01:知らない振り

 道を歩く。見えるのは学校へと駆け足で急ぐ学生、仕事場へと向かう男女。病院にでも向かうのだろうか、のんびりとした足取りでバス停のベンチに腰を下ろす老齢の男女。
 そこに紛れ込んだ光景に、はここ数日の頭痛を押さえながら「知らない振り」を決め込む。視線を合わせず、見なかったことにする。わざと視線を外すようなことはせず、目が合ってしまっても「気のせいだった」と思い込んだ人間の振りをする。
『ねぇ、ちょっとそこのお姉さん』
 光景の一部が話しかけてくる。小さな黒髪の男の子は、無邪気な笑顔で隣をついて歩く。は答えずにまっすぐ前を見て歩く。通勤用の運動靴で走って逃げることも考えたが、それでは「知らん振り」にならない。は北島マヤになり、ガラスの千の仮面をつけた大女優になりきった……つもりになって、増えてくる人ごみにまぎれていく。
『なぁ、あんただって、そこのあんただよ』
 銀髪の猫っ毛らしい少年もくっ付いてくる。こちらは今時珍しいスケボーでついてくる。
 人ごみの中、誰にもぶつからずにスケボーの少年も黒髪の少年もついてくる。
 そんなことはありえないと、は唇を噛み締めてひたすら前を向いて駅へと急いだ。人ごみは今やの肩にぶつかるのが当たり前な程行きかっており、10歳前後の子供が容易くついてこられる混雑具合ではない。
『ねぇ、お姉さんってば。おれたち別に怪しくないよ?』
『ばっかお前、そんなこと言ったら余計怪しいだろ』
『そんなものかな?』
 けれど子供達はついてくる。が顔色を青くしていることにも気づかず、ぴったりの両脇を歩くより少し早い程度で走っている。
 電車のベルが鳴る、人ごみが大移動する、いくつかの大群がぶつかり合い目的地へと進んでいく。
『ねぇ、お姉さんでしょう?』
さん、大人げねーぞー』
 電車へと駆け込むの背に向かって、人ごみの中悠々と立ち止まった子供たちが手を振る。出入りの激しいプラットホームで、誰も彼らに気づかない。すり抜けていく。子供達の体を、何も気づかずにすり抜けていく。
 思わず振り返ってしまったの表情を見て、二人は一瞬だけ顔をゆがめる。けれど、次の瞬間の表情は笑顔だった。
さん、またね』
さん、今度は飯おごってくれよ?』
 あ、菓子食い放題でも俺は全然オッケー。
 手を振る黒髪の子供と、銀髪の子供。
 駅から出発する電車。慣れ親しんだ音と振動が伝わる中、食い入るように子供達を見つめる。
 途中で煙の様に消えたりしない。が見えなくなるまで手を振った二人は、何事もなかったように駅の階段を登っていく。まるで、そこに生きているかのように振舞っている。
「…………ありえない、のに」
 漫画の世界のはずだ、と口の中で呟いても、子供達は無邪気にまた顔を見せにくる。
 目的地の駅で電車を降りると、すれ違う人ごみで一人の女性が呟いていった。
『団長が、また遊ぼうって伝言よ』
 その魅力にあった黒のスーツ、胸元が大きく開いた黒のスーツ、綺麗な金のセミロングをなびかせ、特徴的な鷲鼻を持ちながらも美女と言って差しつかえない容姿の女性。
 抗えずにそちらを見ると、人ごみをすり抜けるように片手を振って去ってしまう。
『bye』
 穏やかに告げられた言葉に、は歯の根があわなくなる。なぜ、なぜ、と自問しても答えは導き出されない。怖くなって人ごみから急いで飛び出していく。生きるためには、今日も働かなければならない。そう、誰かから奪うのではなく、労働の対価として生きる糧を得るのだ。
『おやおや、そんなに慌ててどうしたんだい?』
 全身の毛が総毛立つ。
 反射的に掴まれている手から腕を振りほどこうとするが、相手の男はびくともしない。いやだ、怖いとが走り出そうとしても振りほどけない。
 男は愛嬌のあるピエロメイクで笑い声を漏らす。まるで耳に水銀を流し込まれるような、命の危険すら感じる恐怖。
『だめだよ、。そんな顔をしちゃあ、ただでさえ君は狙われやすいんだから』
 不意をつけたのか、は自由になった体で走り出す。怖い怖い怖いと頭の中で一つの感情しか認識できない、心臓は早鐘の様に体を突き破って出てきてしまうのではないかと言うほど脈打っている。
「こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい」
 際限なく弱音が零れ落ちていく。それを見送る男は、嬉しそうにその背に手を振り続ける。
 ふつり、と彼の耳に音が届いたとき、そこでようやく男は目を丸くする。
『おや、またかい? なんの念だろうね』
 あまり伸ばせば切れてしまう。けれど、離れてほんの数秒で切れてしまうのは早すぎる。
 ククク、と常人では発音しがたい声音で笑い、男は駅を後にする。ふんわりと風が舞うように体は他の人間をすり抜け、そのまま誰にもぶつからずに歩いていった。


 賑やかな街中でも、静かなオフィス街でも、人通りの少ない廊下でも、に声をかけてくる人間の数は減らない。増える一方。はその現実に打ちのめされる一方。
 人ごみでも関係ない、すり抜ける人々はみな一様に友好的。けれどその姿形が、口調が、行動がの中の常識を突き崩していく。トリップしちゃったの? それとも向こうが逆トリップしちゃったの?
 そんなことはありえない、ありえないったらありえない。私は気が狂ったのかもしれない。永遠にこの世界から離れるなんて望まないから、漫画の世界へ行ってみたいともう二度と思わないから、平穏な生活を還して。
 は必死に必死にお祈りをして、死んだように眠りの泥沼に落ちていく。休まらない神経は、逃避行動としての眠り癖を呼び起こした。
『……、寝てしまたか』
 小さな影が、のベッドに近づく。涙の跡と穏やかではない寝息に眉をひそめ、乱暴にの体の下から掛け布団を引きずり出すと、無言でを覆い隠した。
 小さな影は、ベッドの端に腰掛ける。
『馬鹿ね、認めれば簡単。それが分からないお前、本物の馬鹿』
 小さくため息をついた影は、しばらく静かに瞼を閉じて動かなかった。
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