことってあるものか。
 パウリーさんはなにやら困ったように口から水泡を浮かべると、慌てて自分の口を手でふさぐ。けれどもう片方の手は、結び目を硬くしている私の手に置かれる。止めようとしてくれているのだ。
 無性に愛しくなってくる。私は彼の目を見た。
「パウリーさん」
 じっと私を見ているその目を、ゴーグル越しに熱く見つめる。ああ、眼を見つめていたら私の見たことのある今後の展開が全て伝わらないかしら。最初から最後まで他力本願だ。私は飛んだチキン女なのだ。
 けれど私の思いは伝わらず、パウリーさんは両手で結び目を解こうとしだす。私はやめてといってその手を止めようとしたが、水の中で柔らかく手を弾かれてしまう。水の外だったらば、力強い音で弾かれていただろう。
 パウリーさんは私を見ずに結び目を解きだした。私は手を離し、パウリーさんの首に両腕を巻きつけた。パウリーさんは少しだけ動きを止めて、また結び目を解こうと躍起になった。私はそれをじっと見つめていた。

 パウリーさんの口から水疱の量が増え、そして減っていった。彼の息ももう持たないだろう。私が力いっぱい結んだのだ、しかも水の中なので器用なパウリーさんでさえ解けない。彼の渋面は悲壮なまでに青白かった。
「パウリーさん、もういいですよ」
 伝わると分かっていて呟いた。耳元だったの水泡もダイレクトだろうに、パウリーさんは首を何度も横に振った。私はそれが嬉しくて悲しくて、でも私の癇癪で彼が死ぬのは耐えられなかった。所詮違う世界の住民といっても、先ほど考えていた通り彼は私を同じ世界の住民としてみてくれているし、彼からすれば私が彼に惚れても別段支障はないのだろう。私は大いに困惑するのだが、自分の心は素直だった。
 ゆっくりと彼の顎下に手を置き、ゆっくりとだがこちらを向いてもらった。パウリーさんは振り払おうとしたけれど、大きく開いたその口に自分の口を合わせた。硬直する彼の体に構わず、息が出来ているのならパウリーさんに酸素を分けることなんて朝飯前だろうと思って息を送り込んだ。多少二酸化炭素が混じっていても、それは勘弁してもらいたい。

 しばらくパウリーさんは抵抗していたけれど、いつしかあきらめてくれた。私は一生懸命彼に酸素を供給し続けた。そう言えばファーストキスだと場違いにも思い出して、それが合意の末ではないにしろ好きな人だと言うのが嬉しかった。いきなり舌を絡めそうなほどのディープなやつだというのは、一生話の種になりそうだ。パウリーさんにとってはトラウマになるだろうけど、これで女嫌いになったらいやだなぁ。
 酸素を送り続けてしばらくすると、パウリーさんの両腕が体に回ってきた。腰を引き寄せられ、閉じられていた瞼がそっと上げられていた。いつもの明るい色が見えず、ゴーグル越しのその目が少し寂しかった。けれどこれは恋人同士のキスではないのだ。ただの酸素供給で、私は今や酸素ボンベなのだと言い聞かせた。視界の端に映るパウリーさんの金髪がゆらゆらと水中を泳ぐ。そしてここまでかすかに届く太陽光に煌いて、なんて美しいんだろうと思った。こんな男性と酸素ボンベの分際とはいえキスが出来て、しかも心配して水中に飛び込んでもらえるなんて、私はなんて果報者なのだろうかと思った。

 沈むのは、もっと見つからない場所でやろうと思った。
 けれどもう、その気はだいぶ薄れていた。なんて単純なことだろう。

 パウリーさんの唇から唇を離し、首から腕を離すと、彼の目が驚いているのが分かった。抱きしめられる腕の力が強くなって、苦しい気がして喜んで笑ってしまう。私はマゾなのかと胸中で突っ込みを入れた。
 けれど体がもっと重くなれと念じれば、目的の物はすぐにつかめた。私の足を硬く拘束している、服の端だ。パウリーさんの表情がまた青くなる。
 私は笑った。そして結び目にそっと触れると、服は水に溶けるように解けていった。丸くなる目が可愛らしいと思った。そして即座に腕の力が上へと私を引っ張り、急激に視界が変わる。目が痛くて瞼を閉じると、ぐんぐんと水面に近づいていく気配がした。水が温かくなるのだ。それは深海から始めて水面へと進んでいく深海魚のように、新鮮な感覚だった。

「ぷはっ!」
「はっ!」

 パウリーさんの上げる声に、釣られて声を上げてしまう。水中から出てしまったのだ。パウリーさんからの拘束は緩まず、有無を言わせず路地へと放り上げられてしまう。痛いと声を上げようと思ったが、痛くない気もしている。水の中に長時間居たら、寒くて体の芯から感覚がなくなるんだっけと、要らない知識まで引き上げてきて自分の体の感覚さえつかめない。

 全て夢幻と思えば早いわけだが。

「お前」
 パウリーさんの低い声にそちらを見る。彼も私を放り上げてから即座に自ら上がったらしい。ずぶ濡れでゴーグルなんて路地に放り出されてて、いつも吸ってる葉巻もびしょびしょだ。
 私はこんな色男を濡らしてしまったのだ。芯から。なんだこの色気のあるフェロモン男はと叫びださなかったのが奇跡だ。この世界に来る前だったら、紙面を見つつ雄叫びの一つや五つ上げていただろう。なんて罪な男だ。
「パウリーさん、どうしてそんなに色っぽいんですか」
「……はぁ?」
 多分私を怒鳴るために開かれたのだろう口が、時間を置いて怪訝そうに思いっきりゆがめられた。それはそれでまた見事にこう、唇にかぶりつきたくなるような斜を描いていて、あれだもう、私は抗いきれないかもしれないと思った。だってさっきまで、あの唇に自分からかぶりついていましたから。なんてハレンチなんだろう、自分は!
「私をそれ以上惚れさせてどうするんですか、パウリーさん以外に惚れる余裕がなくなっちゃうじゃないですか! 責任とって結婚でもしてくれるんですか!」
 頭の芯は冷えて熱くて落ち着いていて、混乱していると見せかけてパウリーさんの様子を伺えてと指令を出してきた。もちろん逆らう私ではない、小心者は強かでなくてはいけない。どこか矛盾しているが、弱者なのだと全面的に押し出してしまうのだ。
 パウリーさんはぽかんと気の抜けた顔でこちらを見ていて、そして私の手首を掴んできた。そして脈を図るような素振りを見せて、手首を握ったまま顔をまた見てきた。そして濡れた葉巻を口にくわえて、なんだかしょっぱそうな顔をした。
「お前、
「はい」
 喉に魚の骨でも詰まったような煮え切らない顔で、パウリーさんは表情を少しずつずらしていく。困っているのだ。
「その、よ」
「はい」
 私はあらん限りの力でしっかりとパウリーさんを見つめた。私の頭の中はもう彼しか居なかった。さあ、愛しい彼はなんと言って私をここから連れ出してくれるのだろう。
 掻き毟りたくなるような衝動は消え去って、今は貴方を思う微熱だけを抱えてる。







 おれの目の届かねぇ場所で、危ねぇことしてんなよ。
 死にたかったのか、自殺だったのか、おれは止めちゃぁいけなかったのか。

 けれどその嬉しそうにこちらをのぞきこんでくる目が、答えのような気がして。
 どうにも言葉に詰まってしまう。

 その、なんだ。
 とにかくおれの上着でいいから、その。

「からだ、隠せ!」

 力いっぱい上着を顔面に投げつけたら、力いっぱいの奴は笑い転げやがった。
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