02.傘
今日はものの見事にやってしまった。隣で怒鳴っているはずの功刀くんの声が遠くに聞こえるというか、本当に遠くにいる気がする。顔を真っ青にしておろおろと大きな体を右往左往させて、私に向かってごめんなさいすみませんを繰り返している高山くんの声も遠くに聞こえる。
まいった。マジで勘弁してください、神様。何もこんなに日に天罰下すことないじゃないですか、天罰って一括払いなんですか。それともこれは分割の一部なんですか。私そんなに悪い子でしたか。自己申告としては悪い子だったと白状します。げはー。だから今この現実を五分くらい前に戻してください、お願い神様ー!
そんな私の声が届いたのか届いてないのか、生理痛までぶり返してきました今日はアンラッキーデー! マジ神様引いてた痛みがぶり返してきましたよ最悪ー!
そんなことを心の中で叫んでいても、外側から見れば私は茫然自失状態で折れた傘を両の手のひらにおいている、一見すれば怪しいながらも梅雨の時期である今は、十分に同情を引ける状態だったらしい。
数時間前に私の中で救世主とあだ名のついた、彼が通りかかったのだから!
実は今日、アンラッキーデーに見せかけたラッキーデーなのかもしれないねとか、心の中の私に話しかける寂しい子。
「あー…、状況はなんとなく予想できるんやけど」
「よよよよよよヨっさぁああーーーん!!おれ、おれどうずればいいんやろがー!」
「ショーエイ黙らんかっ! ヨシ、あの傘直らんか」
「カズざぁああーーん!」
「いい加減にお前は……せからしかーー!!」
タカとカズの一見漫才にも見える阿鼻叫喚の靴箱前は、遠くから聞いちょって予想しちょったよりもずいぶん悪い状況やった。
タカが叫びカズが蹴りをかまし、かと思えば正気づいたように誰かの元に駆け寄って何事か励ましを掛ける。その「誰か」が十分予想できながらも、どうすればこの場が収まるのか二人の漫才もどきが三順したころにようやく結論を出す。
小さなため息を吐き出し、自分に気合を入れるよう気を引き締める。
「」
「なに」
打てば響くように帰ってきた返事に驚いて顔を向けると、微妙に焦点の合っていない目がタカの身体の向こうから、こちらを向いていた。辛うじて聞き取れるような音量だったのだと気づいたのは、彼女の唇がもう一度「なに」と動いてから。
「折れたんか」
傘、の一言は付けずに目を見返すと、徐々に意識がこちら側に戻ってきているのか、涙のにじみ始めた声が震えながら肯定した。タカの謝罪の叫びがひときわ大きくなる。
「ああああ、ほんまにすません! ばり反省しちょん! だけん泣かんでください、先輩っ!」
「お前が叫んじょったら、泣き止むもんも泣き叫びだすわっ! だぁっとれ、お前は!」
鈍くも小気味いい音がタカの脳天で炸裂し、そのまま傾くタカの体を飛び蹴りで排除すると、カズが涙をなみなみと溜めているの顔を覗き込んで矢継ぎ早に何か言い出す。の視線は、流れ作業で蹴倒されたタカに向いていたが。
「あんのばかたれは気にせんでよか! 今は傘をどうにかするのが先決たい! 泣くな!」
タカに負けず劣らず大声で慰めると言うより叱り飛ばしたカズは、音がするほどの速度でこちらを振り返ると、嫌に低い声でこちらを脅してきた。その形相は滅多にお目にかかれんほど、本気な表情やったと断言できる。俺は何を言われるか、ほんの少し息を飲んだ。
「ヨシ」
「なんか」
けれど続けられたカズの言葉は、予想より顎が外れるほど甘いもんやった。
「ん傘があんのばかたれショーエイに折られた」
「まぁ、こん状態見れば分かるっちゃ」
「だけん」
本当に、顎が外れるかと思ったんや。
「あんのばかたれの尻拭いとして、俺が送って行くけん、後始末んことよろしく頼む」
「は」
当たり前のように真剣な目つき特徴で滑らかに告げられた言葉は、俺の顎を外しかけるほどの威力を持ってカズん口からこぼれ出た。
視界の端に映っちょんタカは起き上がりかけた中腰の体勢で固まっちょんし、カズの後ろにおるなんち、弾みか何かで涙がぽろりと頬を伝っちょった。これはタカが泣かしたと言えるんやろか、カズが泣かしたっち言うんやろかと結構どうでもいいことまで考えた。顎が外れそうなせいやと思う。泣いち欲しくないはずの女子が泣いちょんに、そんなこと考えちしまうくらい、動揺しとんのやと思う。
けれどカズは本当に素なんか元々考えちょったことなんか、俺らの反応を不思議がるどころか、気にせずに「そんならな」とのらしい見覚えのある空色のキーホルダーのついちょんカバンを手に取り、の方へと身体の向きを直した。
「、そう言うことやけん送る。俺の傘に入れ、帰るぞ」
も驚いちょってなにか反応するまでいかんのか、折れた傘を握り締めたまま頭を上下に動かす。それをみたカズは満足げに「ん」と頷くと、「また明日やな、んならな」と俺らに向かって挨拶をする。挨拶を…。
「そっだらうらやましかこと、カズさんがするんやったら、俺が先輩送って行きます! カズさんずるかー!!」
呆然としたまま見送りそうになると、自分の傘を広げたカズの背中にタカの巨体がアタックをかました。反動でよろめくカズの身体は、見事に玄関の支柱にぶちあたった。硬質な良い音がしたように思うが、カズが声もなくしゃがんだので本気で痛がっとんのやろう。
はその音で正気を取り戻したんか、両手で傘を握り締めたまま「功刀くん!?」と裏返った声を出してカズの傍にしゃがみ込み、声高にずるい自分が送るを繰り返すタカを止めようと必死に声を出していた。
ああ、なんや必死に慌てながら言いよんは新鮮やなと変な方向に思考が行きかけたが、ようやく自分にも正気が戻ってきたらしい。夢から覚めたようにその他の雑音が聞こえ出してきた。
折りしも下校時刻、ギャラリーがおらんち思う方が甘い。女子も男子も入り乱れての、ひそひそこそこそ話し声が断片的に入ってくると、痛みから復活しつつあるカズといまだに文句を言い続けちょんタカの口論に終止符を打たんとなと、ため息を吐く。
「」
「じょ、じょうこうくーん…」
できるだけ優しく声をかけると、情けない声と顔をしたがこちらを振り返る。どうしよう、とその口が声もなく動くのを見て、泣くなやと頭を撫でたい衝動に駆られる。駆られるが、今それをやったら二人の口論のネタになるやろうけん、我慢して小声での会話を続ける。
「なんで折れたんか」
「あの、たかやまくんがな」
至近距離で二人の口論が続いちょんけん遠慮しちょんのか、は俺の顔を見たり二人の方を見たりとせわしなく顔を動かしながら、ぽつりぽつりと事情を話し始めた。
「最初は、部活休みになりました、よかったね、ほなら話しながら帰ろかって流れになってな。別におかしいことなかったんに、なんか途中で功刀くんが話しに入ってきてな」
頷いて相槌を打つとも小さく頷いて、話を続ける。握り締めちょった傘に視線が落ちて、声が少し篭もって聞こえるようになる。
「途中から勝負です、なんち変な話になっちょってな。高山くんが先輩、なんか武器ください言うけん私ん傘渡したんや。なーんも考えちなかった。そしたらな、ちゃんばらみたいなことになっていって…」
そこまで言うとが口をつぐんでしまった。これからさきは予想できることやけど、確認のためには聞かんとどうしようもない。何度目かのため息を吐くと、呆れた感情を隠さずに確認する。
「カズもなんぞ持って応戦して、ん傘が折れたんやな。くの字に」
「うん、功刀くんはモップやった……」
そりゃ折れるわとぼやいたら、そうやね、そう思うと泣き笑い声が帰ってきた。二人の口論はいまだに続いて、とうとうサッカーのセンスの話まで発展しちょった。あー、これは続くやろなぁとまたため息が漏れる。
「、家はどこやったか」
頭の中の住所録と地図を開きながら聞くと、は首を傾げながら学校から十五分ほど行った場所の住所を口にした。不思議そうな顔をしながら、目元を擦る姿は可愛いなと思った。
「でも、なんで聞くん」
「俺が送る。この二人やったら、埒があかんやろ」
カズが持っちょったのカバンは傘入れの端に置かれ、俺は立ち上がったついでにそのまま手に取る。確か傘は二人入っても平気やったよなと傘入れから引っ張り出すと、標準より大き目の傘が目に入る。これなら大丈夫やな。安心して開こうとしたら、立ち上がったが戸惑った表情でこちらを見上げていた。
「なん」
「いや、本当に……送っちくれるんかなーと、思って」
そう言うの目尻が、泣いた所為ではなく赤く色づいて見えたのを都合よく解釈して笑う。
「二人の尻拭いだけん送るんやないけんな、俺が送りたいんや」
ぱっと色粉が散ったみたいに頬を染めて目を丸くするに声を立てて笑うと、自分の荷物を背負い直しての頭を撫でた。
「帰ろか」
「う、うん」
慌てて返事をすると同じ傘の下、一歩外に足を踏み出して、が濡れんように自分より小さなその肩を抱き寄せる。痙攣するみたいに飛び上がったその身体を、笑いながらまた引き寄せると面白いように耳まで真っ赤になっちょった。
「……城光くんち、こんな人やったんやな」
「それ以上外にいったら、が濡れるけんな」
首筋も真っ赤に染めて、「今日はアンラッキーやないやんか」と何やらぶつくさ言うは、歩きながら何か考えていたのか。しばらくすると何も言わずにそっと自分から寄り添っちきた。
「」
「ありがとう」
何か言う前に被せられた言葉に、驚くと同時に笑みが漏れる。
「どういたしまして」
明日二人から受ける抗議なんて忘れて、今この時間を楽しもうか。
気になる子が好きな子に変わる瞬間は、こんなにもあっけなく居心地がいい。
「ありがとう」
はにかんだ笑顔で繰り返される言葉に、笑顔を返しながら思う。
「こちらこそ」
居心地のいい傘の下だけに存在する、晴天。